日本の名城・古城 城撮り物語

全国各地の名城・古城の現況を写真でレポートします。

村上城の巻 日本海を望む臥牛山の山頂に石垣遺構が残る

2016-09-02 16:37:28 | 新潟・富山・石川

町中の立派な民家


古峯神社と飯野門跡


村上藩内藤家の先祖、徳川家康の異母弟・内藤信成を祀る藤基神社。松平広忠の庶子で、家康のもと三方原、長篠、小牧長久手の戦いなどで活躍しました。

村上城址への近道。近道というとつい行ってしまう。


村上城址。村上城は16世紀初頭に本庄氏が築城、豊臣の時代に村上氏が入城、徳川の時代には堀、本多、松平が藩主となり、享保年間、1729年に内藤信成の子孫の内藤氏が藩主となり幕末へと至ります。北越戦争で焼失しました。

平和観音

七曲道の登り口


村上市街図



七曲道を15分ほど登ると石垣が見えてきます。

四ツ門跡。四足門のことでしょうか。

調練場跡




御鐘門跡



朝日・飯豊山系の眺望

出櫓跡付近の石垣




平櫓跡



埋門跡

冠木門跡


本丸跡の神社

本丸跡からの眺望

村上市街地の鳥瞰図。東北電力提供。東北電力のビルが目立っています。


天守跡

臥牛山、標高135メートル。臥牛山は全国各地にあります。備中松山城も臥牛山。わが故郷の函館山も別名臥牛山です。カリフォルニアのリバーサイド市にある山は函館山に形がそっくりなので、私は勝手に臥牛山と呼んでいました。

舞鶴城址の碑。村上城の別名は舞鶴城です。舞鶴城もいくつかあるような気がします。ウィキで調べたら全国に16もありました。米沢城、福岡城、甲府城、三春城など。京都府舞鶴市にある城は別名は舞鶴城ですが、本来は田辺城です。


本丸石垣

本丸虎口







黒門跡

中腹からの眺望


七曲道の登り口には一文字門跡があります。本丸へ行くただ一つの道なので一文字門といったようです。


城下の立派な御屋敷


村上高校跡の碑。校門と守衛所のようです。

村上市役所


追手門跡

村上名物鮭製品の店うおや。いくら、塩引、鮭味噌、鮭びたしなど鮭製品の有名店です。

大町文庫

菓子店

村上新聞社

観光案内所

ロンドンタクシーでしょうか。BIG BENというプレートが付いています。

「大洋盛」の造り酒屋


笹だんごの岩船家


城下の商店街。村上木彫堆朱の池田屋さんのご主人から漆器についていろいろ説明をいただきました。皇太子成婚の際に小和田家の引き出物は池田屋製の堆朱の漆器だったそうです。小和田家は村上の出身です。

村上市図書館

新潟厚生連村上総合病院


村上駅。昨日村上に着いた時は日没後でした。

駅前の観光案内所

「今は山中、今は浜」の唱歌「汽車」の作曲者、大和田愛羅は村上の出身です。こちらは大和田です。この碑文は稲葉修が書いたものです。稲葉は村上出身でした。とすると田中角栄とは同県人で選挙区は隣同士だったのです。


新発田城の巻 堀部安兵衛の故郷、自衛隊駐屯地内に三階櫓を復元

2016-09-01 16:36:24 | 新潟・富山・石川

新発田駅舎

駅前の商業施設


県立新発田病院

札の辻跡


市役所新庁舎建設現場のパネル。大倉財閥の大倉喜八郎は新発田出身です。初代・豊山(初の大学卒大関。引退後は時津風部屋の親方)も新発田の出身です。

文化会館





新発田城の二の丸跡。明治期には陸軍病院が建設され、戦後は国立新発田病院、のちに県立新発田病院となり、県立病院は駅近くの現在地に新築移転となりました。現在はアイネスしばたとして整備中です。

特別養護老人ホーム二の丸

鉄砲櫓。鉄砲櫓の跡地に旧二の丸隅櫓を移設したものです。


土橋門跡付近





本丸表門。旧二の丸櫓とともに国指定重要文化財です。

表門前の安兵衛茶屋。堀部安兵衛は新発田藩の出身です。新発田藩士のころは中山安兵衛という名前でした。高田馬場の決闘後、赤穂藩の堀部家の養子となり堀部安兵衛となりました。

堀部安兵衛武庸像

忠臣蔵サミットというイベントがあります。第1回の開催はやはり赤穂市、第2回はどういうわけか北海道砂川市。なぜなのか調べたら、砂川市の北泉岳寺に四十七士の分霊が祀られているるからだそうです。

