オーロラ特急    ノスタルジック旅日記 

旅好き、歴史好き、鉄道好き、クルマ好き、カメラ好きの団塊ボーイが社会科見学的な旅を続けます。

古戦場の旅 武田騎馬隊が壊滅した設楽原決戦場

2017年07月25日 | 愛知・岐阜
豊橋駅のホーム。左の3番線は名鉄名古屋線、右の2番線はJR飯田線のホームです。

飯田線の電車で三河東郷駅へ向かいます。
三河東郷駅
駅舎内に設楽原歴史資料館への案内図がありました。

三河東郷駅の駅舎。無人駅です。私は2014年秋に長篠城へ行きました。その際に設楽原へも寄りたかったのですが、電車の都合で断念しました。今回は設楽原決戦場を探索します。

駅前の勝楽寺。設楽原戦没者霊場の石碑があります。
駅前の案内図

山縣塚の入口
山縣(山形)という地名が残っています。
山縣塚

左は設楽原で戦死した武田の武将、山縣昌景の碑
左は山縣昌次、従士名取道忠、右は高坂助宣の碑徳川軍の陣、弾正山
小幡塚
井伊家の赤備えは有名ですが、もとは武田の戦装束です。小幡氏は上州国峰城の城主。国峰城は富岡製糸場の近くです。小幡信貞の碑。小幡信貞が設楽原で戦死したかどうか史実は不明のようです。



鉄砲隊

火おんどり

設楽原歴史資料館入口
幕末の外国奉行、岩瀬忠震の銅像
資料館内部
資料館内は設楽原の戦い、火縄銃・鉄砲の歴史、岩瀬忠震の足跡を展示しています。

日本最古の火縄銃、信玄砲
近くの野田城の模型。飯田線の途中に野田城という駅があります。
風林火山
信玄台地の上に資料館があります。
山岡荘八書の「長篠役設楽原決戦場」。我々の世代の教科書では「長篠の戦い」となっていましたが、最近は織田・武田の決戦は「設楽原の戦い」といわれるようになりました。山岡荘八の書は「長篠城を争奪する戦い全体が長篠役、両軍が決戦を行ったのは設楽原」という意味ですね。納得です。山岡荘八は「徳川家康」で有名ですが、武田信玄・勝頼を主人公とした小説は手がけていないと思います。
設楽原の戦いで死んだ武田軍武将の碑。左上から真田信綱・昌輝兄弟(昌幸の兄)、馬場信房(信春)、内藤昌豊、左下から山縣昌景、原昌胤、土屋昌次。真田昌輝以外は「武田二十四将」(昌輝も二十四将という説もあるようです)。大筒
馬上筒

岩瀬忠震のコーナー。忠震は設楽家に生まれ、岩瀬家の養子となり、幕末期に外国奉行として活躍しました。設楽家、岩瀬家はともに設楽原周辺を領地としていましたが、忠震はこの地に住んだことはないようです。
岩瀬忠震の陶像
黒澤明監督の映画「影武者」のコーナー
資料館の屋上は展望台になっています。織田軍が布陣した茶臼山、激戦地・丸山の方角
徳川軍が布陣した弾正山の方角大鉄砲名古屋城の模型資料館内のポスター
地元で発掘された土器
資料館の外観


信玄塚。武田軍の将兵を弔った塚です。信玄の塚ではなく、武田軍の塚です。武田=信玄という見方なのでしょう。
えんま堂いろはかるた
「火おんどり」は武田軍の将兵を弔う祭りです。首洗池
竹広激戦地
両軍が対峙した連吾川。武田の騎馬隊が川を渡り突撃しました。
「長篠役設楽原決戦場」の石碑。山岡荘八の書です。

連吾川の対岸は武田軍が布陣した信玄台地







相模・古城の旅 港北ニュータウンのど真ん中、茅ヶ崎城

2017年07月07日 | 神奈川
小机城に続き茅ケ崎城へ向かいました。
横浜地下鉄のセンター南駅。茅ケ崎城は茅ケ崎市ではなく、横浜市都筑(つづき)区にあります。センター南駅のカフェ。港北ニュータウンはかつては港北区と緑区にまたがってましたが。2つの区は3つの区となり新しく都筑区が誕生しました。


