オーロラ特急    ノスタルジック旅日記 

旅好き、歴史好き、鉄道好き、クルマ好き、カメラ好きの団塊ボーイが社会科見学的な旅を続けます。

埼玉県立近代美術館「戦後住宅伝説」展、旧中仙道浦和宿を歩く

2014年08月31日 | 埼玉
8月31日、日曜日、私は日曜日はあまり出かけないのですが、浦和の美術館の企画展が最終日だったので、北浦和へ出かけ、そのあと懐かしの浦和宿を歩いてきました。私は20代の5年間、浦和の仲町、旧中仙道の近くに住んでいました。
北浦和駅で下車。駅前はあまり変わっていないですね。
北浦和公園の噴水。音楽に合わせて噴水の水が踊ります。右側のサキソフォーンに注目。北浦和公園は昔、旧制浦和高校があった場所です。旧制浦和高校は今の埼玉大学となっています。
近代美術館の外観。設計は黒川紀章です。
館内の吹抜構造。
日本戦後住宅伝説展は、戦後日本の住宅建築を先導してきた建築家の足跡を紹介するものです。丹下健三、清家清、磯崎新、菊竹清訓、宮脇檀、黒川紀章、伊東豊雄、安藤忠雄ら錚々たる16人。16人の中に北海道では著名な毛綱毅曠も含まれていました。毛綱毅曠(故人)は釧路市出身で、釧路市立博物館や湿原展望台、フィッシャーマンズ・ワーフ、キャッスルホテルなどの建築で知られています。
日曜日なのでバンドの生演奏をやっていました。
さてこれからは浦和の散策です。北浦和駅近くの埼玉メディカルセンター。昔の埼玉社会保険病院です。今は独立行政法人地域医療機能推進機構による経営です。こんなに立派になりました。
このあと線路沿いを旧中仙道へと歩きました。
浦和橋近くの鉄道ショップ。店の前のディスプレーがいいですね。
出桁造りの商家4連発です。常盤のあたりはまだ古い家が残っています。
ロイヤルパインズホテル。3階にうらわ美術館があります。こんな大きなビルは40年前には勿論なかった。
うらわ美術館ではフランスの絵本の企画展をやっていました。パスです。
老舗のうなぎ屋、山崎屋。
老舗の奈良漬屋、酒井商店。
浦和レッズのオフィシャルショップ。私が住んでいたころは街なかにサッカーの匂いはほとんどなかったです。今、浦和は浦和レッズのまちです。漫画「熱き血のイレブン」は確か浦和南高がモデルでした。
よく行った本屋、須原屋書店。
写真上から玉蔵院の参道、境内、本堂。私はこの近くに約5年間住んでいました。
埼玉県立文書館で「鳥瞰図の世界展」を見ました。黒澤達矢氏の作品です。10年ほど前に氏の鳥瞰図を初めて見たときは大感激でした。
さくら草通りで古本市をやっていました。
写真上から浦和駅東口の伊勢丹、コルソ、西口のパルコです。都内へ引っ越したあと何度も浦和へ来ていますが、来るたびに驚きます。まさに隔世の感です。
写真上は工事中の浦和駅西口。下の写真は完成した東口。昔、浦和駅は本当に田舎の駅風でした。東北本線・高崎線の特急・急行は一切停車せず、中距離電車も朝夕しか停車しませんでした。特急・急行の停まらない県庁所在地の駅として有名でした。
改札口と東西の連絡通路。東口と西口でこんなに高低差があるとは知りませんでした。





旧中山道板橋宿を歩く

2014年08月30日 | 東京
7月に旧中仙道の巣鴨からJR板橋駅までを歩いたので、今回はJR板橋駅から板橋宿を通り、環7通りまで散歩しました。

JR板橋駅の北側には10年ほど前にURの高層マンションが建設されました。

板橋駅よりやや南側ですが、滝野川の地場産業の種苗店があります。7月の散歩の際は撮影していませんでした。

素朴なJR板橋駅の駅舎です。以前の赤羽線の駅ですが、埼京線となったあとも赤羽・池袋間は昔のままですね。JRとしてはこの区間も快速運転をしたいのでしょうが、土地の余裕がないので待避線はつくれません。

板橋駅前の大木は「むすびのけやき」という名前です。板橋宿の「縁切榎」は有名ですが、縁切りだけでは片手落ちなので、縁結びも引き受けようということらしいです。

しばらく行くと国道17号線を横切ります。

いよいよ旧宿場町の面影が残る板橋宿です。板橋宿は日本橋よりから平尾宿、仲宿、上宿と続き、本陣は仲宿に1軒、脇本陣は各宿に1軒あったそうです。

花の湯という銭湯。堂々たる構えですね。

歴史的建築の商家が今はマンションの現地販売所となっています。

モダンなマルジューベーカリー。「丸十」という屋号のパン屋は都内あちこちにありますが、その進化系なんでしょうか。

いよいよ板橋の名前の由来となった板橋です。写真で見ると一見木製のように見えますが、コンクリートを木の色に塗装したものです。

縁切榎です。板橋区はほかにも五本榎という有名な榎が川越街道にあって、榎は板橋区の区の木となっています。
ここまでが都内の旧中仙道のハイライトですね。ここから先はそんなに特徴的な物は残っていません。

