日本の名城・古城 城撮り物語

全国各地の名城・古城の現況を写真でレポートします。

田原坂の巻 「雨は降る降る人馬は濡れる」西南戦争最大の激戦地

2016-09-13 16:42:39 | 九州

田原坂公園
九州の旅、最後の訪問地は西南戦争最大の激戦地、田原坂です。鹿児島を出発し熊本鎮台を包囲した薩摩軍は、小倉から熊本鎮台の救援に進軍してくる政府軍を田原坂一帯に防御陣地を築いて迎え撃ち、両軍は大激戦となりました。
「雨は降る降る人馬は濡れる越すに越されぬ田原坂 山に屍 河に血流る肥後の天地秋さびし」の歌で有名です。





弾痕の家


田原坂西南戦争資料館



当時の熊本城の写真

薩摩軍と政府軍の兵士

西南戦争で負傷した両軍の兵士の治療を行った博愛社は、その後日本赤十字社として発展します。


田原坂公園からの景色。雲仙岳が見えます。

資料館の裏側

薩摩塚


戦没者慰霊碑




大楠

美少年像「雨は降る降る人馬は濡れる 越すに越されぬ田原坂」

崇烈碑





水原秋桜子句碑「大綿や古道いまも越えがたき」「辺見隊守りし嶮ぞ烏瓜」「吉次越狐の径となりて絶ゆ」と三つの句を刻んでいます。大綿は季語で冬虫のこと、辺見とは薩摩軍の隊長・辺見十郎太、吉次とは田原坂の近くのもう一つの激戦地、吉次峠のことです。



パノラマガーデン




金峰山県立公園



境米蔵像。ネットで検索した結果、植木町の初代町長・名誉町民だそうです。

西南戦争百周年記念碑


政府軍の包帯所があった正念寺。博愛社(のちの日本赤十字社)発祥の地です。





七本柿木台薩軍墓地







七本官軍墓地。薩軍墓地は共同墓地ですが、官軍墓地は一体ごとに墓碑を建てて埋葬されています。
田原坂一帯には山縣有朋歌碑、谷村計介之碑、有栖川督戦地、篠原国幹戦没地、薩軍三勇士の墓、乃木希典奮戦の地のほか墓地、慰霊碑、砲台跡、戦跡など多くの遺跡があります。関ヶ原のような広大な古戦場なので、丁寧に探訪するとすると1日や2日ではとても足りません。



鞠智城の巻 大和朝廷が唐・新羅の侵攻に備えて築いた朝鮮式古代山城

2016-09-13 16:41:51 | 九州

鞠智城歴史公園の防人のモニュメント
菊池市に隣接する山鹿市の鞠智城歴史公園に立ち寄りました。鞠智城は7世紀後半につくられた朝鮮式古代山城です。朝鮮半島の白村江の戦いで新羅・唐の連合軍に敗れた大和朝廷は新羅・唐軍が対馬海峡を渡って九州に攻めてくることを怖れて北九州一帯に多くの城塞をつくりました。最前線である対馬に金田城、今の福岡県には太宰府、大野城、水城、基肄城がつくられ、鞠智城は後方支援基地でした。
平安時代に太宰府から派遣された菊池氏の初代は鞠智を菊池とかえて名乗ったそうです。

八角形鼓楼

長者館

温故創生館


温故創生館の1階


2階の展望フロア

2階からの展望。鞠智城跡は鼓楼のほか兵舎、米倉、板倉が復元され、土塁や堀の跡も整備されています。私は北海道出身、東京在住のため九州の歴史も、また古代の歴史もまったく無知であるため、鞠智城、鞠智一族のことは新鮮でした。


原城の巻 島原の乱、キリシタン・農民の一揆勢が籠城し落城

2016-09-12 16:41:12 | 九州

島原城から1時間ほど走って原城址に到着。雨は本降り、海が間近で風も強い。決死の思いで車から出て城の撮影を開始。



原城は1496年に有馬氏が日野江城の支城として築城し、有馬氏が延岡に転封となり、松倉氏が1616年に島原に入封、新たに島原城を築城しました。幕府の一国一城令で日野江城、原城は廃城となり、島原の乱が発生、廃城となった城址にキリシタン・農民の一揆勢が立て籠もりました。


本丸への進入路


池尻口門



本丸跡

本丸跡の十字架

天草四郎の墓

天草四郎像

太平洋


原城址碑






石垣内隅部




長崎県新観光百選



ホネカミ地蔵

虎口



最悪の天気でした。晴れた日にじっくり探索をしたいと思うが、島原は遠い、もう一度来られるかどうか何とも言えません。


島原半島をあとに熊本へ戻ります。


島原城の巻 島原の乱の原因をつくった松倉氏の城

2016-09-12 16:40:36 | 九州


熊本港からフェリーに乗船、島原半島の雲仙岳です。雲仙岳は妙見岳、普賢岳、国見岳の三峰に五岳を含めた山体の総称です。妙見岳は1333m、1991年6月に大火砕流が発生した普賢岳は1359m、国見岳1347m、平成新山は1483mです。

