オーロラ特急    ノスタルジック旅日記 

旅好き、歴史好き、鉄道好き、クルマ好き、カメラ好きの団塊ボーイが社会科見学的な旅を続けます。

【アーカイブ】2012青森の旅 十和田市現代美術館、奥入瀬渓谷

2020年05月30日 | 青森・秋田・岩手
十和田市現代美術館
寺山修司は三沢市の出身。三沢市には寺山修司記念館があります。右は青森県立三沢航空科学館のポスター。三沢というと寺山のほかにもう一人、ピュリッツァー賞受賞の報道写真家・沢田教一も同市出身です。草間彌生の作品奥入瀬渓流ホテル館内千筋の滝白布の滝雲井の滝白糸の滝不老の滝九段の滝魚止めの滝(銚子大滝)奥入瀬渓谷の賦佐藤春夫の詩碑橋の先は十和田湖十和田湖。奥入瀬渓谷沿いに歩いてきましたが、冬期はバスの本数が極端に少なく、帰りは苦労をしました。八戸の八食市場八戸線の列車鮫駅鮫駅前のジョーズ像
蕪嶋神社本殿本殿前からの眺め蕪島はウミネコの繁殖地として有名です。もとは島でしたが埋め立てで陸続きになっています。蕪島神社は2015年に火災で焼失し2019年に再建されました。

【アーカイブ】2012道南の旅 大沼、江差・開陽丸、松前

2020年05月19日 | 北海道
2012年6月、大沼に2泊し、レンタカーで函館、江差、松前を周遊しました。
大沼の湖畔のレストラン。湖ではないが湖畔という語句を使いました。湖と沼の違いは何かというと、沼は湖より比較的水深が浅く、ヨシなど水生植物が茂っているというのが定義です。車を走らせて厚沢部経由で江差に来ました。榎本艦隊の旗艦・開陽丸の原寸大レプリカです。オランダによって建造されたスクリュー推進の鉄張り木造船です。排水量2590トン、16センチ・クルップ砲16問を搭載。ペリー艦隊のような外輪船ではない、当時の世界最新レベルの軍艦です。。箱館戦争の時、榎本艦隊は江差攻撃に参加し、暴風で座礁し沈没しました。レプリカは1990年に完成しました。艦内の弾薬庫。これらの砲弾はすべて海中から引き揚げられた実物です。模型開陽丸の絶好の撮影ポイントである防波堤へは徒歩では行けません。防波堤に行くには渡船と許可が必要です。
開陽丸については佐々木譲の「武揚伝」、安部龍太郎の「開陽丸、北へ」などで描かれています。ちなみに佐々木譲は生まれは夕張、高校は札幌です。「エトロフ発緊急電」以来ファンになり、国際サスペンスもの、北海道もの、歴史ものなどかなり読みました。網元の横山家江差線の終着駅、江差駅江差駅ホーム。江差線木古内・江差間は2014年に廃線になりました。
小学校3年の時、親父が奥尻島で仕事をしていたので、学校の夏休みを利用し親父に連れられて奥尻へ行きました。海が荒れていたので江差の宿で数泊し、奥尻に渡りましたが、私は船は初体験、小さな船は大揺れ、船酔いでゲーゲーでした。島での滞在は1週間程度だったと思いますが、夏風邪を引いて数日寝込み、帰りの船ではまたも船酔い。よく生きて帰ってきたものだと思います。私は虚弱児でした。江差から海沿いにドライブし松前に到着松前城の天守は旧国宝の指定を受けていましたが1949年に失火により焼失しました。現在の天守は1960年に復元されたものです。私は小学校1年のときに母親と松前に来ています。桜の時期だったと思いますが、なんとなくしか覚えていません。松前城跡は里桜の名所です。大沼湖畔の日暮山展望台から見た秀峰・駒ケ岳。独立峰で姿が美しい活火山です。標高は1131m、別名渡島富士。1929年(昭和4年)6月に噴火し、死者2名のほか多数の家畜被害が出ました。大沼はもともと駒ケ岳の噴火によってせき止められた湖沼群です。私は小学校の遠足で駒ケ岳、8合目の馬の背まで登りました。頂上剣ヶ峰は立入禁止です。2012年6月の時、車で登山口まで行きました。その後ネットで調べると車で6合目まで行けるそうです。6号目からだと8合目までは約1時間半。往復2時間半なら今の私の体力でも行けそうな気がします。行きたいですね。大沼・小沼・ジュンサイ沼、剣ヶ峰、内浦湾が一望できます。小学校の時は最寄り駅からだらだら歩きました。
大沼のボート上から撮影した駒ケ岳水上レストラン
大沼公園駅