私は若いころ5年余り浦和の旧中仙道の近くに住んだことがあるので、中仙道には思い入れがあります。都内や埼玉の中仙道を歩いたり、自転車で走ったり、若い時は中仙道沿いに国道17号、18号をバイクで妻籠、馬籠まで走ったことがあります。
いつか中仙道を京都まで完歩したいとも思っているのですが、体力的にいまいち自信がないことと、いざ実行するとなると退屈な区間がけっこう多いのでその間は我慢ができるかどうか心配です。
中山道と中仙道、どっちが正しいか。最近は中山道のほうが多く見かけますが、私はどちらかというと中仙道のほうが好きですね。もともとは中山道、中仙道、仲仙道といろんな書き方があったらしい。明治の頃までは手書きが中心だったので、書く人によってまちまちだったようです。活字印刷やマスコミの発達に伴い、統一してなければおかしいという風潮になったのだと私は思っています。


埼玉県立歴史と民俗の博物館「江戸の街道」展を見て、大宮公園を歩く

2014年08月29日 | 埼玉

埼玉県立歴史と民俗の博物館で「江戸と街道」展が行われています。私は旅が好き、道路、とくに旧街道は好き、地図も好き、埼玉県立歴史と民俗の博物館はまだ行ったことがない、ということで「江戸と街道」展を見にいってきました。

大宮で東武線野田線に乗り換えです。最近、野田線はアーバンパークラインと呼び方が変わったそうです。なんですかね、これは。東武伊勢崎線は、スカイツリーが東武が社運をかけたビッグプロジェクトなのでスカイツリーラインへの呼称変更もわからないではない。またスカイツリーラインと言われればどこの路線かはわかる人にはわかるが、アーバンパークラインではどこの路線かわからない。新しく開通したモノレールかと思いますよ。次に東武東上線もカタカナ名称へ変更を考えているんでしょうか。
JRの大宮駅の乗換案内の表示は野田線のままです。野田線に乗るつもりの人たちは戸惑いますね。JRも他社の都合で路線名が変わったからといって、そう素早く対応はしにくいし、第一、字数が多すぎて困っているでしょうね。

そのアーバンパークラインの電車に乗車します。

アーバンパークラインの大宮公園駅です。路線名と駅舎の違和感は大きいです。

埼玉県立歴史と民俗の博物館の入口です。

博物館のメインロビー。立派な建物です。
多くの街道絵図が展示されていました。長い街道を平面に表示するのですから、当然ながら絵図は長尺になります。街道が曲がっていると紙幅から飛びだしますね。それを防ぐために曲がり角では現代風にいうと「北北西に曲がる」といったような注釈をつけて道はほぼ一直線に描かれています。その逆に曲がり角では忠実に道を曲げて描いた絵図もありますが、その場合は長距離は無理ですね。
日光街道の栗橋の渡の船橋の説明が面白かった。将軍が日光参拝に行く際は、利根川に船橋を架けます。川に何艘もの船を浮かべて繋ぎ、その上に丸太を筏状に組んで載せて、その上に筵を何枚も敷き、さらにその上に土を敷き詰めたそうです。将軍の行列だと大変なものですね。
博物館の帰りは大宮公園周辺を散策しました。大宮公園と氷川神社は隣接していますが、公園内にもう一つ神社、護国神社があります。遺品展示館があって、埼玉の靖国神社ですね。

氷川神社の裏参道です。裏参道から旧中仙道へ出て表参道へと歩きました。

大宮アルディージャのショップ「オレンジスクエア」です。

氷川神社の表参道です。表参道は大宮駅よりもっと南へ伸びていて、さいたまアリーナ近くで旧中仙道につながります。

平成29年は明治天皇御親祭150年祭だそうです。

参道の団子屋です。

氷川神社の楼門。

舞殿(写真左)と拝殿(同右)。

帰りは表参道から一ノ宮通りを歩きましたが、一ノ宮通りには歴史的な商家が残っています。






東京都写真美術館 「岡本昭彦の写真」展を見る

2014年08月28日 | 東京
恵比寿ガーデンプレイスの東京都写真美術館で「岡本昭彦の写真」展を開催中です。岡本昭彦は岩波新書「南ヴェトナム戦争従軍記」の著者として有名ですが、氏は写真家、カメラマンであるのに私は彼の作品はあまり記憶していません。あらためて岡本氏の写真を見にいきました。

