日本の名城・古城 城撮り物語

全国各地の名城・古城の現況を写真でレポートします。

墨俣城の巻 長良川の西岸、木下藤吉郎が築いた一夜城

2016-10-20 16:50:55 | 愛知・岐阜
大垣駅前からバスに乗り、長良川西岸の墨俣城へ向かいました。

墨俣宿渡船場の常夜燈


墨俣は美濃路の一部です。鉄道の東海道線は今は岐阜、大垣、関ヶ原を通っていますが、江戸時代の東海道は熱田から船で桑名へ渡って鈴鹿峠を通っていました。


墨俣城のイメージです。城といえるほどのものではなく、砦というのが正しいでしょう。櫓は井楼です。

戦国時代の砦跡に現在は立派な天守風の建物が建っています。

橋の名は太閤出世橋といいます。

西の揖斐川の方向

東の長良川の堤防

墨俣はもとは「洲の俣」といい、川の流れが二股になっていたようです。

木下藤吉郎秀吉の像。笏を手にもっているので、長浜時代の姿でしょうか?

墨俣一夜城、正式名称は大垣市墨俣歴史資料館です。

地元出身の作家・豊田穰の展示コーナー。氏の代表作は「長良川」です。


長良川の上流、岐阜城の方向

長良川の下流の方角

資料館の最上階




墨俣城碑

馬防柵


長良川の堤防へいく橋



秀吉の歌「日のもとに、またから(唐)国も手に入るる、ゆたかなる世のはるにあふかな」


豊国神社

白鬚神社








墨俣宿の町並み

脇本陣

大垣城の巻 関ヶ原の合戦、石田三成率いる西軍の最前線の拠点

2016-10-20 16:50:18 | 愛知・岐阜

大垣駅南口のモニュメント

南口の駅ビル

大垣城の外堀、水門川


大垣城址碑

メインストリートの商店街の裏手に見える大垣城天守

東門

東門と丑寅櫓


東門前の石垣







大垣城の天守は戦前は国宝に指定されていましたが、空襲で焼失し、天守、戌亥櫓、丑寅櫓が鉄筋コンクリートで復元されています。

大垣城址碑

大垣城天守。大垣城は関ヶ原の決戦では西軍の最前線の拠点となりました。東軍が大垣城を迂回し関ヶ原へと向かったため、西軍主力は大垣城を出て関ヶ原へと向かい大谷吉継らの軍と合流し、東軍との決戦に臨みました。関ヶ原で西軍が敗れると大垣城は東軍の中に孤立し落城しました。




大垣城天守内部

西軍大将の石田三成

石田三成の家臣・島左近。島左近は先日訪れた信貴山城のある平群町の出身です。

天守最上階

関ヶ原の方角

岐阜城の方角

小原鉄心の碑。大垣藩の城代です。


辰巳櫓跡

金森吉次郎像。明治時代の県会議員・国会議員。明治29年(1896年)の揖斐川大洪水の時に陣頭に立って被害拡大を食い止めました。


麋城(びじょう)の滝。麋城は大垣城の別名です。

鉄門跡




西門


戸田氏鉄騎馬像。江戸時代初期から幕末まで大垣藩主は戸田氏でした。氏鉄は初代藩主です。

戌亥櫓

大垣市郷土館

郷土館の門



大垣城の模型。明治期に水門川を除き内堀・外堀は埋め立てられました。戦災で焼失した天守・櫓も惜しいが、内堀はもっと惜しい気がします。


水之手門

戌亥櫓




明治29年(1896年)大洪水の時の水位



丑寅櫓

大手いこ井の泉


東口大手門跡

駅前のメインストリートから見る大垣城天守

水門川

駅前通り。戦災後の区画整理で道路は真っ直ぐです。


小谷城の巻 織田信長に滅ぼされた浅井長政・於市

2016-10-19 16:49:43 | 近畿

今回の旅の主要目的の一つ、小谷城へいくためJR北陸本線・河毛駅にきました。
この建物は駅舎ではなく、コミュニティハウスです。駅は無人駅で、駅出口がハウスに直結、ハウス内は観光案内所、土産店となっています。


