オーロラ特急    ノスタルジック旅日記 

旅好き、歴史好き、鉄道好き、クルマ好き、カメラ好きの団塊ボーイが社会科見学的な旅を続けます。

奥州・古城の旅 奥羽列藩同盟に加わり戊辰戦争で焼失した平城

2016年08月27日 | 宮城・山形・福島
本日は福島県いわき市の磐城平城を目指します。

高萩駅で乗り継ぎです。

駅前の長久保赤水像。赤水は江戸中期の水戸藩の地理学者。伊能忠敬の大先輩です。

今季初めて見かけた青春18きっぷのポスター

いわき駅に到着。今はいわき市のいわき駅ですが、かつては平市の平駅でした。江戸時代には平藩の平城がありました。1966年に広域合併でいわき市が発足、駅名も1994年にいわき駅になりました。本州最大の炭鉱だった常磐炭田の町で、現在はフラガールで知られるスパリゾート・ハワイアンズがあります。


いわき駅の南北コンコース

磐城平城本丸には建物は残っていません。跡地は非開放ですが、今年10月1日、プロジェクションマッピングで一夜城として再現されます。

駅北口の城山



いわき駅舎

本丸下の鈴木辰三郎像。戦前は福島県議会議員、衆議院議員、戦後は旧平市の初代市長として平競輪開設、南北跨線橋建設などの功績を残し、常磐地区広域合併への道筋をつくりました。


一夜城のポスター

閉館した龍ヶ城美術館。平城は別名、龍ヶ城です。美術館には平藩時代のものを展示していたようです。

本丸跡地。入ることはできません。

本丸跡地の一夜城プロジェクト会場



本丸近くの石垣


丹後沢公園の本丸側入口


本丸城山



丹後沢公園


丹後沢公園の二の丸側入口


裏外張門跡付近から見る城山

いわき市は1966年に5市4町5村が合併し発足しました。ひらがな市名の元祖はむつ市(1960年)ですが、いわき市は誕生時点で最も面積が大きい市であったためにインパクトは大きかったです。その後、さいたま市、つくばみらい市、かすみがうら市、みどり市、さくら市と続々誕生しました。
合併で誕生する新しい市の名前は珍名・奇名が多い。ひらがな市名、カタカナ市名、土地に関係はしてるが広域すぎてどこにあるのかわからない市名、土地と一切関係のない市名、はてはサイエンスフィクション的な市名など。さくら市、みどり市、北斗市、西東京市、北名古屋市、四国中央市、中央市、南アルプス市、奥州市、甲州市。キラキラネームというのはあるが、キラキラ市名というか、私は珍名・奇名の類ではないかと思います。







目白通り・千川通りの旅 佐伯祐三アトリエ、トキワ荘跡地

2016年08月25日 | 東京
本日は中距離散歩です。

池袋東口、びっくりガードと明治通りの交差点で見かけた「いけふくろうカフェ」。ビルの6階です。池袋には珍しいふくろうカフェがあるということは知っていました。ここにありました。


羽仁もと子が創設した自由学園明日館。1934年建築。フランク・ロイド・ライトと遠藤新の共同設計です。




明日館の裏側



羽仁もと子が創刊に関わった婦人之友社


昭和レトロな聖母病院の建物



聖母病院の病棟

上智大学総合人間科学部看護学科の校舎。以前の聖母大学看護学部です。聖母大学は上智大学と合併し、聖母大学は廃止となり、看護学部は上智大学に移行しました。
聖母病院の母体はマリアの宣教者フランシスコ修道会。学校法人聖母大学が学校法人上智学院と合併、病院の経営は従来通りフランシスコ修道会です。

聖母病院の裏手でたまたま見つけたマリアの宣教者フランシスコ修道会の建物。かつて四谷にあった文化放送と聖パウロ修道会との関係のようです。上智と聖母は同じカトリックかと思いますが、細かい宗派については未調査です。

落合に住んだ文化人たち。舟橋聖一、会津八一、壺井栄、林芙美子、安井曾太郎、佐伯祐三らが住んでいました。



佐伯祐三アトリエ記念館

記念館内部



佐伯祐三は1921年に落合にアトリエ兼自宅を設けました。その後、フランスに留学。私は数年前に宇都宮美術館で佐伯祐三展を見ました。「郵便配達夫」はいいですね。佐伯の絵は大阪市がたくさん保有しています。新しい美術館を作り佐伯作品を展示する計画もあるようですが、いつ実現するか不透明です。

