日本の名城・古城 城撮り物語

全国各地の名城・古城の現況を写真でレポートします。

関宿城の巻 利根川・江戸川の分岐点に築城し、江戸への水運の要衝を支配

2015-05-31 18:55:12 | 千葉
群馬県の谷川山系を源流とする利根川は関東平野を北から東へと流れ銚子で太平洋に注ぎます。千葉・埼玉・茨城の県境付近では南方向へ分流し江戸川となって東京湾へとつながっています。利根川と江戸川の分岐点、Tの字の北側は茨城県、南西は埼玉県、南東は千葉県に属し、千葉県の最北端の部分の野田市に関宿城はあります。
戦国時代、この地は越後の上杉、常陸の佐竹と小田原の北条が互いに争った地で、最初に築城したのは上杉方の武将の簗田氏でした。のちに北条氏の城となり、江戸時代は関宿藩として利根川・江戸川の舟運を支配し幕末まで続きました。
銚子や野田の醤油、北関東の米や銚子の魚は房総半島を迂回せずに利根川、江戸川を経て江戸の町へと船で運ばれました。その水運を守るのが関宿城でした。

千葉県立関宿城博物館です。関宿城跡の碑は博物館から200メートルほど離れた江戸川の河川敷にあります。関宿城周辺は明治以降、利根川・江戸川の河川工事で流路がたびたび変更になりました。そのため城跡はほぼ残っていません。現在の博物館は河川堤防の上に作られた鉄筋コンクリートの模擬櫓で、昔の姿を復元したものではありません。あくまで関宿城風の建物といった存在です。



博物館の入口

模擬櫓の最上階

最上階からの眺め。利根川と遠くに筑波山

利根川に架かる境大橋。境大橋の少し上流に江戸川との分岐点があり、江戸川は写真の左の方向へと流れていきます。

関宿城の平面図

関宿城の立面図


北関東の鳥瞰図


日本庭園から見た模擬櫓

日本庭園の門



南東から見る模擬櫓

江戸川河川敷にある関宿城跡碑。博物館とは200メートルほど離れています。

城跡碑から見た模擬櫓

関宿は終戦時の総理大臣・鈴木貫太郎の出身地で、記念館があります。

鈴木貫太郎記念館

終戦の御前会議の絵

「日本のいちばん長い日」がまた映画化されるようです。今年8月に公開です。

逆井城の巻 逆井氏が築き、北条氏が攻略し北関東の拠点とした土塁の平城

2015-05-29 18:53:56 | 茨城

茨城県坂東市の逆井(さかさい)城を訪ねました。坂東市は岩井市と猿島郡猿島町が2005年に合併し発足しました。逆井城は旧猿島町にあった城で、15世紀半ばに逆井氏によって築かれ、16世紀半ばに北条氏の攻撃で落城し、北条氏は下野方面の拠点としていましたが、豊臣秀吉の関東攻略によって北条氏は滅亡し逆井城は廃城となりました。


北側を飯沼、西側を蓮沼に面した台地に築かれた土塁の城です。飯沼、蓮沼は江戸時代に干拓され、城跡の周囲は田園風景が広がっています。
逆井城は別名飯沼城とも言われます。逆井という地名は千葉県柏市にもあり、首都圏では千葉の逆井のほうが知られています。
逆井城を訪ねるには車は必須です。電車ですと最寄り駅はJR東北線の久喜駅または古河駅、関東鉄道の石毛駅ですが、バスはないと思います。





復元された二層櫓。戦国時代の関東の城らしく石垣ではなく土塁の城です。

二層櫓の内部

二層櫓から旧蓮沼の方角

南西の井楼(せいろう)櫓



弓矢狭間。弓矢狭間は縦長で、鉄砲狭間は正方形です。


井楼櫓からの眺め



北西部の木橋。この先は沼地でした。


逆井城の外側は一面水田です。


飯沼を埋め立て水路として残された西仁連川。筑波山が見えます。



櫓門




埋め立てられた旧飯沼




北東の井楼櫓

二重土塁



城跡公園内はゲートボール場として整備されています。





鐘掘池。沼が近いので水は豊富です。


観音堂

千葉の関宿城から移設された薬医門

茨城県牛堀町にあった大台城から移設された主殿

主殿の庭園

薬医門の内側

逆井城跡公園管理事務所

逆井城の南西側



松代城の巻 関ヶ原で東軍に味方した真田信幸の城

2015-05-20 18:22:02 | 長野
信州松代、真田氏の松代城を訪ねました。真田家は上田城が本城でしたが、関ヶ原の合戦で東軍に味方した真田信幸(信之)が上田城から移り、以降松代藩として幕末まで続きました。

松代城の太鼓門

松代城の絵図面。松代城はもとは武田信玄が上杉と対抗し善光寺平をおさえるために作った海津城です。武田・上杉が激戦を繰り広げた川中島は松代の北、上杉が布陣した妻女山は西に位置しています。三日月堀は静岡の諏訪原城や山梨の新府城にもありましたが、松代城ほど規模は大きくはなかった。残っていないのは誠に残念。

