日本の名城・古城 城撮り物語

全国各地の名城・古城の現況を写真でレポートします。

高遠城の巻 武田氏最後の戦い、仁科信盛が織田軍を迎えて激戦

2017-08-04 12:53:54 | 長野

JR中央線・茅野駅のホーム看板。小彼岸桜と絵島生島で有名な高遠城跡への最寄り駅の一つです。
茅野の駅舎駅前の商業ビル姥塚古墳の碑
寒天の里の記念碑。背後の3本の柱は寒天を模しています。
茅野から高遠へは春の桜、秋の紅葉、夏の登山の期間限定でバスが運行されています。1日1便、終点は南アルプス登山基地の仙流荘です。このバスがない時期は高遠へは伊那市または伊那北駅からバスで行くことになり、東京からだとかなりの遠回りになります。
茅野から杖突峠を越えて高遠へと行きます。諏訪氏の居城、上原城がある城山の山並みが見えます。高遠駅。バスターミナルですが駅となっています。現代では駅は鉄道駅を指しますが、鉄道以前の時代では馬を替える場所であり、近年では「道の駅」もあるのでとくに違和感はないのでは。ユニークな二宮金次郎像御城下通りの商店街
藤沢川
太鼓櫓
阪本天山屋敷跡


大手門跡高遠の町並み
三の丸跡の高遠高校の碑
高遠高校の正門として使用されていた伝高遠城大手門藩校進徳館進徳館百年碑空堀さくら名所100選高遠城北ゲート


高遠閣。1936年に建築された木造建築、登録有形文化財。今風にいえば町のコミュニティセンターです。
天下第一の桜の碑
桜雲橋問屋門。城下にあった門を城内へ移設しました。

天正10年の織田信忠率いる織田軍の甲斐進攻の際に武田方の高遠城主・仁科盛信(信玄の五男)は籠城して徹底抗戦、最大の抵抗をし、ついには落城しました。武田氏最後の戦いです。高遠落城後、武田勝頼は新府城から天目山へと逃れ最期を遂げます。
コヒガンザクラの碑新城藤原神社
本丸跡
本丸からの眺望
本丸太鼓櫓中村元恒・元起の碑
招魂碑
白兎橋空堀法幢院曲輪
広瀬奇璧・河東碧梧桐の句碑裏面伊澤多喜男の無字の碑
南ゲート
保科正之と正之の生母・静の石像。静は2代将軍秀忠の子を懐妊し、生まれた子は保科家の養子となりました。正之は異母兄の3代将軍家光を補佐し幕政に貢献し、のちに会津藩主となり、保科正之の会津藩は幕末まで続きました。最後の会津藩主は松平容保です。
高遠町歴史資料館
「保科正之を大河ドラマに」のキャンペーン実施中です。絵島囲み屋敷
絵島の間新宿区と伊那市は友好提携の関係にあります。新宿御苑は高遠藩内藤家の屋敷の跡です。新宿は内藤新宿ともいわれました。昨年、新宿歴史博物館で友好提携10年を記念し「信州高遠藩」のイベントが開催されました。高遠湖。三峰川をせき止めた人造湖です。
三峰川に架かる白山橋
高遠ダム
国道152号の高遠大橋
高遠城の南壁
藤沢川
そば店
酒蔵の泉
ある商店のショーウインドーのポスター。高遠・伊那間は鉄道の計画はありましたが実現しませんでした。このポスターは幻の鉄道想像図かと推測します。建福寺
高遠石工の石仏群
本堂
保科正直(中央)、保科正光(左)、諏訪御料人(右)の墓。正直は戦国期に武田、豊臣、徳川の武将として活躍しました。正直の嫡男が正光。正光は秀忠の庶子を養子とし、正之に家督を継がせました。
諏訪頼重の娘、武田信玄の側室、勝頼の生母・諏訪御料人の墓です。
高遠駅に戻りました。待合室の石油ストーブです。北海道育ちの私としては懐かしいですね。中央構造線・フォッサマグナのポスター伊那市駅伊那市駅前