宇都宮美術館「佐伯祐三展」


目白通りで見つけた動物病院の高度医療センター。動物も放射線治療とか抗癌剤、心臓カテーテルなどの高度医療を実施するんでしょうか? 保険はきかないし、さぞ高額なのでしょう。

目白通りと千川通りの交差点


トキワ荘通りお休み処


トキワ荘跡地のモニュメント。豊島区ではトキワ荘を再建する計画があるようです。

トキワ荘の跡地に現在は日本加除出版の社屋が建っています。





千川通りを通るたびに気になる立派な御屋敷、岩崎家住宅


御屋敷の向かいの岩崎米店。御屋敷と同じ名前です。岩崎家は地元の豪農・豪商のようです。

長崎銀座の商店街

西友東長崎店

西武鉄道東長崎駅。鎌倉時代、このあたりは長崎氏という豪族の領地だったようです。











奥州・古城の旅 伊達政宗、上杉景勝・直江兼続の米沢城

2016年08月19日 | 宮城・山形・福島

福島駅で山形線(奥羽本線)に乗り換え米沢へ向かいます。山形線のこの電車は、軌間1435ミリ、つまり新幹線と同じです。山形新幹線を通すために在来線の軌間を新幹線の軌間に改軌し、現在は新幹線と在来線が同じレールで運行されています。6番線の719系電車

5番線の719系電車。福島駅は5番線と6番線が標準軌です。この先で山形新幹線と山形線が合流します。

6番線の電車と新幹線用の福島駅

在来線用の福島駅

峠駅の名物「峠の力餅」

米沢駅に到着しました。

新カラリングの山形新幹線。米坂線は新潟県の坂町と結ぶローカル線、もちろん軌間は狭軌です。

米沢駅の改札口

米沢駅

愛と義のフラッグ。愛はloveの意ではなく、軍神である愛宕権現に由来します。

市民バスに乗り、上杉神社前で下車




上杉博物館


上杉神社への道

県工発祥の地の碑。県工とは旧制山形県工業学校のことです。山形県初の県立工業学校としてスタートしたために県工と呼ばれましたが、のちに山形市、鶴岡市にも県立工業学校が設立されたために、米沢工業学校と改称し、通称は米工になりました。戦後は新制山形県立米沢工業高校となり、1997年に郊外の現在地に移転するまでこの地に校舎がありました。


上杉城史苑

上杉鷹山


ジョン・F・ケネディ大統領は上杉鷹山を尊敬していたそうです。その縁でキャロライン・ケネディはメッセージを寄せました。

米沢牛の恩人、チャールズ・ヘンリー・ダラスのモニュメント



松岬神社。「まつがさき」と読み、米沢城は松岬城とも呼ばれました。上杉鷹山を上杉神社から分祀したことから始まりました。のちに上杉景勝、直江兼続、鷹山の師・細井平洲、藩政改革を支えた2人の功臣を祀っています。



