北海道・東日本パスを利用し3泊4日の予定で奥州、岩手・青森の城めぐりの旅に出かけました。
東北本線・小牛田(こごた)駅に到着
一ノ関駅に到着
盛岡駅に到着、1日目は盛岡で宿泊
IGRいわて銀河鉄道の盛岡駅
路線図。目時までがいわて銀河鉄道、目時以北は青い森鉄道です。
いわて銀河鉄道の電車
いわて沼宮内駅で乗り継ぎです。新幹線側の駅舎
JR東日本のポスター。ファイターズ大谷選手と駒ケ岳
いわて沼宮内の駅舎
青い森鉄道の電車。相互乗り入れです。
二戸駅。新幹線も停車します。九戸城は二戸市にあります。
二戸駅前
九戸城の城山下を流れる馬淵川。九戸城は西は馬淵川、北は白鳥川、東を猫渕川に囲まれた要害の平山城です。
久府坂と街道分岐点
酒店
安養寺・成田山
九戸城址入口
九戸城パンフレットが入っているポスト
パンフレット
堀跡
大手門付近
二の丸は現在発掘調査中です。
九戸城跡1/500模型
奥州南部氏に御家騒動が起こり、1591年に九戸政実は南部26代の信直に対して挙兵しました。信直は豊臣秀吉に援軍を要請し、九戸の決起は豊臣への反旗となり、豊臣秀次を総大将とする蒲生、浅野、井伊、南部、津軽、松前など6万の大軍に包囲されついに落城、九戸一族は惨殺されました。
御家騒動の発端は24代晴政の死後、実子の晴継が25代となるも不審死を遂げ、その後継争いに晴政の長女の婿養子・信直(晴政の従弟)と次女の夫・九戸実親が対立。九戸も南部の一族で、政実は実親の実兄です。南部一族どうしの争いのうちは九戸側が優勢でしたが、豊臣の大軍が相手では勝ち目はありませんでした。
このあたりの経緯は安部龍太郎の「冬を待つ城」が必読です。歴史上のどの争いもどっちが正当かは紙一重です。結論は勝てば官軍です。
二の丸跡
本丸堀
本丸虎口
本丸石垣。東北最古の石垣です。
本丸跡
本丸跡から見た三の丸跡の市街地
追手門跡
追手門付近
本丸石垣
土井晩翠「荒城の月」の碑。「荒城の月」のモデルは豊後岡城、会津若松城、仙台青葉城などいくつも説があります。
搦手門跡
石沢館(外館)跡
発掘調査
九戸城戦没者碑
本丸下を歩きパンフレットポストの場所へ戻ります。
城山下のモダンな中華レストラン
元警察署庁舎。移転したようです。
豊臣の大軍が滞陣した馬淵川
古戦場まつりのポスター。ゲストはプロレスラーの藤波辰爾です。
二戸駅に戻りました。
九戸政実の乱と一般にいいますが、私はこの場合の乱という言い方に違和感を感じます。歴史的に乱とは応仁の乱、島原の乱、大塩平八郎の乱など、朝廷・幕府への反乱または内乱状態をいうものであり、この九戸政実の場合は、豊臣政権に反乱したわけではない。南部信直と南部家の正統を争ったもので、あくまでも南部家内の御家騒動です。その御家騒動の一方に豊臣が加担し、大規模な戦いとなりました。またこの時点ではまだ豊臣秀吉の天下統一は成ったわけではなく、九戸・南部の戦いを最後に天下統一が完成します。中央の政権への反乱でも内乱状態でもないということです。小田原北条家との戦いも北条の乱とは言わないですからね。
話変わって歴史上の変とは、政権交代を伴う軍事行動や謀略・陰謀事件を指すようです。その代表は本能寺の変で、ほかにも桜田門外の変、禁門の変など。乱、変のほかに、役の定義もあいまいです。
西南戦争ともいえば西南の役ともいう。神風連は乱で西南戦争は乱ではないのか。私は西南戦争は鹿児島私学校の乱、あるいは西郷隆盛の乱というのが正しいと思うがどうでしょう。