高遠城訪問は今回が3度目です。約25年前の過去2回はいずれも桜見物でした。小彼岸桜が見事だったことと絵島屋敷は記憶に残っていますが、当時は高遠が城跡だったことはあまり意識をしていませんでした。今回は城跡見物を目的に3回目の訪問をしました。
高遠城の歴史を簡単に振り返ると、築城は諏訪氏一門の高遠氏で、高遠氏は武田信玄と組み諏訪氏を滅亡させました。その後高遠氏は信玄によって攻略され高遠城は武田の城となります。信玄の家臣・山本勘助が城の改築を担当し、勘助曲輪として名前が残っています。
信玄は諏訪頼重の娘を側室とし、勝頼が誕生。勝頼は一時高遠城主ともなっています。信玄嫡男の義信が廃嫡され自決したのち勝頼は武田本家を継承、高遠城は信玄の弟・信廉、信玄の五男・仁科信盛が継ぎ、信盛のときに織田軍に攻められて落城します。
徳川期には旧武田家臣の保科正直が藩主となり、正光、正之(家光の異母弟)と続き、正之は会津へと栄転。1691年に内藤氏が入封し幕末まで続きます。その内藤家の江戸屋敷が甲州街道の新宿にありました。現在の新宿御苑一帯です。

小諸城の巻 島崎藤村で有名、千曲川を見下ろす「懐古園」

2016-03-09 14:48:32 | 長野

しなの鉄道・小諸駅の駅舎内

小諸駅


駅前の停車場ガーデン

しなの鉄道の線路を渡って小諸城址へいく跨線橋

立派な跨線橋です。これだけ幅があれば花見のシーズンでも大丈夫か。


三の門

秀忠憩石。秀忠が率いる徳川本軍は関ヶ原へ進む途中で上田城を攻撃します。秀忠は小諸城を本陣とし、この石に座ったそうです。


懐古園の入り口、三の門。小諸城址は今は懐古園となっています。

三の門の内側

徴古館

小諸城は武田信玄が築城し、一時は織田の武将・滝川一益が入城したが、徳川家康が関東に移ると仙石秀久が小諸城主となり、大規模な改修工事を行って現在に残る縄張りとなりました。北側は北国街道、南側は千曲川の断崖絶壁、城は北国街道沿いの城下町より低位にあって、街道から城内が見えたために「穴城」と言われたそうです。