茅ケ崎城入口
虎口
西郭
中郭
根小屋
土橋
虎口
東郭
センター北駅の方角
東郭
茅ケ崎城は平安時代末期に源氏の流れをくむ多田太郎が築城したらしいと書かれていますが、詳細は不明のようです。小田原北条氏んのころは小机城の支城だったとも言われています。ニュータウンのど真ん中に貴重な歴史遺産が残っています。



センター南駅に戻りました。


相模・古城の旅 城跡が第三京浜で分断された小机城

2017年07月07日 | 神奈川

JR横浜線・小机駅の改札口です。

小机城は「続日本100名城」に選定されました。

駅から見える日産横浜スタジアム。2002年サッカー・ワールドカップ日韓大会の決勝戦が行われました。
小机城は小机駅から徒歩で15分くらいです。
小机駅の駅舎
小机城の城山



小机城址を分断する第三京浜のガード
左側は第三京浜です。
樹間から第三京浜が見えます。
空堀
冠木門
城址の石碑
本丸広場小机城は1430年代に関東管領山内上杉家によって築城され、長尾景虎の乱の際には長尾方に味方し上杉家の太田道灌に攻められ落城。その後は小田原北条氏の城となり秀吉の関東攻略、家康の関東入府後は廃城になりました。
空堀
矢倉跡
櫓台跡
土塁
井楼跡

横浜市内の城址分布図
孟宗竹の竹林
二の丸

二の丸広場

櫓台


空堀


根小屋跡








東京・上野の旅 不忍池一周「ボーン・上田」記念碑を発見

2017年07月05日 | 東京

上野不忍池






大賀蓮は古代蓮の一種で、大賀一郎博士が千葉県の検見川の青泥層から発掘したハスの実を栽培したものです。

上野公園・野外ステージ。私は初めて入場しました。

ステージではセミプロ的な人たちの歌謡ショーが行われてました。
下町風俗資料館
西条八十の「歌を忘れたカナリヤは‥‥」の歌碑

駅伝記念碑。1917年(大正6年)に京都・東京間の駅伝競争が開催されました。
寛永寺弁天堂入口
弁天島へ渡る天龍橋
中根半僊碑。江戸時代の漢学者です。不忍池の碑
めがねの碑。徳川家康の政治顧問を務めた慈眼大師天海大僧正の「慈眼」にちなみ天海大僧正ゆかりの上野に設置されました。めがねは徳川家康が使用をしためがねを形どっています。
弁天堂
弁天堂の提灯
大黒天堂

芭蕉碑
ふぐ供養碑
長唄碑
八橋検校の碑。江戸時代の検校、三味線の名手・音楽家です。
扇塚
すっぽん塚
いと塚。三味線の糸の供養塚です。
魚塚
幕末の剣豪、櫛淵虚冲軒の碑
鳥塚
一蓮花碑
包丁塚
真友碑。1949年1月にUPI副社長マイルス・ボーンと元電通社長の上田碩三は東京湾で船が遭難、死亡しました。2人は国際ニュース通信のネットワークづくりに貢献したので、1950年に2人の功績を記念し「ボーン・上田記念国際記者賞」という表彰制度がスタートしました。過去の受賞者に日本の報道記者の錚々たる面々が名を連ねています。主な受賞者は、大森実、本多勝一、古森義久、磯村尚徳、近藤紘一、下村満子、柳田邦男、船橋洋一、木村太郎、黒田勝弘、春名幹男、加藤千洋など。すべて大手新聞社・通信社、放送会社の記者たちです。
電通という会社がなぜ国際ニュース通信に関わったのかというと、電通の前身は日本電報通信社で、戦前はニュース通信と広告代理業の2つを事業としていました。1936年にニュース部門は同盟通信として独立し、電通は広告専業となりました。
上田碩三の次の社長、吉田秀雄は広告事業を大きく発展させて今日の巨大電通の基礎をつくり上げました。吉田がつくった社則が「鬼十則」です。「取り組んだら放すな、殺されても放すな」。「死んでも放すな」でなく「殺されても放すな」です。私には到底ついて行けない。

この碑は判読不明です。


スカイツリーと不忍池