日本の名城・古城 城撮り物語

全国各地の名城・古城の現況を写真でレポートします。

岡山城の巻 宇喜多秀家が築城、徳川時代は池田家が藩主として続く

2015-09-29 16:22:06 | 中国
備中松山城をあとにして岡山市内へ戻り、後楽園と岡山城を訪ねました。


日本三名園の一つ、後楽園です。後楽園に入り、旭川を渡って岡山城へと歩きます。後楽園は庭園でもあり岡山城防御のための曲輪でもあります。


沢の池と岡山城。後楽園に初めて入園しました。圧巻ですね。大きな池に緑の庭園、背景には岡山城が。水戸偕楽園、金沢兼六園、岡山後楽園、訪れた季節もありますが、私は後楽園が一番だと思いました。広大な芝生の日本庭園は珍しいですね。




旭川に架かる月見橋


いよいよ岡山城です。



岡山城の廊下門




廊下門付近

宇喜多秀家時代の古い石垣


中段の表書院跡。岡山城は本丸・二の丸という言い方ではなく、本段・中段・下段というようです。

穴蔵跡

泉水跡


月見櫓。国指定重要文化財です。


不明門(あかずの門)

天守の礎石

六十一雁木上門



岡山城は宇喜多直家・秀家の居城で、直家は備前の戦国大名で謀将として知らます。その子・秀家は備前中納言、五大老のひとりとして豊臣政権を支えました。関ヶ原の後には小早川秀秋が入城し、秀秋が早死すると、池田輝政の次男・三男が入城、幕末まで池田家の城として続きます。
岡山城は1945年6月の空襲で消失しましたが、1966年に鉄筋コンクリート、エレベーター付きの城として再建されました。
黒漆喰が美しく別名、烏城(うじょう)と呼ばれます。烏の濡れ羽色のように輝かしい黒です。


天守入口


天守内のエレベーター

天守最上部

天守から見る旭川と後楽園

シャチホコ

廊下門付近の石垣。天守へは大手門、表書院、廊下門の手前を右折して進むのがメインルートのようですが、私は廊下門から入り、表書院、不明門、本段へと進みました。時間があれば他のコースも歩きたかったです。


廊下門外から見上げる月見櫓と石垣

備中松山城の巻 日本で一番高い現存天守の山城

2015-09-28 16:21:00 | 中国
ネットで大手旅行会社の「1泊2日備中松山城・岡山城・竹田城跡・姫路城」という格安ツアーを見つけました。団体旅行で古城へいくのは本意ではないが、備中松山城と竹田城は交通が不便な場所にある山城なので、関東からいくのは結構大変です。
個人でいこうと思い何度か計画を立てましたが、時間とコストを考えるとどうも納得がいかない。迷っていて先延ばしするより、不本意でも決行することが大事と思い、団体旅行への参加を決めました。

岡山空港で観光バスに乗車。地元のしもでんバスにお世話になりました。「しもでん」というとあまりいい語感ではありませんが、かつての鉄道会社・下津井電鉄のバスなのです。

高梁市の市街地の駐車場に到着し、そこで小型バスに乗り換えて備中松山城へ向かいます。ちなみに備中松山城は高梁市にあり、伯備線の備中高梁駅が最寄り駅です。備中高梁の町は古い城下町で「男はつらいよ」のロケも行われました。



小型バスで城山中腹のふいご峠駐車場に到着し、ここからは徒歩です。松山城は臥牛山という標高430mの山頂に水野氏によって造られた山城です。



上太鼓丸櫓跡からの眺望。高梁市街を見渡せます。





大手門付近

二の平櫓跡


現存の土塀。国指定重要文化財です。


松山城では天守をはじめ二重櫓と三の平櫓東土塀が国指定重要文化財です。




二の丸跡に到着。天守と本丸南御門の櫓。天守は水野氏が築き現在に至る重要文化財ですが、南御門と両側の櫓は復元された物です。

二の丸は山城としてはかなり広いスペースです。



天守の北側にある二重櫓。これも国指定重要文化財です。巨大な岩盤の上に造られています。

天守北側の後曲輪

本丸から見る二層二階の天守。外観は三層に見えます。



天守内部

天守からの眺望

本丸跡

天守の唐破風と石落とし

本丸東御門(復元)