券売所


野面積みの石垣

二の門跡


二の丸跡


二の丸に秀忠が滞陣したそうです。

二の丸跡から見る浅間山(2568m)。左は黒斑(くろふ)山(2404m)。黒斑山は1990年ころに一度登りました。

番所跡

中仕切門跡

北の丸跡

北の丸跡の弓道場


南丸跡

鶯石


空堀


稲荷神社

懐古射院、弓道場です。

南丸と本丸の間の紅葉谷に架かる黒門橋


紅葉谷

黒門跡



馬頭観音


ケヤキの大木

荒神井戸

藤村記念館

藤村像


桜開花観測木

小諸八重紅枝垂桜

武器庫


酔月橋。この先に小山敬三のアトリエと美術館があります。




酔月橋の周囲の空堀と断崖

「千曲川旅情」の藤村詩碑

水の手展望台。小諸城で私が一番好きな場所です。


水の手台から見下ろす千曲川の流れ。絶景です。


西側の絶壁


懐古園から千曲川へ下っていく道があります。一度川岸へ行ってみたい。


天守台北側の石垣

八重紅枝垂桜

富士見台

ここから富士山が見えるようです。

動物園

動物園と懐古園の間の空堀

小諸城は武田信玄の軍師・山本勘助が築いたという説もあります。


本丸跡の懐古神社


社務所

山本勘助が愛用したという謂れの鏡石

本丸跡の碑

新徴組に加わった小諸藩士・佐々木如水の碑

懐古園の碑

懐古神社の鳥居

小諸城址の碑


駕籠台跡



弓道場



東側の石垣と崖

浅間山の噴火でできた石を利用したために焼石と言われるそうです。




動物園の東側

小諸義塾記念館

「惜別の歌」歌碑

観光交流館

くらしかる浪漫館



小諸宿本陣主屋


上田城の巻 2度にわたって徳川の大軍を撃退、千曲川の段丘面に建つ平山城

2016-03-08 14:46:36 | 長野

上田駅に到着。しなの鉄道・上田駅の入口です。

赤備えの甲冑レプリカ


上田駅

真田幸村像

駅前の商業ビル。駅前通りが市街地へまっすぐに伸びています。

河岸段丘、崖下の道。当時、上田城の真下を千曲川が流れていました。このあたりを尼ヶ淵といい、上田城は別名、尼ヶ淵城と呼ばれました。

二の丸堀



二の丸橋


大河ドラマ館

真田十勇士ウォーキングマップ


東虎口櫓門。右に北櫓、左は南櫓

東虎口の空堀

千曲川の方向。今は新幹線、しなの鉄道が通っています。

東虎口の北側の本丸堀

真田石。真田信之が松代移封の際に運ぼうとしたが動かないために諦めたという巨石。

南櫓

千曲川方向

南櫓の内部

南櫓の内部。甲冑

信之の奥方・小松姫は旅の途中の鴻巣宿にて死亡。亡骸を上田へ運んだという駕籠

上田城の模型。左側が千曲川です。

空堀

渡櫓

南櫓

火縄銃

北櫓

北櫓内部


本丸跡の真田神社

赤備えの兜

真田神社の本殿

真田井戸。城外へ通じる抜け穴となっていたそうです。

西櫓

西櫓内部



山本鼎記念館標柱石。山本鼎は大正・昭和前期に活躍した画家です。山本鼎記念館がこの地にありましたが、2014年に上田市美術館が開館、山本作品は新しい美術館に移管されました。

上田市立博物館

上田城の模型。城下に千曲川が迫っている様子がわかります。

上田市立博物館別館

平和の鐘


二の丸堀

大河ドラマ館
上田城公園を出て市街地へ向いました。


八十二銀行上田支店のウィンドー。このあたりが上田城三の丸大手門、真田が徳川を迎え撃ち戦った第1次、第2次上田合戦の激戦地だそうです。



池波正太郎真田太平記館。「真田太平記」に登場する人物図、池波正太郎の真田関連作品年表などを展示しています。

高島城の巻 諏訪湖に浮かぶ「諏訪の浮き城」

2015-08-24 14:35:49 | 長野
猛暑の夏が続いていますが、私は夏の暑さに負けずに城攻めに専心しています。
高島城は諏訪湖畔にあった水城、浮き城で、諏訪の名門・諏訪氏の傍流・諏訪頼忠の子、諏訪頼水が初代城主です。諏訪氏の惣領家の諏訪頼重は武田信玄に攻められて滅亡しました。頼重の従兄弟・頼忠が御家再興を目指し、その子の頼水が関ヶ原の戦いの功績で悲願を達成し城主となったのが高島城です。

上諏訪駅


城下の縄手通り

諏訪湖へと注ぐ衣の渡川


もう一つ、中門川。衣の渡川も中門川も高島城の堀の役目を担っています。


高島城本丸の復元角櫓



高島城の復元天守


本丸と二の丸を結ぶ冠木橋と冠木門。高島城は本丸、二の丸、三の丸が梯型に連なった連郭式の配置です



冠木門。冠木門は左右2本の柱と梁だけの簡素な門の形式です。この門は櫓門ですね。当初は冠木門だたっために後々も冠木門と言われたようです。

ケヤキの巨木



覗石松

亀石。水をかけると亀型の紋様があらわれるそうです。

多門跡。多聞櫓だったのでしょうか。多聞櫓は防御のための長屋状の建物で囲んだ物です。建物内は武器庫、倉庫、つまり矢倉として使われました。

諏訪家の家紋、梶葉紋

小天守跡



天守入口

2007年NHK大河ドラマ「風林火山」のポスター。原作は井上靖、信玄役は市川亀治郎(現猿之助)、勘助は内野聖陽、由布姫は柴本幸。

こちらは1988年のNHK大河ドラマ「武田信玄」のポスター。原作は新田次郎、信玄は中井貴一、勘助は西田敏行、湖衣姫は南野陽子。二つのドラマでは、原作が異なるため諏訪頼重の娘、武田信玄の側室、武田勝頼の生母である諏訪御料人の名前が違っています。