現在の松代城の案内図

二の丸南門跡



太鼓門と太鼓門前橋

太鼓門前橋の堀

太鼓門の狭間


太鼓門


太鼓門の枡形門

本丸跡


東不明門


東不明門の堀


北不明門

海津城跡の碑



北西隅櫓の石垣

北西隅櫓跡

北不明門の外側の二の丸

北西隅櫓の西方の土塁と堀




北不明門。不明門とは裏門、勝手門のことです。

狭間


北不明門の枡形門


北不明門の外側





北西側の土塁


西側の堀



真田家の重臣、小山田家の屋敷

松代藩校文武学校




文武学校の文学所。漢学の講義を行いました。

剣術所

弓道所

旧白井家表門

真田勘解由屋敷

旧樋口家門

旧樋口家住宅


真田家の新御殿。9代藩主の母の隠居所として建設され、明治以降は真田家の私邸として使用されました。


真田邸の庭園


真田宝物館

松代城の模型


矢沢家表門

池田満寿夫美術館と小布施の菓子店・竹風堂の松代店。池田満寿夫美術館は竹風堂の運営です。


長野電鉄旧屋代線の旧松代駅。屋代線は2012年4月に廃止され、松代駅は駅舎は残っていますが廃屋のようになっています。

福岡城の巻 筑前52万石、黒田官兵衛・長政父子が築城

2015-05-06 16:15:19 | 九州


昨年の大河ドラマ「軍師官兵衛」の黒田官兵衛・長政の父子が関ヶ原の武勲で豊前52万国の大大名となり築いた福岡城を訪れました。


下之橋御門の枡形門と潮見櫓


石垣


下之橋御門

黒田官兵衛(如水)が隠居所とした御鷹屋敷の跡

名高門


御鷹屋敷跡の藤棚


本跡へゆく松木坂


福岡城はこういった説明板、案内板がよく整備されています。私がこれまで訪れた城の中では充実度はトップクラスです。




本丸表御門の石段


観光用の旗


本丸北東隅の祈念櫓

祈念櫓付近から見る博多の町並み。福岡市は那珂川の西側、福岡城の城下を福岡といい武士の町で、那珂川の東側は博多といい商人の町として発展しました。




天守台



天守台からの眺望

天守台の最上部

天守台の下




武具御門付近

南丸の門



復元された南丸の多聞櫓


南丸







武具櫓下の石垣


二の丸から見上げる祈念櫓



東御門跡


福岡城むかし探訪館


むかし探訪館の館内

鴻臚館跡。鴻臚館は飛鳥・奈良・平安時代に隋唐・新羅の使節を迎えた迎賓館です。福岡城は鴻臚館の跡地に造られ、鴻臚館跡と福岡城跡は二重の国指定史跡となっています。かつて西鉄ラインズの本拠地、平和台球場があった場所で、現在は発掘調査が行われています。

黒田家の精鋭「黒田二十四騎」の一人・母里太兵衛の屋敷跡。太兵衛は福島正則から注がれた大杯の酒を飲み干し正則自慢の槍を飲み取ったという豪傑です。「酒は飲め飲め、この槍を…」の「黒田節」に歌われた主人公です。



桐木坂御門付近





下から見上げる多聞櫓



城の南側の濠


福岡市美術館

大濠公園。もともとは博多湾の入江でしたが、築城に際し入江を埋め立てて城の濠としました。福岡タワーが見えます。

巌流島の巻 武蔵と小次郎が決闘をした関門海峡の小島

2015-05-05 19:13:49 | 中国
慶長17年(1612年)に宮本武蔵と佐々木小次郎が決闘をした巌流島へ行きました。
巌流島の正式名称は舟島、舟の形をしていたので舟島と言われ、武蔵・小次郎の決闘ののちは小次郎の号に因んで巌流島と言われています。
武蔵・小次郎に私が初めて接したのは村上元三の「佐々木小次郎」。次が内田吐夢監督の映画「宮本武蔵」、武蔵は中村錦之助、小次郎には昨年亡くなった高倉健。
テレビでは北大路欣也の「宮本武蔵」、小次郎は中谷一郎。10年ほど前のNHK大河ドラマ・市川海老蔵の「武蔵」、小次郎は松岡昌宏。
以上の映画・テレビはすべて吉川英治の原作です。吉川以外では小山勝清の「それからの武蔵」、五味康祐「二人の武蔵」、ほかにも司馬遼太郎、柴田錬三郎、津本陽など多くの歴史小説作家が武蔵を書いていますが、吉川英治による「武蔵」像が圧倒的な主流です。

巌流島へは下関の唐戸桟橋から船が出ています。

今年は巌流島の決闘から403年です。

中国自動車道の関門橋

源平の合戦で壇ノ浦に身を投じた安徳天皇と平家の武将を祀る赤間神宮。平家物語の建礼門院の見た夢にちなんで龍宮城に似た造りです。神宮内の安徳天皇陵は宮内庁管理の天皇陵です。


15分ほどで巌流島の桟橋に着岸



武蔵・小次郎の武者絵



武蔵と小次郎の像


村上元三の文学碑

武蔵と小次郎については通説、伝説が多く、不明なことがたくさんあります。小次郎の出身地、生年、剣術の流派、いつどこで燕返しを始めたかはまったく不明です。巌流島の決闘のときの年齢も不明で、18歳説、50代説、さらに70代説もあり、細川藩の剣術指南だったという説もあります。武蔵のほうも巌流島では木刀で戦ったというのが通説ですが、武蔵も小次郎も真剣での立ち会いだった、武蔵の遅刻はあまりにも有名ですが遅刻はしなかったという説もあります。土産物店で「遅いぞ!武蔵」というドラ焼きを売っていました。美味でした。