宇宙ツツジ。女性宇宙飛行士の向井千秋さんと一緒に宇宙旅行をしたツツジの種子から育ったツツジの木です。群馬県館林市から寄贈されました。

島原城天守


御馬見所


天守入口

島原の乱で一揆勢は最初に島原城に押し寄せましたが、攻撃を断念し、原城址に向かい原城址で籠城することになりました。

原城攻防戦の模型




島原城普請図。島原の領主となった松倉重政は島原城を築城しました。城普請の動員と重税で苦しんだ農民はついに一揆に立ち上がり、一揆の農民と禁教となったキリシタンが合体して島原の乱が起こりました。

島原藩の大砲

天守模型

島原大変は1792年の雲仙岳の噴火、眉山の山体崩壊、対岸の肥後国への大津波の一連の大災害です。



天守から見た島原市街

島原鉄道・島原外港駅。島原鉄道・諫早駅は2015年1月に行きましたが電車には乗れませんでした。今回も島原鉄道に乗る時間がありません。鉄道ファンと城ファンの両立はけっこう難しい。

天守最上階


民具資料館

西望記念館

蓮堀

北村西望の像。西望は長崎平和祈念像をつくった彫刻家です。




天草四郎像


西望記念館

加藤清正像

平和祈念像の縮小模型


北村西望


民具資料館




資料館内部

島原城の諫早門門扉

シャープの書院。これは懐かしい。仕事用として愛用しました。ワープロはいまや歴史的資料として展示されるのです。

古野梅苑

松倉重政の祭祀祠





観光復興記念館

西の櫓


西の櫓と石垣



雨脚が強くなりましたが、いそぎ原城址を目指します。

熊本城の巻 今年4月の地震で天守・櫓・石垣は大きな被害

2016-09-11 16:39:52 | 九州

熊本城西大手門前。ここから先へは進めません。
熊本城二の丸駐車場に車を停めました。城彩苑の駐車場はすでに満車、二の丸ももうじき満車の状態でした。


神風連の乱戦死者の碑。西南戦争は明治10年、その前年に神風連の乱がありました。

二の丸広場から見る大天守(写真右)、小天守(同中央)、宇土櫓(同左)。

西大手門櫓

大天守

西大手門付近の石垣

神風連討入口の碑。旧肥後藩士・大田黒伴雄らが起こした士族の乱です。大田黒らは自らを敬神党と名乗ったが、一般的には神風連と呼ばれました。敬神党は熊本城(当時は熊本鎮台)を襲撃したが一夜で鎮圧されました。

石垣が崩壊した未申櫓


未申櫓の石垣



未申櫓

飯田丸五階櫓

城彩苑のひごまる


城彩苑。苑内の食事処で腹拵えです。


湧々座内の熊本城模型

城彩苑と二の丸を結ぶシャトルバス

宇土櫓。二の丸広場に戻りました。本格的に熊本城を探訪します。

左から宇土櫓、小天守、大天守



戌亥櫓


右から大天守、宇土櫓、小天守

戌亥櫓

神風連の乱の碑

藩校時習館跡

スダジイの巨木


県立美術館。時間があれば見学したいが、私は熊本城見学が主目的なので入館はパスしました。

美術館前の虎口


戌亥櫓付近の石垣



西南戦争籠城将校家族避難跡

戌亥櫓


北大手門付近の石垣

戌亥櫓

加藤神社の鳥居

宇土櫓。関ヶ原で敗れた小西行長の宇土城の天守を移設したのが宇土櫓です。

大天守

加藤神社の石垣



大天守と小天守

加藤神社本殿



北大手門から下る棒庵坂。熊本城を時計回りで一周します。

KKRホテル。熊本城を展望できるそうです。


高石垣

不開門付近の平櫓

五間櫓付近の石垣

県立美術館分館


熊本大神宮

熊本稲荷神社

須戸口門


坪井川


被害を受けた長塀


馬具櫓

行幸橋際の加藤清正像


坪井川


馬具櫓の石垣

櫨方門

城彩苑の門

城見櫓。熊本城を展望できるレストランです。閉店していました。

熊本市役所。展望フロアから熊本城を展望できます。日曜も開放されているのはありがたい。




展望フロアからガラス越しに撮影しました。

熊本市街

熊本市電



城彩苑から見た飯田丸五階櫓