【アーカイブ】2012道南の旅 啄木公園、函館山、五稜郭

2020年05月18日 | 北海道
2012年6月、函館、大沼、江差、松前をレンタカーで周遊しました。石川啄木小公園。私は幼稚園、小学校、中学校を函館で育ちました。この小公園は小学校の頃に出来ました。啄木銅像は札幌出身の本郷新の作品です。台座には啄木の「潮かをる北の浜辺の砂山のかの浜薔薇(はまなす)よ今年も咲けるや」の詩が刻まれています。私の子供の時はこのすぐ近くに砂山がありました。今は完全に失われています。
「眠れる君に捧ぐべき 矢車草の花もなく ひとり佇む五月寒 立待岬の波静か おもひでの砂ただひかる」西條八十が啄木に捧げた詩です。ちなみに啄木が「東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたはむる」の詩をつくったのはここ大森浜です。で、謎なのは東海とはどこか、大森浜には島はない、ということ。多くの人の説では、東海の小島とは日本という狭い島国のことのようです。一方で函館山は古代は島だったのが砂州でつながって現在の函館の地形が形成されたので、東海の小島は函館山をのことだという説もあります。啄木小公園のすぐとなり、土方・啄木浪漫館。土方と啄木はまったく無関係です。いやはや商魂たくましい。私は土方歳三の最後の地函館で育ち、東京では数年間歳三が生まれた日野で暮らしました。私が子供の頃は新選組と近藤勇は知っていたが、土方は知らなかった。土方が有名になったのはやはり司馬遼太郎の「燃えよ剣」以降ですね。「燃えよ剣」の新作映画が今年秋にも公開予定です。主演は岡田准一です。岡田准一は嫌いではないが、石田三成も土方歳三もピンとこない。黒田官兵衛はよかったと思いますが。ちなみに「新選組始末記」の作者・子母澤寛は札幌の郊外、当別町の出身です。函館山山頂函館どっく立待岬本州の下北半島。こんなにはっきり見えるのは珍しいです。恵山岬函館市街。函館山は古代は島でしたが、砂が堆積して陸続きになりました。両側の海岸の最短部は1000メートルほどです。函館ロープウェー。1958年(昭和33年)開業です。親戚の叔母、いとこたちと一緒に初めてロープウェーというものに乗りました。テレビ塔。私が小学校後半のころに函館山にテレビ塔が建設され函館はテレビ時代を迎えました。函館でのNHK放送開始は1957年、HBC(TBS系)は1958年、STV(NTV系)は1961年。私はNHKで「お笑い三人組」を見、初の民放HBCでコマーシャルを初体験、STVでプロレスを初めて見ました。
函館山は1950年代後半に一気に民間利用が進みましたが、終戦までは陸軍の要塞地帯で民間人は一切立入禁止でした。小学校の遠足では函館山の要塞跡に行きました。地元では要塞跡ではなく「防空壕跡」と呼んでました。函館市芸術ホール道立函館美術館芹沢銈介展を開催右奥は五稜郭タワー五稜郭タワーから見た五稜郭。私の小学校の校庭はコンクリート舗装をしていました。土のグラウンドがなかったので、運動会は五稜郭で行われました。現在の奉行所あたりです。五稜郭の堀は冬になると凍結し、冬期はスケートリンクになっていました。中央は市民ホール、右手は函館美術館函館山中央図書館会津・旧幕府軍の大砲レプリカ薩長・官軍の大砲レプリカタワー内、箱館戦争関連の展示物復元された箱館奉行所。内部は博物館です。裏門橋五稜郭の堀と五稜郭タワー。初代のタワーは1964年完成、2代目の現タワーは2006年完成です。私が小中学校の時はタワーも奉行所もありませんでした。函館市中央図書館
函館ローカルのハンバーガーチェーン、ラッキーピエロ。ハンバーガーが主体ですが、総合食堂のようにメニューは豊富です。

奉行所内の博物館と北洋資料館はゆっくり見学したいですね。私の旅はいつも急ぎ旅です。貧乏性というか欲張りというか、日程はやたら忙しい。
コロナ自粛中に映画「海炭市叙景」をアマゾンプライムビデオで見ました。海炭市という地方都市が舞台ですが、明らかに函館が主題です。オムニバス方式の第1話はどっく(造船所のこと)に勤務する兄と妹は人員整理で失業し、初日の出を見にロープウェーで函館山に登るが復路のきっぷを買うお金が足りないので妹だけが乗車し、兄は一人で徒歩で下山、そのまま行方不明になるというお話です。後日山の中腹、崖の下から遺体は発見されました。原作は私と同年代の函館出身の作家、佐藤泰志です。経済の衰亡の様子を色濃く背負った作品で、現在のコロナ後の経済を暗示しているかのようでした。
海炭市という架空の都市名、ちょっと気になるのは海はわかるとして、炭とは何でしょうか。函館の近くに炭鉱はなかった。美唄や夕張のような炭鉱都市の現在を重ね合わせているんでしょうか。
函館は日本が高度成長期だったころから斜陽都市と言われ続けてきました。1960年代当時北海道には不況産業「3つのH」があり、1つは函館どつく、2つめは北洋漁業、3つめは北炭(北海道炭砿汽船)。3Hのうちの2H、函館どっくと北洋漁業は函館にありました。函館どつくは1960年代から業績は低迷、一時来島どっくの傘下に入りましたが、現在は名村造船の完全子会社となって修繕船事業だけを続けています。北洋業業は日ソ漁業交渉の打ち切りや200海里規制、サケ・マスの母川国主義、さらに燃料価格の上昇など多くの要因が重なってほぼ消滅状態です。

