日本の名城・古城 城撮り物語

全国各地の名城・古城の現況を写真でレポートします。

諏訪原城の巻 武田流築城術の半月型馬出が顕著に残る

2015-01-22 15:50:26 | 静岡

新年一番の古城訪問は東海道、金谷駅近くの諏訪原城です。諏訪原城は当時は南北に流れる大井川と東西に通る東海道が交わる交通の要衝にありました。1573年に武田勝頼が高天神城を攻略するための拠点として築城されたもので、三方を断崖に囲まれ、残る一方に空堀を配し、馬出の前面に三日月型の堀を設け典型的な武田流築城術が見られる城です。武田家滅亡後は徳川の城となって牧野城と名前を変え城郭も拡張されたが1590年ころに廃城となりました。山城であるために城の遺構はよく残って、現在も発掘作業が続いています。

金谷駅近くの陸橋から遠くに富士山が見えます。

旧東海道、金谷坂石畳の入口

ほとんどが丸石です。平成3年に石畳の復元運動が行われ、現在の姿になりました。

石畳の途中のすべらず地蔵尊。石畳の石は雨の日でもすべらない石だったためにすべらず地蔵尊がつくられました。合格祈願です。

石畳の下り口

諏訪原城の入口、大手側です。

何ヶ所かで発掘作業が行われています。

大手南外堀

大手の空堀

大手付近の茶畑


空堀


二の曲輪東内馬出あたりは立入禁止でした。

三の丸跡


二の曲輪の空堀

二の曲輪。けっこう広いです。大手からは二の曲輪を経て本曲輪に至ります。

五号堀


六号堀

本丸馬出口

本丸跡

天守台地。諏訪原城には天守はなく、2層櫓だったようです。

搦手口


本曲輪から大井川方向の眺望。本曲輪の北・東・南側は崖です。当時は本曲輪のもっと近くを大井川が流れていたようです。

本曲輪跡の案内板


本曲輪の中央付近に残る石垣


カンカン井戸

再び二の曲輪を通って大手へ戻ります。




諏訪神社。武田氏の守り神、諏訪神社を諏訪から分祀し、城名の由来となった。

大手馬出の半月堀。馬出の前に半月型の空堀を配するのが武田流築城の特徴です。


大手口

十二号堀。諏訪原城は別名扇城ともいわれ、扇の要に本曲輪があり、本曲輪の北・東・南は崖、西方に二の曲輪が扇状に広がっています。半月堀が残っているのもうれしい。心に残る山城でした。



久能城の巻 信玄が築城し、家康の死後は東照宮となった久能山

2015-01-22 15:43:18 | 静岡


JR清水駅から数少ないバスに乗って久能山下へきました。そこから約1100段の石段をのぼって東照宮へいきます。



眼下に石垣イチゴのビニルハウスが見えます。


久能山東照宮は徳川家康の墓所としてあまりにも有名ですが、久能山の歴史の説明を見て意外なことがわかりました。
久能山には飛鳥時代、600年ころに久能寺が建立され、1225年ころに山火事で寺院は焼失。1568年に武田信玄が久能山の地形を生かして久能城を築城しました。武田滅亡後は久能山は徳川の領地となり、家康の死後、家康の遺言によって家康の墓所、東照宮が造営されました。
城好きとしては貴重な史実を知ることができ、大きな成果です。

久能山は四方を断崖絶壁に囲まれています。

楼門


五重塔跡

奉納された酒樽。酒樽の名前に注目。右側上より「大権現」「秀忠」「家光」。「将軍」という酒もあります。

家康の墓所

駿府城から移植されたソテツの木

日枝神社


日本平ロープウェーの乗り場。東照宮のガイド氏によるとロープウェーの乗り場の近くに武田氏の久能城の石垣が残っているそうです。

ロープウェー日本平駅

日本平山頂から見える富士山

東照宮博物館

家康が使用した時計

社務所

石垣イチゴのビニルハウスが広がります。石垣イチゴとはイチゴの品種ではなく、イチゴの栽培法の名前です。石垣の保熱作用を活かしてイチゴを促成栽培し早春から出荷できるのが石垣イチゴの特徴です。