本丸土塀

天守の千鳥破風

現在の松山城の北に標高470mの大松山があり、そこに中世の山城、大松山城の城跡があります。




備中松山城は十分満足でした。松山城は愛媛県にもあり、そちらは伊予松山城といいます。実は関東にも松山城はあります。現在の東松山市にあった城で、区別する場合は比企松山城といえばいいでしょうか。
松山城は竹田城とならび「天空の城」として知られています。ポスターにあるような雲海に浮かぶ姿は城の北西の松山城展望台から撮影できます。私も挑戦したいとは思いますが、雲海を撮影できるのは冬の日の早朝限定ですからかなりハードルが高いです。

二俣城の巻 徳川家康の嫡男・信康が武田と内通の嫌疑で切腹

2015-09-10 17:47:08 | 静岡
遠州鉄道の終点、西鹿島駅に到着。西鹿島で天浜線に接続しています。私は西鹿島で下車し、徒歩で天竜川を渡り二俣城へ向かいます。

遠鉄・西鹿島駅。現在は浜松市天竜区ですが、かつては二俣町でした。二俣町は1958年に天竜市となり、2005年に浜松市と合併、2007年浜松市が政令指定都市となったのに伴い浜松市天竜区となりました。天竜区は旧佐久間町、旧水窪町などを含み、天竜川の中流部から上流部まで、長野県と県境を接する広大な区で、日本有数の林業地帯です。

途中で見かけた映画会のポスター。私は中学の時にこの「反逆児」の映画を見たのを覚えています。主演は中村錦之助。織田信長の映画だと思ってましたが、松平信康の映画だったんですね。原作は大佛次郎。

天竜川に架かる鹿島橋を渡ります。前日東海地方を台風が通過しているので水量は多いです。

天竜浜名湖線の鉄橋

橋をわたるとすぐにトンネル。このトンネルの上は鳥羽山(標高108m)。鳥羽山城という二俣城の出城があったようです。

二俣城へいく坂道



城跡の旭ヶ丘神社へ上がる石段



二の丸跡

城山稲荷神社


本丸虎口

本丸跡








天守台

天守台の木々の隙間から天竜川が見えます。

二俣城は戦国時代に今川氏が砦を築きました。その後、今川滅亡後は武田と徳川が争奪し、徳川が勝ち取り大久保忠世を城主としました。織田と同盟していた徳川に家康の正室・築山御前と嫡男・信康が武田と内通をしたとの嫌疑がかけられ築山は殺害、信康はこの二俣城で幽閉後に切腹をさせられました。徳川にとって大きな悲劇の舞台となった城です。城の近くに信康を葬った清瀧寺があります。

本丸北の虎口

北郭跡の旭ヶ丘神社

本殿


本丸と北郭を結ぶ石橋


市街地側の二俣城址入口


信康山清瀧寺。信康を祀った寺です。

山門

本堂


信康廟

本田宗一郎は旧二俣町の出身。宗一郎は小学生時代、この鐘を正午の30分前に突いて早めし(早い時間に弁当を食べること)をしたそうです。

井戸櫓

清瀧の滝
信康は家康の長男・嫡男でしたが切腹。次男の秀康は豊臣との和睦に際して豊臣の養子となりましたが、秀吉に実子が誕生すると結城家の養子とさせられました。秀吉の死後、結城秀康は関ヶ原の戦いでは上杉の備えとして関東に留まり大事な役割を果たします。三男秀忠は関ヶ原の戦いに遅参、家康は激怒し面会を拒絶。秀忠は廃嫡となって秀康が嫡子に復帰してもおかしくなかった。関ヶ原の勲功で秀康は越前65万石の大大名となるも若くして病死。
信康は信長の「信」の字をもらい、秀康は秀吉の「秀」の字をもらいました。家康の長男・次男は2人とも苦労しましたね。

本田宗一郎ものづくり伝承館

旧二俣町役場



ホンダの歴史的オートバイを展示中です。原付自転車、C型、スポーツカブ、スーパーカブ、モンキー、ドリーム50のホンダ車。トーハツ、ヤマグチの今はなき国産メーカーのオートバイ、海外メーカーのBSAを展示しています。