明治初期に取り壊される前の高島城の写真

天守の内部階段

天守最上部

天守から見る内堀

諏訪湖

本丸の藤棚

本丸庭園

心字池。「心」という字の形の池です。


川渡門跡。ここから船に船に乗れたそうです。現在の門は三の丸御殿の裏門を移設したものです。



諏訪護国神社

西多門

諏訪出身の永田鉄山の像。相沢三郎に惨殺された陸軍省軍務局長です。文春新書から「永田鉄山 昭和陸軍・運命の男」という新刊が出ています。

本丸南東の富士見櫓

二の丸跡の諏訪市役所




東側の内堀


本丸東側の内堀の石垣


内側から見た角櫓

角櫓前のキハダ

心字池

埋門



本丸西側から見た天守


中門川

中門川沿いの遊歩道。所々に東屋があって、諏訪赤十字病院の医療スタッフらしき人が休憩していました。

諏訪湖に注ぐ中門川の河口



片倉館。富岡製糸場で知られる片倉工業の片倉財閥がつくった日帰り温泉施設。昭和3年(1928年)完成、設計は台湾総督府などを設計した森山松之助。入浴料650円。

片倉館会議棟

2代片倉兼太郎顕彰碑。片倉財閥は諏訪で製糸業としてスタートし、富岡製糸場を経営していましたが、戦後の集中排除法で解体されました。戦後存続会社となった片倉工業は繊維・アパレルの会社、婦人靴下「キャロン」のブランドで知られていました。一時自転車やオートバイも生産していたそうです。東京・京橋にレトロな本社ビルがありましたが、老朽化で解体されました。
さいたま新都心にあるコクーンシティは以前の片倉工業大宮製作所の工場跡地です。コクーンとは繭のことで、片倉工業の元となった事業を表わしています。片倉工業は現在では各地にショッピングセンターを経営し不動産業が主たる事業です。

隣接する諏訪市美術館。戦前は片倉財閥の私的博物館でしたが戦後諏訪市に寄贈されました。九段会館や愛知県庁、名古屋市役所と同様の帝冠様式です。前前都知事がいうところの「銭湯のような建築物」です。













龍岡城の巻 日本で二つだけの西洋式城郭、佐久の五稜郭

2015-07-29 14:34:37 | 長野
信州・佐久の五稜郭、龍岡城を訪ねました。私は小学校時代を函館で過ごし、五稜郭はきわめて身近な存在です。函館五稜郭と同様の西洋式城郭の五稜郭が佐久にもあると知り、是非一度訪問したいと思っていました。

龍岡城駅に到着。無人駅です。鉄道を利用してあちこちの城をまわっていますが、城の名前と同一の駅名は全国でも珍しいのでは。





龍岡城駅から龍岡城跡までは徒歩で20分ほどです。大手門の手前に城跡碑と部分的な石垣があります。ここの石垣は後世の物という気がします。


曹洞宗の寺院、蕃松院



佐久市歴史の里であいの館



であいの館の内部。龍岡城は函館五稜郭と同様に五角形、西洋式の星形城郭です。

龍岡城の大手門。龍岡城は幕末期に三河の大給(おおぎゅう)松平の藩主、松平乗謨(のりかた)が西洋式築城術に興味を持ち、函館五稜郭を築いた武田斐三郎の影響を受けて、佐久に西洋式城郭を築いたものです。工事は1864年(元治元年)に開始されたが、幕末風雲急な時に乗謨も幕政に関与し多忙を極め、建物は完成したが堀は未完のまま1867年(慶応3年)に工事は中止され、明治初期に廃城となりました。五角形の城郭のうち大手門側の濠の五分の三は完成したが、裏側は土塁です。

松平乗謨改め大給恒の像。大給恒は明治期には赤十字社運動に活躍しました。

北側の大手門付近の濠。幅は9mほどです。

大手門の内側

大手門近くの田口招魂社

五稜郭内の田口小学校




御台所。当時の建物のようです。

土塁外側の小学校プール


西側の黒門。現在は小学校の通学路となっています。黒門から南側の濠は未完成で土塁のままです。






東側の通用門

小学校の体育館のようです。

北側の大手門付近の石垣はきれいな切込みはぎですが、南側の濠の外淵は野面積みです。
龍岡城は幕末に蝦夷地防衛のために築城された函館五稜郭とは異なり、城郭というより藩主の居館です。周囲の濠は平均で7mくらいですから、防衛というより防犯という程度の意味合いです。
私は函館時代に小学校で函館の五稜郭が日本で唯一の西洋式城郭だと教わりました。佐久にも五稜郭があるとすると、五稜郭は普通名詞なんでしょうか。
函館にはあまり知られてはいませんが、四稜郭もあります。こちらは五稜郭ほど本格的な城郭ではなく、濠のない四角形の土塁です。箱館戦争の際に旧幕府軍が五稜郭の出城として築いた砦です。

龍岡城駅に戻ってきました。