忠臣蔵サミット記念碑

本丸表門。家紋は新発田藩主溝口家のものです。

復元された辰巳櫓

本丸堀


初代藩主溝口秀勝像





辰巳櫓



辰巳櫓の屋根瓦


辰巳櫓内部



本丸跡の北側半分以上は陸上自衛隊駐屯地です。戦前は陸軍歩兵連隊の駐屯地でした。


休み処

表門櫓


表門櫓の内部

辰巳櫓の模型

三階櫓の模型


鉄砲櫓(旧二の丸隅櫓)




自衛隊駐屯地内の三階櫓


本丸外から見る鉄砲櫓

復元された三階櫓。駐屯地内に復元されましたが、基地内なので立ち入り禁止、全国的に奇妙な城です。




新発田城は日本100名城に選定されています。新発田城ではどういうわけか「日本百名城」と表記。100名城と百名城、どっちが正しいかというと日本城郭協会は日本100名城と定めているので100名城が正しい。私は新発田城スタイル、百名城を支持しますが。

屋根には3体のシャチホコがあります。T字型の入母屋屋根の上にそれぞれシャチホコが乗っているという極めて珍しい様式です。

新潟青年師範学校記念碑

二の丸跡


二の丸跡の芝生広場

再び鉄砲櫓

三の丸跡


大手櫓跡


新発田駅に戻りました。

長岡城の巻 北越戦争の激戦地、河井継之助と山本五十六の記念館

2015-07-22 14:35:06 | 新潟・富山・石川

上越線の各駅停車で長岡駅にやってきました。


長岡といえば花火があまりにも有名。三尺玉打上げ筒のモニュメントです。私は30年ほど前に三尺玉の花火を見ました。本当に巨大な花火でしたが、重過ぎて空高くは上がらなかったと記憶しています。

花火筒の後ろに長岡城本丸跡の碑。知ってはいましたが、長岡城は戊辰戦争で全焼、その後は上越線敷設に際して本丸跡に長岡駅が建設されたために遺構はまったく残っていません。これほど見事に残っていない事例は稀有ではないかと思います。



シティホールプラザ・アオーレ長岡です。市役所、市議会、スポーツ・コミュニティの複合施設です。

アオーレ長岡の脇に長岡城址碑と二の丸跡の碑があります。

城内稲荷神社


長岡戦災資料館。長岡は終戦直前の7月20日と8月1日に空襲を受けました。20日の空襲は超大型爆弾が投下されました。これは模擬原子爆弾だったそうです。8月1日はB29の大編隊が来襲、市内は焼け野原となりました。
不思議に思ったのはなぜ長岡が米軍に狙われたかということです。館内の展示では「米軍は人口の多い都市の順に爆撃をした。新潟市が原子爆弾投下の候補地にリストアップされていたために通常爆弾の標的からは除外され、県内第2の市・長岡が空襲を受けた」と説明されていました。




河井継之助記念館。司馬遼太郎の「峠」で描かれた戊辰戦争時の長岡藩家老です。

テレビドラマ「駆け抜けた蒼龍」のポスター。河井継之助を演じたのは中村勘三郎、2005年日本テレビで放映。歴史ドラマ好きの私ですが、見逃したようです。



長岡藩が購入し、河井継之助も扱ったというガトリング砲のレプリカ。6つの銃身が回転しながら銃弾を装填し発射します。なんと1分間に200~300発の弾を発射するという高性能です。南北戦争で登場した新兵器ですが、カタログ性能ほどのことはなかった。そもそも機構が複雑過ぎます。ガトリング砲は西南戦争でも日清戦争でも活躍することなく、単銃身の機関銃が主流となっていきました。ガトリング砲が再び注目されるようになったのは第二次世界大戦後、ジェット戦闘機の時代となりバルカン砲としてその技術は復活しました。
数ヶ月前に「アメリカン・スナイパー」という映画を見ましたが、現代戦でも狙撃銃というのは大変威力を発揮するようです。下手な鉄砲数射ちゃ当たるではなく、一発必中の狙撃は戦場を支配するようです。ということでガトリング砲は命中精度も低く、射程距離も短く、接近戦で弾幕を張るという効果はありましたが、費用対効果は低く、結局は高すぎた買い物だったと思われます。

「常在戦場」は長岡藩の藩風・藩訓。三河以来の徳川家臣団、長岡藩の初代藩主・牧野氏の家訓だそうです。衆議院の解散風が吹き始めるとよく耳にする言葉ですが。

長岡城の模型


続いて山本五十六記念館です。

山本五十六の都内の自宅庭に植えられていた唐楓の木。

館内の展示。中央にあるのは山本が搭乗して墜落死した一式陸上攻撃機の実機の左翼です。

真珠湾攻撃と日本降伏を伝えるアメリカの新聞報道


山本公園。山本五十六生誕の地です。



山本五十六の生家


山本五十六の碑
長岡が生んだ人材というと河井継之助と山本五十六ですが、もう一人忘れてならないのは田中角栄。長岡市は柏崎市などと共に旧新潟3区(中選挙区)だったので、田中角栄のイメージが強いです。しかし田中角栄は二田村(のちの西山町、現在の柏崎市)の出身です。田中の支持団体・越山会の本部は長岡市の越後交通本社内あったために、長岡は田中にとってきわめて重要な地盤でした。ちなみに田中角栄の像は浦佐駅前にあります。