上杉神社は登録有形文化財に指定されています。

神社の堀


上杉謙信祠堂跡



謙信祠堂跡


招魂碑。戊辰戦争、西南戦争、日清戦争、日露戦争で戦死した将兵を祀っています。

祠堂跡全体

上杉鷹山像。「なせば成る、なさねば成らぬ」の訓。

伊達政宗生誕の地の碑。伊達氏は現在の福島県の伊達地方から米沢に移り、その後、会津、岩出山、仙台と居城を移しました。


米沢には伊達のあとは蒲生、上杉が入城します。


「天地人」の碑。2009年のNHK大河ドラマです。原作は去年亡くなった火坂雅志。

野口雨情の歌碑

上杉謙信像

建国記念の日の碑


幕末の13代藩主上杉斉憲、のちの曦山の碑
この写真を最後に私のカメラは突然死をしました。原因はメモリーカードでした。予備のカードを持つべきですね。大いに反省をしました。
上杉神社の本殿と稽照殿は伊東忠太の設計です。写真でお見せできないのが残念ですが、伊東は築地本願寺、朝鮮神社、台湾神社、樺太神社、靖国神社遊就館、大倉集古館、東京都復興記念館、湯島聖堂などを設計した神社仏閣の建築の第一人者でした。伊東はなんと米沢出身だったのです。
市内に今年7月、「ナセBA」という図書館・市民交流施設がオープンしました。そのギャラリーで地元出身伊東忠太展を開催していることを聞き、ナセBAに立ち寄りました。
行ってびっくり。伊東忠太の展示はまあまあ、ほどほどでしたが、図書館が素晴らしい。3階、4階分ほどの吹き抜け空間の壁面に書棚がぎっしりそびえ立っています。本をどうやって取り出すのか、一見わかりませんでした。まるで物流基地の立体倉庫というか、私が昔見学した大規模製本工場の壁面のようでした。
写真を紹介できないのが誠に残念です。図書館マニアは必見です。私はこの図書館を撮影するためにもう一度米沢を訪問したいと思いました。
もう一つ、上杉博物館を見学して今回知ったことです。繊維会社として有名な帝人は米沢が発祥です。米沢高等工業学校(県立工業学校とは別。現在の山形大学工学部です)の講師が第1次世界大戦中にヨーロッパからの輸入が途絶したレーヨン(人造絹糸)を生産するためにつくった工場が鈴木商店の子会社となって大発展したのが帝国人造絹絲、現在の帝人です。私は帝人は関西系の会社かと思っていたので、意外でした。帝人はレーヨンのあとはテトロンを生産し、近年は炭素繊維、医薬品等で業績を上げています。企業の歴史を知るのも楽しいです。
米沢の市街は、城下町としては意外ですが、道路がわりと真っ直ぐで、あまり迷うことはありません。城下町としての空気もやや希薄です。1917年と1919年、2度の大火で市街地は焼失。2度目の1919年には上杉神社、上杉伯爵邸(現上杉記念館)は焼失しました。大火で焼失した上杉神社の建物を再建したのが伊東忠太でした。
山形県は空襲の被害はなかったが、山形(1911年)も酒田(1976年)も大火を経験しています。





















所沢航空発祥記念館「中島飛行機の傑作戦闘機たち」展

2016年08月12日 | 埼玉
所沢航空発祥記念館で開催中の「中島飛行機の傑作戦闘機たち」展を見に西武新宿線・航空公園駅にきました。

駅のパン屋の名前がアンリ・ファルマンです。1911年に所沢で初めて飛んだ飛行機の名称です。

駅前の航空発祥の地の碑






国産旅客機YS-11。私は一度も乗ったことがありません。私が初めて乗った飛行機は1971年、千歳・羽田間のボーイング727でした。最初からジェット機でした。このころYS-11は千歳・羽田間を飛んでいましたが、夜間便のみでした。以降ダグラスDC8、コンベア880、ロッキード・トライスター、エアバス380などいろいろ乗りましたが、YS-11に乗る機会は訪れませんでした。
展示機の説明を読むと1997年まで羽田・大島間に就航していたんですね。大島に飛んでいたなら一度乗ればよかった。現在、大島へは調布からドルニエという小型プロペラ機が飛んでいます。プロペラ機に一度乗りたいですね。


所沢航空発祥記念館


カーチス・ライトC46。航空自衛隊の輸送機です。私としてはC46より、C47、つまりダグラスDC-3を展示して欲しいですね。DC-3は1950年代、日本の民間航空界で最も活躍した旅客機です。C47はその輸送機タイプ。DC-3、C47ともに全世界で大量に使用されたベストセラー機です。
DC-3は日本には1機も残っていないのかも知れません。1980年代に栃木の小山ゆうえんちで展示されていましたが。

またも航空発祥の地の碑。1911年に所沢飛行場にて徳川大尉のアンリ・ファルマン機、日野大尉のライト機が日本初飛行に成功しました。

いよいよ入館します。私は4度目の入館だと思います。




ノースアメリカンT-6G練習機



三菱重工製・火星エンジン。複列星形14気筒、1530~1850馬力。おもに陸軍一式陸上攻撃機、海軍戦闘機雷電に搭載されました。

中島飛行機陸軍戦闘機の写真展






中島飛行機製の陸軍戦闘機たち



一式戦闘機隼に搭載されたハ115型エンジン。実は零戦に搭載された栄21型と同じエンジンです。陸軍は「ハ+数字」という呼称(多分、発動機の「ハ」)、海軍は栄、誉、火星など漢字名です。陸軍と海軍は同じ船には乗りたくなかったわけです。
零戦は三菱重工が製造しましたが、零戦に適合するエンジンを製作できず、中島が栄エンジンを供給しました。戦争後期には中島も零戦の機体を生産し、機体・エンジンの一貫生産をしました。