河毛駅とコミュニティハウスの接続部分

浅井長政とお市の像。河毛駅から小谷城址へはコミュニテイバスが運行されています。本数が少ないので厄介です。


正面の山が小谷山、その右側の尾根に小谷城が築かれました。







小谷城本丸跡への登山口。電車の都合、バスの都合で登山口に着いたのは4時を過ぎていました。本丸へは山道を40分歩きます。山間地の秋の日暮れは早く、下山の時は薄暮、あるいは夕闇の恐れがあり、今回は泣く泣く断念しました。獣避けの金網も恐怖感をつのりました。熊、猪、鹿が出没するようです。



小谷城戦国歴史資料館。本丸攻略はあきらめて資料館を見学しました。資料館の入口に100名城スタンプがあり、押してすぐ帰る人が多いようです。資料館でスタンプを押しただけで「小谷城へ行った」というのはあんまりだと思います。私もスタンプを押しましたが、私は必ず再訪し本丸を攻略します。

季節によって土日祝日限定で、山麓から尾根上の番所跡まバスが運行されています。そのバスを利用するのが近道かもしれません。マイカーだと簡単に番所跡までいけます。


泣く泣く河毛駅に戻りました。次回小谷城を攻める際は遅くとも午後一番には駅に到着する必要があると思います。



和歌山城の巻 紀伊徳川家5代藩主吉宗が徳川宗家を継ぎ8代将軍に

2016-10-19 16:49:12 | 近畿

和歌山市の中心部の市堀川。和歌山城の北外堀です。

北西の交差点から見る和歌山城天守と乾櫓

西外堀



吹上門跡、護国神社の鳥居


吹上門付近の石垣





西の丸庭園の入口

大天守(写真左)と乾櫓(右)。大天守のすぐ手前に小天守も見えます。

北堀

天守と御橋廊下

一の橋と大手門





大手門と一の橋

大手門

8代将軍徳川吉宗は紀州徳川家の5代目です。紀州徳川家初代は家康の十男・頼宣です。2代は光貞、3代は綱教で、ここまでは長子相続でしたが、4代は綱教の弟・頼職、5代がその弟の吉宗です。長子相続が続くのは難しい。その吉宗が今度は将軍家の8代となるから歴史のどんでん返しです。
吉宗のあと、紀州の6代目は光貞の甥、吉宗の従兄弟の宗直です。7代から10代までは宗直の系統が続きますが、11代は吉宗の系統から斉順、12代斉彊、13代慶福(のちの14代将軍家茂)と続き、慶福のあとは再び宗直の系統の茂承が14代当主を継ぎ幕末となります。
紀州家と将軍家の間でいったりきたりが繰り返されました。吉宗は御三卿(田安・一橋・清水家)の創設といい、徳川本家・紀州家の家系存続には大いに貢献しました。



一中門付近の石垣


和歌山城のシンボル、伏虎。和歌山城は虎が伏した形の虎伏山につくられた平山城です。虎伏山の山頂に本丸御殿、尾根上に天守を築きました。




本丸へと続く表坂




七福の庭。七福神を模した7つの石と舳先・船尾の2つの石で宝船を表現しています。



松の丸跡の石垣

本丸虎口


本丸御殿前の石垣。本丸御殿(虎伏山)は今は給水場になっています。


天守台の石垣

童謡「鞠と殿さま」の歌碑。作詞は西条八十、作曲は中山晋平です。


徳川御三家の和歌山城天守。豊臣秀吉の弟・秀長が最初に築城し、次に桑山氏、浅野氏が入城し、浅野氏が福島家断絶後の広島城へ移り、家康の十男頼宣が紀州藩を創設しました。真田信繁が九度山に蟄居していた時は和歌山城は浅野氏が城主でした。
ちなみに秀長のもとで普請奉行を務めたのは藤堂高虎です。藤堂高虎は何度も主君をかえたことでネガティブなイメージが強いですが、城造りの名人であり、和歌山城のほかに大洲城、宇和島城、今治城、津城、伊賀上野城を築いています。
城造りといえば加藤清正の名前があがりますが、藤堂高虎のほうが実績は上です。加藤清正は熊本城という名城をつくったのは事実ですが、どちらかといえば石垣積みの名人という気がします。