アオーレ長岡に戻ってきました。
この建物の建築デザインは隈研吾です。実は私、隈研吾の建築物が長岡にあることを知らずに長岡にやってきました。建物を見て、総合案内の人に設計者は誰かを質問したところ、隈研吾と教えてくれました。
私は都内や栃木県など隈研吾の建築はけっこう見ています。長崎の美術館の設計も隈研吾でした。私は隈研吾ファンであると自負しています。東京周辺にある建築は調べて積極的に見にいきますが、新潟県は調査不足で、知りませんでした。長岡で隈研吾の建築を見ることができたのはラッキーでした。アオーレ長岡は「会おうね」という意味の長岡弁「会おうれ」から名付けられました。

この場所は長岡城の二の丸跡で、明治以降は新潟の石油会社・宝田石油の本社所在地でした。新潟はかつては日本有数の産油県で、長岡近くにも油田がありました。その油田を開発したのが宝田石油です。宝田石油はその後、同じ新潟県の石油会社・日本石油と合併し、現在のJX日鉱日石に至っています。山田又七はその宝田石油の創業者です。日本の石油会社のルーツを発見しました。ついでにいうと新潟の有名企業・新潟鉄工所は日本石油から派生した総合機械メーカーです。

七尾城の巻 難攻不落、上杉謙信も攻めあぐねた能登の山城

2014-12-01 14:13:06 | 新潟・富山・石川

能登空港には「日本五大山城 七尾城」という観光案内広告が掲げられています。


七尾城の城山山麓に七尾城史資料館があります。七尾城の城主は畠山氏。畠山氏の子孫が荏原製作所の創業者で、畠山一族の寄付によってこの資料館は造られました。

資料館の前には三橋美智也の歌「古城」の歌碑。大ヒットした「松風さ~わ~ぐ…」という歌です。作詞家が七尾城を見て作詞したということではなく、歌がヒットした後に歌の内容が七尾城のイメージに合うことから歌碑が建てられたそうです。

本丸北駐車場。ここまでは車で登れます。徒歩の場合は資料館から約1時間かかります。

本丸北駐車場から眺め。七尾の町並み、七尾湾が見えます。

2代当主・畠山義忠の歌碑。畠山氏は室町時代の守護大名で、義忠は和歌の素養が高く文化への関心が高かった。


調度丸付近


野面積みの石垣は圧巻です。高さ3mくらいで段々になっています。

桜馬場への道

桜馬場付近。七尾城は防衛上の砦というより、畠山一族が日常も居住した山上の城郭都市といえます。遊佐屋敷、温井屋敷、少し離れて長屋敷と重臣たちの屋敷がありました。

遊佐屋敷跡


本丸下の石垣と石段

城主・畠山氏が居住した本丸跡。標高300m

北側・七尾湾の方向


本丸跡の城山神社

七尾城址の石碑。立派な石碑です。

本丸南側の土塁


本丸南側の断崖絶壁







本丸北側の石垣





桜馬場下の野面積みの石垣と石段


本丸北駐車場付近

旧百間馬場の城山展望台への入口

展望台付近からの眺望

紅葉は真っ盛りです。

展望台。標高380m

展望台からの眺望

展望台付近の遊歩道

七尾城は代々の当主は暗愚で、遊佐・温井・長の重臣3家が支えて約170年続いたが、上杉謙信の攻撃を受けてついに落城。七尾城は難攻不落だったが、重臣たちの内紛、暗愚な城主への不信、裏切りなどが原因で滅亡したとされています。
これらの話は南條範夫「続・古城物語」(富士見書房時代小説文庫)の中の短編「七尾城の桜の馬場」によるものです。文庫本の帯には「畠山一族の叛逆、陰謀、虐殺の数々を秘めた七尾城! その城壁から人々の怨念が…。日本の古城にまつわる残酷物語が今、明らかに。」とおどろおどろしいいキャッチコピーが書かれています。
この七尾城の物語はあくまで小説、しかも昭和の時代に書かれたものです。事実かどうか、どこからが創作かは私には分かりません。
荏原製作所と七尾城の関係は初めて知りました。創業者は守護大名の子孫だったんですね。旅をしていろいろ歴史を知るのは楽しいです。