記念写真撮影コーナー








九七式戦闘機。原寸レプリカです。


九一式戦闘機の実機




八九式7.7ミリ機銃

糸川英夫が中島飛行機に就職した際の手紙



YS-11の模型


YS-11のターボプロップエンジン。ロールスロイス製

川崎航空機製の三式戦闘機飛燕のハ40エンジン。日本の当時の航空機エンジンは空冷が圧倒的な主流でしたが、飛燕のエンジンは水冷(液冷)でした。ドイツのダイムラー・ベンツのエンジンを国産化しました。エンジンの不具合が続き、機体はできたがエンジンがないという半完成品がたくさんあったそうです。現在の自動車のガソリンエンジンに極めて近いメカニズムで、倒立V型12気筒でした。
水冷は冷却器が必要で、メカが複雑なため、開発が難しい。現代の自動車は水冷エンジンが主流で、冷却技術に加えて、省エネ、排ガス対策など解決しなければならない技術課題はたくさんあります。一方の電気自動車はメカがシンプルで、参入障壁は低いですね。


零戦、YS-11の設計者、木村秀政の像。大学教授としても航空界の発展に貢献しました。

東大航空研究所がつくった実験機


会式飛行機

デアゴスティーニの「第二次世界大戦傑作機」(模型付き雑誌)のバックナンバーを販売しています。

売店フライイングスピリッツ


航空整備兵の像

木村中尉・徳田中尉遭難の碑。1913年3月2人が乗る飛行機は所沢飛行場の北東で墜落しました。日本で初めての航空機事故でした。

フランス陸軍のフォール大佐の碑。1919年に来日、航空技術の指導をしました。当時フランスが飛行機最先進国でした。


飛行機新道。所沢駅まで歩きましたが、途中の道は飛行機関連の名前です。

ファルマン通り

プロペ通り

プロペ通りとファルマン通りの交差点のモニュメント

かつてのダイエーはイオンに変身しました。



マンホールの蓋の絵も飛行機が主役です。

プロペ通りの駅前側


2013年に改良工事が完了した所沢駅。県庁所在地級の駅舎です。
























奥州・古城の旅 伊達氏のゆかりの桑折西山城、福島城へゆく

2016年08月08日 | 宮城・山形・福島

伊達政宗の祖先の城、桑折西山城へいくため桑折駅にやってきました。
伊達家14代の伊達稙宗は梁川城から桑折に居城を移し桑折西山城を築きました。稙宗は息子の晴宗と対立、晴宗によって城内に幽閉されました。15代晴宗は本拠を米沢城へ移したために、伊達家が桑折西山城を居城としたのはわずか20年余りでした。


「異国の丘」の歌碑。作詞の増田幸治は桑折町の出身。吉田正は先日訪ねた日立市の出身です。


駅前から桑折西山城へは2100m、麓の観音寺は1300mです。駅を出て歩き始めた途端に雨が降ってきました。桑折西山城の攻略は断念し、福島へ引き返しました。西山城は向かって左の山です。

福島駅へ戻ると、雨は降ったりやんだり。福島城は現在の福島県庁で、駅から1kmほど。行って行けないことはないと思い出発しました。

福島県庁

福島城の地は中世には大佛城がありました。伊達家15代晴宗は居城を桑折西山城から米沢城へ移したましたが、家督を16代輝宗(17代独眼竜政宗の父)に譲ると、自らは大佛城の跡地の杉妻城を隠居城としました。
秀吉の奥州仕置後は福島城となり、蒲生、上杉の所領となりましたが、江戸以降は本多氏、堀田氏、板垣氏が城主となり、板垣氏福島藩の時代が約170年続き幕末へ至りました。




二の丸御外庭に県庁が建ち、庁舎の東側は紅葉山公園という公園になっています。紅葉山という名前ですが、福島城は平城です。

大佛城のころの宝塔と石塔。いずれも近代になって発掘されました。

杉妻稲荷神社


板倉神社


若山牧水歌碑




阿武隈川

印塚。印章の塚です。


明治時代の偕楽亭という料亭の跡。跡地は県に寄贈され今は公園の一部になっています。

自由民権活動家・河野広中の像。河野は三春町の出身です。

福島城の大手門前に建つ大原綜合病院。周産期母子医療センターがあり、県北地方の中核病院です。