楠門(ニノ門)

和歌山城の沿革


乾櫓

ニノ門櫓

大天守と小天守。和歌山城の天守は連立式天守で、北西に乾櫓、北東に小天守、南東に大天守、南西に二ノ丸櫓と四隅に櫓を配しています。
戦前は天守等11棟が国宝に指定されていましたが、空襲ですべて焼失しました。戦後に二ノ丸門だけが木造で、他は鉄筋コンクリートで復元されました。名古屋城も空襲で焼失しました。御三家の城のうちで昭和に残った2つが戦争で失われたのは残念です。

三宝樹

小天守と天守入口


白虎

1/20の天守模型

天守内部





和歌山城の1/300模型

天守最上部

天守からの眺望西方向、二ノ門櫓(左)と乾櫓(右)

北方向、小天守と市役所

南方向、県立美術館と博物館

東方向、本丸御殿の虎伏山

全国の城番付。行事は名古屋城、和歌山城、二条城、明石城と徳川御三家・直轄・親藩の城。年寄は安土城、河内赤坂城、中世の城。取締は江戸城、大坂城と、将軍家の城。東西の大関は金沢城、鹿児島城、関脇は仙台城、熊本城、小結は福岡城、広島城と外様大名の城が石高順に並んでいます。

和歌山出身の有名人。野村吉三郎(海軍大将、開戦時の駐米大使)、陸奥宗光、松下幸之助、山葉寅楠(ヤマハ創業者)など。

ニノ門櫓への廊下

大天守

小天守

乾櫓


大天守


銀明水


裏坂の虎口

二ノ丸・中奥


東堀


岡中門付近

岡口門


岡口門


東堀

高石垣


二ノ丸


穴蔵状遺構


御橋廊下

内部

西堀

柳島

御橋廊下入口

西の丸


西の丸庭園



西の丸庭園入口

鶴の渓

鶴の門







郡山城の巻 秀吉の実弟、大和大納言豊臣秀長の城

2016-10-18 16:48:38 | 近畿


JR郡山駅へ来ました。目的は大和郡山城です。

外堀緑地北門




常念寺裏堀





常念寺



時の鐘





古い民家


やまと郡山城ホール。大和郡山市にリニア新幹線の駅の誘致キャンペーン、確か名古屋・大阪間はルートは未定です。

大和郡山城です。城の東端を近鉄の線路が通っています。踏切がないので遠回りしなければなりません。


桜御門跡


弁慶の足型石


郡山城の北側の道路。かなりの遠回りです。


天理教の教会。天理市が近いせいか、教会は大きい。

西側の堀


私は逆回りをしたようです。城の櫓が見えた所から左へ行ったほうが天守には近かったと思います。日没が近いのに時間をロスしました。

西側の堀


松蔭門跡

仕切塀

ようやく城内へ入ることができそうです。




天守台にはパワーショベルが見えるので工事中のようです。現在は非公開かもしれません。

馬場先門跡

城址会館。旧奈良県立図書館の木造建築を移築しました。



久護門跡

追手門

追手向櫓

追手門表側


追手東櫓

追手向櫓

追手堀

追手向櫓と追手門。日没のため撮影終了です。残念です。再度訪れたいものです。郡山市は奈良市のすぐ隣なので交通は便利です。再訪の可能性は高いと思います。

郡山市役所。郡山は筒井順慶、豊臣秀長、秀長の家臣だった藤堂高虎が有名です。金魚の生産地としても有名ですね。