函館市の人口推移を見ると、開拓初期から北海道では最大の都市で、1914年に10万人を超え、1933年に21万7000人。1940年に札幌に抜かれて道内第2位に後退、1965年に旭川にも抜かれて道内3位。1973年には亀田市と合併し30万人超えるもその後減少を続けて2019年現在25万5358人。毎年1%強の人口減少が続いています。
北海道の人口は1959年に500万人を超え、1997年にピークの569万人、2018年は534万人。札幌市は1960年頃から人口が急増し、現在は196万人です。炭鉱の閉山によっておもに空知地区からの転入が増加した結果です。北海道の人口は減少傾向だが、札幌だけが増加しています。札幌の人口が増えているからといって札幌に産業があるというわけでもなく、札幌以外には仕事も居場所もないから札幌に集まるという、どうしようもない状況が北海道で続いているのです。


【アーカイブ】青梅の旅 吉川英治文学館、町の映画看板

2020年05月17日 | 東京
2012年3月、しだれ梅を見に青梅へ行きました。駅ホームの立ち食いそば駅の地下通路東映「大いなる旅路」、主演は三國連太郎。子供向けの映画ではなかったが、看板、予告編はなんとなく覚えています。
イタリア映画「鉄道員」。札幌の東映パラスで上映。「ティファニーで朝食を」。鉄道と関係があるんでしょうか?「旅路」。NHK朝の連続ドラマ「旅路」は覚えているが、この映画は記憶にありません。イタリア映画「終着駅」「快傑黒頭巾」。鉄道とはまったく無関係です。「鉄道員ぽっぽや」。駅構内なので鉄道の映画看板が多いです。鉄道を主体にした映画というとほかに思いつくのはバート・ランカスターの「大列車作戦」、フランク・シナトラの「脱走特急」、アガサ・クリスティー原作の「オリエント急行殺人事件」、ショーン・コネリーの「007ロシアより愛をこめて」、アラン・ドロンの「リスボン特急」、クワイ川マーチの「戦場にかける橋」、邦画では「天国と地獄」、「点と線」、「喜劇◯◯列車」シリーズ、高倉健の「新幹線大爆破」「駅STATION」など。青梅駅舎昭和レトロな商店昭和以前の商家しだれ梅で有名な明白院多摩川中流部梅の公園紅梅白梅吉川英治記念館。吉川英治は神奈川県出身ですが、戦争中に青梅に疎開し執筆活動を続けました。書斎青梅市街地に戻りました。昭和レトロ商品博物館

内田吐夢監督の「宮本武蔵一乗寺の決闘」。原作は吉川英治。中村錦之助は若手スターから本物の時代劇役者へと変身を遂げました。その後は、一時ヤクザ映画にも出演し「子連れ狼」の拝一刀、萬屋錦之介となっていきます。
赤塚不二夫会館「明日に向かって撃て」「道」ヒッチコックの「鳥」>ソフィア・ローレンの「河の女」ひばり・いずみ・チエミの「ジャンケン娘」は知りません。「凱旋門」「哀愁」「白鯨」嵐寛寿郎の「丹下左膳」。私は大友柳太朗の「丹下左膳」は見ました。「駅馬車」、名画座で見ました「緋牡丹博徒お竜参上」、リアルタイムで見ました。青梅には久保板観という有名な看板絵師がいたことで、映画看板による町おこしが始まりました。数年前の台風の被害で多くの映画看板は撤去されたようです。

【アーカイブ】小田原・箱根の旅 早川港、強羅、芦ノ湖

2020年05月15日 | 神奈川
依然私は活動を自粛中です。当ブログは2014年秋にスタートしました。当然それ以前の旅の記録は当ブログには掲載されていません。活動自粛期間を利用し過去を振り返って写真をぼちぼちとアップロードします。 2012年5月の小田原・箱根の旅の写真です。2泊3日の旅でしたが、1日目と3日目は曇り、2日目は大雨、小田原、強羅、芦ノ湖を周遊しました。宿は文京区の施設「文の郷」でした。5、6年前に閉鎖されました。 早川駅西湘バイパスの橋早川港小田原文学館。田中光顕の旧別邸です。文学館の2階テラス庭園小田原市内で見つけた書店ういろう博物館御感の藤小西薬局小田原城箱根登山電車強羅ケーブルカー芦ノ湖海賊船箱根神社山のホテル内部ツツジ湿生花園の水芭蕉オオバナノエンレイソウ。漢字では延齢草です。 8年前の写真を掘り起こしてアップしました。振り返って見ると写真への執着が今よりかなり不足しています。