東北本線・小牛田(こごた)駅に到着
一ノ関駅に到着
盛岡駅に到着、1日目は盛岡で宿泊
IGRいわて銀河鉄道の盛岡駅
路線図。目時までがいわて銀河鉄道、目時以北は青い森鉄道です。
いわて銀河鉄道の電車
いわて沼宮内駅で乗り継ぎです。新幹線側の駅舎
JR東日本のポスター。ファイターズ大谷選手と駒ケ岳
いわて沼宮内の駅舎
青い森鉄道の電車。相互乗り入れです。
二戸駅。新幹線も停車します。九戸城は二戸市にあります。
二戸駅前
九戸城の城山下を流れる馬淵川。九戸城は西は馬淵川、北は白鳥川、東を猫渕川に囲まれた要害の平山城です。
久府坂と街道分岐点
酒店
安養寺・成田山
九戸城址入口
九戸城パンフレットが入っているポスト
パンフレット
堀跡
大手門付近
二の丸は現在発掘調査中です。
九戸城跡1/500模型
奥州南部氏に御家騒動が起こり、1591年に九戸政実は南部26代の信直に対して挙兵しました。信直は豊臣秀吉に援軍を要請し、九戸の決起は豊臣への反旗となり、豊臣秀次を総大将とする蒲生、浅野、井伊、南部、津軽、松前など6万の大軍に包囲されついに落城、九戸一族は惨殺されました。
御家騒動の発端は24代晴政の死後、実子の晴継が25代となるも不審死を遂げ、その後継争いに晴政の長女の婿養子・信直(晴政の従弟)と次女の夫・九戸実親が対立。九戸も南部の一族で、政実は実親の実兄です。南部一族どうしの争いのうちは九戸側が優勢でしたが、豊臣の大軍が相手では勝ち目はありませんでした。
このあたりの経緯は安部龍太郎の「冬を待つ城」が必読です。歴史上のどの争いもどっちが正当かは紙一重です。結論は勝てば官軍です。
二の丸跡
本丸堀
本丸虎口
本丸石垣。東北最古の石垣です。
本丸跡
本丸跡から見た三の丸跡の市街地
追手門跡
追手門付近
本丸石垣
土井晩翠「荒城の月」の碑。「荒城の月」のモデルは豊後岡城、会津若松城、仙台青葉城などいくつも説があります。
搦手門跡
石沢館(外館)跡
発掘調査
九戸城戦没者碑
本丸下を歩きパンフレットポストの場所へ戻ります。
城山下のモダンな中華レストラン
元警察署庁舎。移転したようです。
豊臣の大軍が滞陣した馬淵川
古戦場まつりのポスター。ゲストはプロレスラーの藤波辰爾です。
二戸駅に戻りました。
九戸政実の乱と一般にいいますが、私はこの場合の乱という言い方に違和感を感じます。歴史的に乱とは応仁の乱、島原の乱、大塩平八郎の乱など、朝廷・幕府への反乱または内乱状態をいうものであり、この九戸政実の場合は、豊臣政権に反乱したわけではない。南部信直と南部家の正統を争ったもので、あくまでも南部家内の御家騒動です。その御家騒動の一方に豊臣が加担し、大規模な戦いとなりました。またこの時点ではまだ豊臣秀吉の天下統一は成ったわけではなく、九戸・南部の戦いを最後に天下統一が完成します。中央の政権への反乱でも内乱状態でもないということです。小田原北条家との戦いも北条の乱とは言わないですからね。
話変わって歴史上の変とは、政権交代を伴う軍事行動や謀略・陰謀事件を指すようです。その代表は本能寺の変で、ほかにも桜田門外の変、禁門の変など。乱、変のほかに、役の定義もあいまいです。
西南戦争ともいえば西南の役ともいう。神風連は乱で西南戦争は乱ではないのか。私は西南戦争は鹿児島私学校の乱、あるいは西郷隆盛の乱というのが正しいと思うがどうでしょう。
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