オーロラ特急    ノスタルジック旅日記 

旅好き、歴史好き、鉄道好き、クルマ好き、カメラ好きの団塊ボーイが社会科見学的な旅を続けます。

信州・古城の旅 武田信玄の三河進撃の拠点、伊那谷・飯田城

2016年10月23日 | 長野
信州飯田にきました。諸用を終えて飯田城址を探索。

飯田城本丸跡の長姫神社。飯田城は別名、長姫城といいます。

飯田城を最初に築いたのは小笠原氏の家臣の坂西氏、次に武田の家臣、秋山氏が本格的に築城しました。飯田を通る三州街道・遠州街道は武田が甲斐から進撃する際には重要なルートでした。武田滅亡のあとは織田、徳川、京極、江戸時代には小笠原、脇坂、堀と城主は代わっていきます。


長姫神社の碑


観耕亭跡碑。飯田城の殿様、堀親義が城外を眺め農民が耕作する姿を見て楽しんだそうです。


天然温泉の浄水

本殿




本丸の東端は三宜亭という旅館になっています。


飯田城は松川と野底川の間の河岸段丘の舌状台地に築かれています。


柳田国男館。世田谷にあった柳田の書斎を移築しました。


日夏耿之介記念館

飯田図書館



追手町小学校

「田中芳男と南信州の偉人たち」という特別展を開催。田中芳男は日本の博物館・動物園・図書館の生みの親で、上野公園の設計に関わりました。飯田出身に柳田国男(民俗学者)、日夏耿之介(英文学者・詩人)、菱田春草(画家)。飯田に疎開していたのは岸田国士(劇作家)、山田風太郎(作家)。近隣の町村出身は富岡鉄斎(文人画作家)、椋鳩十(作家)。



飯田市美術博物館。美術館も博物館も英語ではどちらもミュージアムです。英語で美術館を限定する場合はmuseum of art。日本では美術館、博物館、資料館、史料館、記念館と名称はいろいろあります。


二の丸大通り跡

御用水跡



伊那谷の巨石を展示





美濃路・古城の旅 岐阜城攻めの拠点、木下藤吉郎の墨俣一夜城

2016年10月20日 | 愛知・岐阜
大垣駅前からバスに乗り、長良川西岸の墨俣城へ向かいました。

墨俣宿渡船場の常夜燈


墨俣は美濃路の一部です。鉄道の東海道線は今は岐阜、大垣、関ヶ原を通っていますが、江戸時代の東海道は熱田から船で桑名へ渡って鈴鹿峠を通っていました。


墨俣城のイメージです。城といえるほどのものではなく、砦というのが正しいでしょう。櫓は井楼です。

戦国時代の砦跡に現在は立派な天守風の建物が建っています。

橋の名は太閤出世橋といいます。

西の揖斐川の方向

東の長良川の堤防

墨俣はもとは「洲の俣」といい、川の流れが二股になっていたようです。

木下藤吉郎秀吉の像。笏を手にもっているので、長浜時代の姿でしょうか?

墨俣一夜城、正式名称は大垣市墨俣歴史資料館です。

地元出身の作家・豊田穰の展示コーナー。氏の代表作は「長良川」です。


長良川の上流、岐阜城の方向

長良川の下流の方角

資料館の最上階




墨俣城碑

馬防柵


長良川の堤防へいく橋



秀吉の歌「日のもとに、またから(唐)国も手に入るる、ゆたかなる世のはるにあふかな」


豊国神社

白鬚神社








墨俣宿の町並み

脇本陣


美濃路・古城の旅 関ヶ原の戦い、西軍の最前線拠点の大垣城

2016年10月20日 | 愛知・岐阜

大垣に来ました。大垣駅の北口

北口駅前はかつてはオーミケンシの工場がありましたが、今はアクアウォーク・アピタという商業施設となっています。オーミケンシの発祥の地は彦根市です。絹紡績の老舗企業です。オーミケンシといえば戦後発生した労働争議(当時は近江絹糸)は有名ですね。三島由紀夫の小説「絹の明察」の題材となりました。近江絹糸のアパレル部門はミカレディです。

