日本の名城・古城 城撮り物語

全国各地の名城・古城の現況を写真でレポートします。

岩殿城の巻 武田勝頼の入城を拒んだ小山田信茂の山城

2015-06-19 14:57:46 | 山梨
山梨県大月市の岩殿城を訪ねました。
岩殿城は、武田勝頼が織田軍の甲斐侵攻を受け新府城を捨てて武田家重臣の小田山信茂を頼って岩殿城を目指しましたが、小山田信茂は勝頼を裏切って入城を拒み、勝頼は天目山にて自刃し、ついには武田家は滅亡したという戦国ドラマの舞台となった山城です。

大月駅

大月駅のホームには岩殿山の観光案内板があります。私は大月を通過するたびにこの案内板を見て是非一度岩殿山へはいきたいと思っていました。

大月駅の背後に迫る岩殿山。大きな岩盤は鏡岩といいます。

山の中腹に「岩殿城跡」の看板があります。

高月橋から見上げる岩殿山

岩殿山の南の山麓を桂川が流れます。

山麓の駐車場

岩殿城跡への入口

「富士の眺めが日本一美しい街」という大月市の観光案内

ふれあいの館の看板



丸山公園の冠木門

大月の街並み

岩殿山城の看板の裏側

丸山公園

公園の高麗門



ふれあいの館。1階は地元出身の写真家・白籏史朗の写真館、2階は展望台です。

富士見百景の看板

中央高速


岩殿山城の絵図

丸山山頂



大手門、稚児落し方向への分岐点。稚児落しはかなり急な壁面で鎖場となっているそうです。鎖と聞いただけで私はギブアップです。



揚城戸跡。巨大な自然石を活かした虎口です。

番所跡



西の物見台跡

馬屋跡


秀麗富嶽十二景八番山頂(標高630m)。岩殿山の山頂はこの先ですが、この地点のほうが富士山がきれいに見えるため秀麗富嶽に指定されています。

南の物見台

乃木大将の詩碑

東屋

馬場跡

倉屋敷跡

本丸への道

烽火台

本丸跡

帰路、ふれあいの館に入館しました。

2階の展望台からは富士山が見えるそうです。この日は雲におおわれて全く姿を見せません。

富士山の方向

岩殿山城のパノラマ図

城主・小山田信茂の史料。山梨では勝頼を見捨てた小山田信茂は敵役ですが、地元・大月では勝頼を裏切って織田方にくだり戦いを避けることによって地元農民を救ったということが評価されているようです。

500円札の富士山の写真は岩殿山の西方、雁ケ腹摺山からの撮影です。昭和17年に名取久作さんが撮影したものです。

白籏史朗写真館の内部

ふれあいの館から見上げる岩殿山


新府城の巻 武田勝頼が織田・徳川軍の侵攻に備えて築いた最後の拠点

2015-03-12 17:42:05 | 山梨
武田勝頼が織田・徳川軍の侵攻に備えて築いた新府城を訪ねました。
武田家は「人は石垣、人は城」と謳われたように躑躅ヶ崎館はありましたが本格的な城郭は有していません。勝頼は1575年に三河に侵攻し織田・徳川軍に長篠の合戦で敗北、織田・徳川軍が甲斐に侵攻してくるのに備え、本格的な城を築くことになり築城したのがこの新府城です。新しい府中という意味で新府城と呼ばれました。城は1581年2月に着工し同年12月に完成。翌年の2月に織田・徳川が襲来し、家臣団の離反、裏切りで3月に勝頼は城に放火し脱出したためわずか60日余りの「新府」でした。勝頼は新府城をあとにして岩殿城(現大月市)を目指すも天目山(現甲州市。竜門峡の近く)で自害しました。


中央線の新府駅で下車。新府駅は無人駅です。

新府駅付近から富士山がきれいに見えます。

新府城の入口、藤武神社の鳥居です。



このあたりは首洗池という池があったようです。



車道をわたり赤い鳥居をくぐると急な石段となります。

帯郭です。この石段は廃城後に神社のために作られたものだと思います。

藤武神社




本丸跡


神社の北に武田勝頼の霊社、武田十四将の霊碑があります。




武田勝頼霊社


勝頼霊社の左右には武田十四将の霊碑

小塚。「長篠役陣没将士之墓」

大塚。「長篠役陣没将士之墓」

「長篠設楽原陣没将士分骨之碑」

「甲斐国主武田氏四百年追遠之碑」

本丸跡から北の方向。下は崖です。

蔀(しとね)の構え。目隠し、深い塹壕状の土塁です。


本丸土塁



二の丸跡


馬出し



西三の丸跡




東三の丸跡



南大手門付近




南大手門の下は急斜面です。




大手門の下方は武田流築城術の三日月濠となっているのですが、城郭初心者の私にははっきり認識できませんでした。諏訪原城の三日月濠は明瞭でしたが。
新府城は躑躅ヶ崎館ほどは有名ではありませんが、武田勝頼が最後に築城した城であり、勝頼や武田十四将の霊所や長篠設楽原の合戦の将士の墓があって武田家末期のモニュメントとして感慨深いものがあります。


武田氏館の巻 「人は石垣、人は城」「風林火山」武田の躑躅ヶ崎館

2014-10-14 15:20:16 | 山梨
2013年3月、甲府城の次に武田神社、武田氏館、躑躅ヶ崎館を訪ねました。
武田氏の時代は躑躅ヶ崎館と言われてましたが、大正時代に跡地に武田神社が創建され、日本100名城では武田氏館として指定されました。










宝物殿は開館時間を過ぎていたために入館できませんでした。



発掘調査が今も続いています。







甲府城の巻 中央線の線路が城を分断、天守閣再建計画も

2014-10-14 14:33:49 | 山梨
2013年3月に訪ねた甲府城の写真をアップします。

甲府城跡は今は舞鶴城公園となっています。桜は満開でした。

本丸天守台跡

復元された稲荷櫓

信玄まつりの旗が並んでいますが、甲府城は武田氏の城ではありません。徳川氏の城です。甲府城主・徳川綱豊(家光の孫)が六代将軍・徳川家宣となりました。綱豊の次に甲府城主となったのは柳沢吉保です







山梨県警本部。甲府城の周辺は堀を埋め立てられて官庁街になっています。

同じく山梨県議会議場。県警本部と県議会は歴史的建築物でしたが、県庁は普通のビルです。

2014年7月に再び甲府に立ち寄りました。
甲府駅の南側に甲府城本丸跡がありますが、線路の北側に山手渡櫓門が復元されています。
明治時代に鉄道を敷設する際、甲府城のど真ん中を通しました。その結果、城跡は南北に分断されました。




山手渡櫓から線路の向こうに本丸天守台が見えます。
甲府城に天守閣を復元しようという運動があるようです。江戸城にもありますが。