恵比寿ガーデンプレイスの正面入口です。

恵比寿駅側から見た東京写真美術館。立派な建物です。


一方の目黒側から見た東京都写真美術館。写真美術館としては目黒側が正面玄関です。


岡村昭彦は東京医学専門学校(現東京医科大学)に入学したが中退。通信社の特派員としてベトナム戦争を取材、「ライフ」誌に岡村の写真特集が掲載され注目を集める。次に「南ヴェトナム戦争従軍記」が出版され、大ベストセラーに。ベトナム後はドミニカ、タヒチ、ハワイ、ビアフラ、アイルランドなどを取材。晩年はバイオエシックス(生命倫理)、ホスピスとも取り組みました。
医学校を中退したあとの20代に函館の書店に勤務したそうです。私は函館育ちで、その頃私は小学校の低学年でした。函館には店員を雇うような書店は3、4軒しかなかった。そのうち2店は私の家のすぐ近くでした。ひょっとしたら若き日の岡村氏と私はすれ違っていた可能性もなくはない。
「南ヴェトナム戦争従軍記」のコーナーには本の生原稿や愛用のニコンとライカが展示されていました。岩波書店から校正を終えて著者へ生原稿が返却された際の封筒があって、岡村氏の当時の住所は豊島区高田。都電荒川線の学習院下、面影橋のあたりです。私の現在の行動範囲の中です。時代は相当違っていますが。
岡村氏のカメラ、ニコンFには105ミリのレンズ、ライカM4は35ミリのレンズ。準望遠と準広角をうまく使い分けていますね。参考にしたい。
岡村氏は56歳で敗血症のため亡くなりました。若いですね。亡くなった病院はなんと新宿の春山外科病院です。中央線の新大久保駅の近くにある小さな病院で、今もあります。電車からよく見えます。








火山活動が続く草津白根山へ車の旅

2014年08月26日 | 群馬
日本百名山の一つ、草津白根山を目指します。私は山好きではありますが、本格的な登山ではなく、あくまで軽登山というレベルで、学生時代を除けばすべて日帰り登山です。日本百名山のうち私が登ったのは、北海道の大雪山(旭岳・黒岳)、十勝岳、利尻岳、羅臼岳、羊蹄山、本州では日光白根山、谷川岳、那須岳(茶臼岳)、大菩薩嶺、金峰山、四阿山、筑波山、以上の12。上級の山は皆無、もっぱら初級・中級の山ばかりです。大雪山はまだロープウェーがなかったころに旭岳・黒岳などを縦走し、その後中年になってロープウェーを利用して旭岳、黒岳にそれぞれ登りました。那須岳、筑波山はあきらかに初級者の山ですね。これらを含めて12の山ですから、実力・実績はまるで大したことはない。

今回は百名山の一つでありながら、初級者でも簡単に登れる草津白根山です。
車で志賀草津道路を進みます。昔はこの道路は有料だったんですが、今は完全無料です。日本有数の本格的な山岳道路が無料というのはうれしいですね。高度を上げていき、白根山レストハウス前を通過しましたが、駐車場は進入禁止です。

通りすぎて万座との分岐点までいき、係の人に聞くと、白根山一帯は火山活動の影響で立入り禁止だそうです。しょうがなしに先へ進み渋峠でUターンをしてきました。

日本国道最高地点、標高は2172mです。

白根火山ロープウェーの山麓駅。ゴンドラに乗り、本白根山を目指します。
ゴンドラからの景色は素晴らしいの一言です。私は万座や志賀のリフト、ゴンドラはスキーで何度も乗っていますが、草津のロープウェーは初乗車だと思います。

山頂駅に着きました。これから約1時間山登りというより、山歩きです。

よく整備された登山道を進みます。梯子のような階段はけっこう怖いです。

本白根山展望所へ着きましたが、ここが山頂というわけではなく、別に本白根山の山頂があります。

浅間山が見えます。浅間山(中央2568m)はもちろん百名山ですが、活火山のため登山禁止です。私は浅間の外輪山である黒斑山(右側2404m)、小浅間(左側1655m)には登っています。

遠くに見えるのが志賀の最高峰、横手山(2305m)。その手前に白根山があります。

火口湖の鏡池。

麓から霧が湧き上がってきます。


帰り道にチャツボミゴケ公園に寄ったのですが、開園時間を過ぎていました。入園は15時30分までです。

私は日本百名山の13番目の山の登頂に成功したのかどうか。白根山(2160m)は入山禁止、本白根山(2165m)の本当の山頂も入山禁止。家に帰って深田久弥の「日本百名山」で確認をしました。深田久弥は草津白根山の全体を指して百名山と言っているので、本白根山、白根山のどちらか一つを指してはいません。大雪山の旭岳・黒岳の場合も同様です。とするとそんなに厳密に考えることはないのか。大甘ですが私はほぼ登頂成功といっていいでしょうか。でも立入禁止が解除になれば、また挑戦します。
深田久弥の「日本百名山」(朝日文庫)を改めて手に取りましたが、深田氏は百名山すべて山頂まで登った、百名山を選定するためにその数倍以上の山に登ったと書いていました。さすがですね。その本の巻末の解説は今西錦司。今西氏は百名山には興味がない、百名山を選定すると百名山に登山者が集中し山が荒れてしまう、百以外の山にとってはいいことだが、と書いていました。深田の百名山に批判的な原稿ですね。ちなみに今西氏は1300の山に登ったそうです。