南口駅前のモニュメント

南口の駅ビル

大垣城の外堀、水門川


大垣城址碑

メインストリートの商店街の裏手に見える大垣城天守

東門

東門前のレトロなビリヤード場

東門と丑寅櫓


東門前の石垣







大垣城の天守は戦前は国宝に指定されていましたが、空襲で焼失し、天守、戌亥櫓、丑寅櫓が鉄筋コンクリートで復元されています。

大垣城址碑

大垣城天守。大垣城は関ヶ原の決戦では西軍の最前線の拠点となりました。東軍が大垣城を迂回し関ヶ原へと向かったため、西軍主力は大垣城を出て関ヶ原へと向かい大谷吉継らの軍と合流し、東軍との決戦に臨みました。関ヶ原で西軍が敗れると大垣城は東軍の中に孤立し落城しました。




大垣城天守内部

西軍大将の石田三成

石田三成の家臣・島左近。島左近は先日訪れた信貴山城のある平群町の出身です。

天守最上階

関ヶ原の方角

岐阜城の方角

小原鉄心の碑。大垣藩の城代です。


辰巳櫓跡

金森吉次郎像。明治時代の県会議員・国会議員。明治29年(1896年)の揖斐川大洪水の時に陣頭に立って被害拡大を食い止めました。


麋城(びじょう)の滝。麋城は大垣城の別名です。

鉄門跡




西門


戸田氏鉄騎馬像。江戸時代初期から幕末まで大垣藩主は戸田氏でした。氏鉄は初代藩主です。

戌亥櫓

大垣市郷土館

郷土館の門



大垣城の模型。明治期に水門川を除き内堀・外堀は埋め立てられました。戦災で焼失した天守・櫓も惜しいが、内堀はもっと惜しい気がします。


水之手門

戌亥櫓




明治29年(1896年)大洪水の時の水位



丑寅櫓

大手いこ井の泉


東口大手門跡

駅前のメインストリートから見る大垣城天守


レトロな金物店

水門川

駅前通り。戦災後の区画整理で道路は真っ直ぐです。

酒店

ヤマゲンデパート

駅前の噴水


老舗の和菓子店

駅ビル










関西・古城の旅 信長に滅ぼされた浅井長政・お市の方の小谷城

2016年10月19日 | 近畿

今回の旅の主要目的の一つ、小谷城へいくためJR北陸本線・河毛駅にきました。私は近江の城は彦根城、長浜城、安土城はすでに攻略済みですが、小谷城は機会がありませんでした。小谷城は、東海道線からははずれているし、観光地でもなく、山城なのでやはり難攻の城です。
この建物は駅舎ではなく、コミュニティハウスです。駅は無人駅で、駅出口がハウスに直結、ハウス内は観光案内所、土産店となっています。


河毛駅とコミュニティハウスの接続部分

浅井長政とお市の像。河毛駅から小谷城址へはコミュニテイバスが運行されています。本数が少ないので厄介です。


正面の山が小谷山、その右側の尾根に小谷城が築かれました。







小谷城本丸跡への登山口。電車の都合、バスの都合で登山口に着いたのは4時を過ぎていました。本丸へは山道を40分歩きます。山間地の秋の日暮れは早く、下山の時は薄暮、あるいは夕闇の恐れがあり、今回は泣く泣く断念しました。獣避けの金網も恐怖感をつのりました。熊、猪、鹿が出没するようです。



小谷城戦国歴史資料館。本丸攻略はあきらめて資料館を見学しました。資料館の入口に100名城スタンプがあり、押してすぐ帰る人が多いようです。資料館でスタンプを押しただけで「小谷城へ行った」というのはあんまりだと思います。私もスタンプを押しましたが、私は必ず再訪し本丸を攻略します。

