2012年6月、函館、大沼、江差、松前をレンタカーで周遊しました。
石川啄木小公園。私は幼稚園、小学校、中学校を函館で育ちました。この小公園は小学校の頃に出来ました。啄木銅像は札幌出身の本郷新の作品です。台座には啄木の「潮かをる北の浜辺の砂山のかの浜薔薇(はまなす)よ今年も咲けるや」の詩が刻まれています。私の子供の時はこのすぐ近くに砂山がありました。今は完全に失われています。
「眠れる君に捧ぐべき 矢車草の花もなく ひとり佇む五月寒 立待岬の波静か おもひでの砂ただひかる」西條八十が啄木に捧げた詩です。ちなみに啄木が「東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたはむる」の詩をつくったのはここ大森浜です。で、謎なのは東海とはどこか、大森浜には島はない、ということ。多くの人の説では、東海の小島とは日本という狭い島国のことのようです。一方で函館山は古代は島だったのが砂州でつながって現在の函館の地形が形成されたので、東海の小島は函館山をのことだという説もあります。
啄木小公園のすぐとなり、土方・啄木浪漫館。土方と啄木はまったく無関係です。いやはや商魂たくましい。私は土方歳三の最後の地函館で育ち、東京では数年間歳三が生まれた日野で暮らしました。私が子供の頃は新選組と近藤勇は知っていたが、土方は知らなかった。土方が有名になったのはやはり司馬遼太郎の「燃えよ剣」以降ですね。「燃えよ剣」の新作映画が今年秋にも公開予定です。主演は岡田准一です。岡田准一は嫌いではないが、石田三成も土方歳三もピンとこない。黒田官兵衛はよかったと思いますが。ちなみに「新選組始末記」の作者・子母澤寛は札幌の郊外、当別町の出身です。
函館山山頂
函館どっく
立待岬
本州の下北半島。こんなにはっきり見えるのは珍しいです。
恵山岬
函館市街。函館山は古代は島でしたが、砂が堆積して陸続きになりました。両側の海岸の最短部は1000メートルほどです。
函館ロープウェー。1958年(昭和33年)開業です。親戚の叔母、いとこたちと一緒に初めてロープウェーというものに乗りました。
テレビ塔。私が小学校後半のころに函館山にテレビ塔が建設され函館はテレビ時代を迎えました。函館でのNHK放送開始は1957年、HBC(TBS系)は1958年、STV(NTV系)は1961年。私はNHKで「お笑い三人組」を見、初の民放HBCでコマーシャルを初体験、STVでプロレスを初めて見ました。
函館山は1950年代後半に一気に民間利用が進みましたが、終戦までは陸軍の要塞地帯で民間人は一切立入禁止でした。小学校の遠足では函館山の要塞跡に行きました。地元では要塞跡ではなく「防空壕跡」と呼んでました。
函館市芸術ホール
道立函館美術館
芹沢銈介展を開催
右奥は五稜郭タワー
五稜郭タワーから見た五稜郭。私の小学校の校庭はコンクリート舗装をしていました。土のグラウンドがなかったので、運動会は五稜郭で行われました。現在の奉行所あたりです。五稜郭の堀は冬になると凍結し、冬期はスケートリンクになっていました。
中央は市民ホール、右手は函館美術館
函館山
中央図書館
会津・旧幕府軍の大砲レプリカ
薩長・官軍の大砲レプリカ
タワー内、箱館戦争関連の展示物
復元された箱館奉行所。内部は博物館です。
裏門橋
五稜郭の堀と五稜郭タワー。初代のタワーは1964年完成、2代目の現タワーは2006年完成です。私が小中学校の時はタワーも奉行所もありませんでした。
函館市中央図書館
函館ローカルのハンバーガーチェーン、ラッキーピエロ。ハンバーガーが主体ですが、総合食堂のようにメニューは豊富です。
奉行所内の博物館と北洋資料館はゆっくり見学したいですね。私の旅はいつも急ぎ旅です。貧乏性というか欲張りというか、日程はやたら忙しい。
コロナ自粛中に映画「海炭市叙景」をアマゾンプライムビデオで見ました。海炭市という地方都市が舞台ですが、明らかに函館が主題です。オムニバス方式の第1話はどっく(造船所のこと)に勤務する兄と妹は人員整理で失業し、初日の出を見にロープウェーで函館山に登るが復路のきっぷを買うお金が足りないので妹だけが乗車し、兄は一人で徒歩で下山、そのまま行方不明になるというお話です。後日山の中腹、崖の下から遺体は発見されました。原作は私と同年代の函館出身の作家、佐藤泰志です。経済の衰亡の様子を色濃く背負った作品で、現在のコロナ後の経済を暗示しているかのようでした。
海炭市という架空の都市名、ちょっと気になるのは海はわかるとして、炭とは何でしょうか。函館の近くに炭鉱はなかった。美唄や夕張のような炭鉱都市の現在を重ね合わせているんでしょうか。
函館は日本が高度成長期だったころから斜陽都市と言われ続けてきました。1960年代当時北海道には不況産業「3つのH」があり、1つは函館どつく、2つめは北洋漁業、3つめは北炭(北海道炭砿汽船)。3Hのうちの2H、函館どっくと北洋漁業は函館にありました。函館どつくは1960年代から業績は低迷、一時来島どっくの傘下に入りましたが、現在は名村造船の完全子会社となって修繕船事業だけを続けています。北洋業業は日ソ漁業交渉の打ち切りや200海里規制、サケ・マスの母川国主義、さらに燃料価格の上昇など多くの要因が重なってほぼ消滅状態です。
函館市の人口推移を見ると、開拓初期から北海道では最大の都市で、1914年に10万人を超え、1933年に21万7000人。1940年に札幌に抜かれて道内第2位に後退、1965年に旭川にも抜かれて道内3位。1973年には亀田市と合併し30万人超えるもその後減少を続けて2019年現在25万5358人。毎年1%強の人口減少が続いています。
北海道の人口は1959年に500万人を超え、1997年にピークの569万人、2018年は534万人。札幌市は1960年頃から人口が急増し、現在は196万人です。炭鉱の閉山によっておもに空知地区からの転入が増加した結果です。北海道の人口は減少傾向だが、札幌だけが増加しています。札幌の人口が増えているからといって札幌に産業があるというわけでもなく、札幌以外には仕事も居場所もないから札幌に集まるという、どうしようもない状況が北海道で続いているのです。