天竜浜名湖鉄道の天竜二俣駅から帰路へつきました。

高崎城の巻 徳川四天王・井伊直政が築城、今は跡地に市役所等が建つ

2015-09-04 17:46:29 | 群馬
岩櫃城の帰りに高崎で下車、高崎城へ向かいました。

高崎駅の西口です。


徳川四天王の一人、井伊直政は、徳川家康が関東入封とともに箕輪城主となり、じきに高崎に移り、高崎城を築城しました。関ヶ原の戦いの後は石田三成の居城佐和山城へ移り、佐和山の近くに新たに彦根城を築城します。井伊家は幕末の井伊直弼まで彦根藩主として続きます。高崎城の城主は井伊家の後は度々城主が変わって幕末へ至っています。
現在高崎城跡には市役所、音楽センター、シンフォニーホール、図書館、保健センター、裁判所、検察庁、高崎総合医療センター、市立中学などの公的施設やNTT群馬支店、郵便局、私立高校などが建っています。



高崎城東御門付近の堀と石垣

二の丸跡に建つ高崎市役所




三の丸東側の土塁と堀




三の丸南側の土塁と堀


高崎公園

公園の藤棚

ハクモクレンの名木

国立病院機構高崎総合医療センター。高崎城跡に歩兵十五連隊が設置され、陸軍病院も開設されました。城跡に陸軍、県庁舎・市役所、病院、学校というのがお決まりのコースです。


高崎城は西側は烏川に面し、中山道が通る東側には堀を配しています。明治になると城と烏川の間に国道17号が造られました。私は17号線を通って三国峠、苗場・湯沢方面、18号線を経て碓氷峠、軽井沢方面へは何十回と行ってますが、17号と18号の分岐点の東側の高崎城は当時の私の関心の対象外でした。

シンフォニーホール


群馬音楽センター。群馬で音楽といえば群馬交響楽団(群響)です。私は札幌出身ですが、札幌には札幌交響楽団(札響)があります。群響、札響ともう一つ京都市交響楽団は、「日本の三大地方交響楽団」だと札幌の中学の音楽教師が言ってました。この建物の設計は建築家アントニ・レイモンドです。1961年に建設され、「日本の近代建築20選」に選定されています。築50年以上を経過しているのでさすがに古さを感じますが貴重な建築物です。


移築復元された乾櫓


移築復元された東門

土塁

歩兵第十五連隊記念碑






高崎城の遺構は乾櫓あたりの集中しています。
高崎城はなぜ印象が薄かったのか。高崎城も高崎藩も歴史物語に登場することもあまりなく、有名な藩主もいなかったからなのではと私は思います。明治になって鉄道の開通とともに高崎は鉄道の町、交通の要衝として知られるようになりました。高崎観音、だるま弁当も有名ですね。
先日、吉村昭の「天狗騒乱」を読んでいたら、高崎藩の軍勢が下仁田で天狗党と激戦を繰り広げたとありました。

岩櫃城の巻 武田勝頼が最後に頼ろうとした真田氏の山城

2015-09-03 17:45:28 | 群馬
秋の長雨が続いていますが、晴れ間の一日、上州・真田の岩櫃城を訪ねました。岩櫃城は甲斐の岩殿城、駿河の久能城とならび武田の三名城と言われた名城です。武田の末期、武田勝頼は織田・徳川軍に攻め入られ、新府城を脱出。真田昌幸は岩櫃城へ勝頼を迎え入れ武田の再起を図ろうとしましたが、勝頼は甲州の天目山で自刃し、岩櫃へ落ち延びることはできませんでした。勝頼を迎えるためにつくられた潜竜院の御殿の跡が残っています。


岩櫃城跡にいくには群馬原町駅で下車。駅から城山の駐車場までは徒歩で30分ほどです。


城郭風の岩櫃城温泉

城山の麓の善導寺

岩櫃城への番匠坂

番匠坂を進んだのですが夏草が茂っていて道がわかりません。途中で車道へ引き返しました。

車道をいくと2倍くらい遠回りです。

岩櫃山登山口の駐車場

登山口の休憩所


岩櫃山登山口。岩淵山の中腹に岩櫃城があります。



中城跡



二の丸跡


本丸跡が見えてきます。

本丸付近からの眺望。今はたくさん木が茂っていますが、往時は城山下の真田街道、吾妻川を見渡せたと思います。

堅堀

本丸の東屋



岩櫃城址の碑。登山口からは徒歩15~20分ほどです。

櫓台

北桝形虎口

山頂への道。山頂の標高802m

一の木戸跡

登山口へ戻りました。登山口の標高は511m

岩櫃神社・天狗丸への道


岩櫃神社


山をくだって岩櫃城温泉で一風呂浴びました。入浴料は400円、銭湯並みです。人口が少なく観光客も少ないので入浴客は一桁でした。