季節によって土日祝日限定で、山麓から尾根上の番所跡まバスが運行されています。そのバスを利用するのが近道かもしれません。マイカーだと簡単に番所跡までいけます。


泣く泣く河毛駅に戻りました。次回小谷城を攻める際は遅くとも午後一番には駅に到着する必要があると思います。















関西・古城の旅 御三家・紀伊徳川家、8代将軍吉宗の和歌山城

2016年10月19日 | 近畿

和歌山市の中心部の市堀川。和歌山城の北外堀です。

北西の交差点から見る和歌山城天守と乾櫓

西外堀



吹上門跡、護国神社の鳥居


吹上門付近の石垣





西の丸庭園の入口

大天守(写真左)と乾櫓(右)。大天守のすぐ手前に小天守も見えます。

北堀

天守と御橋廊下

一の橋と大手門





大手門と一の橋

大手門

8代将軍徳川吉宗は紀州徳川家の5代目です。紀州徳川家初代は家康の十男・頼宣です。2代は光貞、3代は綱教で、ここまでは長子相続でしたが、4代は綱教の弟・頼職、5代がその弟の吉宗です。長子相続が続くのは難しい。その吉宗が今度は将軍家の8代となるから歴史のどんでん返しです。
吉宗のあと、紀州の6代目は光貞の甥、吉宗の従兄弟の宗直です。7代から10代までは宗直の系統が続きますが、11代は吉宗の系統から斉順、12代斉彊、13代慶福(のちの14代将軍家茂)と続き、慶福のあとは再び宗直の系統の茂承が14代当主を継ぎ幕末となります。
紀州家と将軍家の間でいったりきたりが繰り返されました。吉宗は御三卿(田安・一橋・清水家)の創設といい、徳川本家・紀州家の家系存続には大いに貢献しました。



一中門付近の石垣


和歌山城のシンボル、伏虎。和歌山城は虎が伏した形の虎伏山につくられた平山城です。虎伏山の山頂に本丸御殿、尾根上に天守を築きました。




本丸へと続く表坂




七福の庭。七福神を模した7つの石と舳先・船尾の2つの石で宝船を表現しています。



松の丸跡の石垣

本丸虎口


本丸御殿前の石垣。本丸御殿(虎伏山)は今は給水場になっています。


天守台の石垣

童謡「鞠と殿さま」の歌碑。作詞は西条八十、作曲は中山晋平です。


徳川御三家の和歌山城天守。豊臣秀吉の弟・秀長が最初に築城し、次に桑山氏、浅野氏が入城し、浅野氏が福島家断絶後の広島城へ移り、家康の十男頼宣が紀州藩を創設しました。真田信繁が九度山に蟄居していた時は和歌山城は浅野氏が城主でした。
ちなみに秀長のもとで普請奉行を務めたのは藤堂高虎です。藤堂高虎は何度も主君をかえたことでネガティブなイメージが強いですが、城造りの名人であり、和歌山城のほかに大洲城、宇和島城、今治城、津城、伊賀上野城を築いています。
城造りといえば加藤清正の名前があがりますが、藤堂高虎のほうが実績は上です。加藤清正は熊本城という名城をつくったのは事実ですが、どちらかといえば石垣積みの名人という気がします。



楠門(ニノ門)

和歌山城の沿革


乾櫓

ニノ門櫓

大天守と小天守。和歌山城の天守は連立式天守で、北西に乾櫓、北東に小天守、南東に大天守、南西に二ノ丸櫓と四隅に櫓を配しています。
戦前は天守等11棟が国宝に指定されていましたが、空襲ですべて焼失しました。戦後に二ノ丸門だけが木造で、他は鉄筋コンクリートで復元されました。名古屋城も空襲で焼失しました。御三家の城のうちで昭和に残った2つが戦争で失われたのは残念です。

三宝樹

小天守と天守入口


白虎

1/20の天守模型

天守内部





和歌山城の1/300模型

天守最上部

天守からの眺望西方向、二ノ門櫓(左)と乾櫓(右)

北方向、小天守と市役所

南方向、県立美術館と博物館

東方向、本丸御殿の虎伏山

全国の城番付。行事は名古屋城、和歌山城、二条城、明石城と徳川御三家・直轄・親藩の城。年寄は安土城、河内赤坂城、中世の城。取締は江戸城、大坂城と、将軍家の城。東西の大関は金沢城、鹿児島城、関脇は仙台城、熊本城、小結は福岡城、広島城と外様大名の城が石高順に並んでいます。

和歌山出身の有名人。野村吉三郎(海軍大将、開戦時の駐米大使)、陸奥宗光、松下幸之助、山葉寅楠(ヤマハ創業者)など。

ニノ門櫓への廊下

大天守

小天守

乾櫓


大天守


銀明水


裏坂の虎口

二ノ丸・中奥


東堀


岡中門付近

岡口門


岡口門


東堀

高石垣


二ノ丸


穴蔵状遺構


御橋廊下

内部

西堀

柳島

御橋廊下入口

西の丸


西の丸庭園



西の丸庭園入口

鶴の渓

鶴の門

南海和歌山市駅。JR和歌山市駅も間借りしています。