日本の名城・古城 城撮り物語

全国各地の名城・古城の現況を写真でレポートします。

丹波亀山城の巻 「敵は本能寺にあり」明智光秀が京都へ進撃

2019-10-24 14:27:55 | 近畿
亀岡駅コンコースの展示
石田梅岩像。江戸時代の思想家、儒者、心学者亀岡駅。駅前通り。突き当りが亀山城跡。亀山城があるのになぜ亀岡市なのか? もともと幕末までは亀山という地名でしたが、三重県に亀山城があるので明治初期に亀岡に変更したそうです。かえってややこしや、です。駅名は最初から亀岡駅です。亀山城跡の南郷公園亀山城を築城し亀山の町を整備した明智光秀像。来年の大河ドラマを前にさぞ盛り上がっているかと思いましたが、そうでもなかった。亀山城のシャチホコ「時は今あめが下知る五月哉」。「敵は本能寺」本能寺に向かって明智軍が出撃したのがこの亀山城です。進軍のルートについては3つ説があるようです。雑水川春日小橋亀山城保津門跡亀山城跡の周囲を一周してみます。亀山城の本丸跡は大本教の本部となっています。大本本部の入り口
本部の建物県立亀岡高校作事跡。普請奉行、作事奉行の館があり、現代の役所の建築課、土木課のような部署です。亀岡の名木、エノキ南郷地蔵公園入口に戻りました。高橋和巳の「邪宗門」は大本教事件をモデルにしたと言われていますが、開祖と息子(養子)の親子が登場するというのは大本教に似ていますが、小説の内容は大本教事件とは全く関係のないフィクションです。明智家の家紋

小谷城の巻 織田信長に滅ぼされた浅井長政・於市

2016-10-19 16:49:43 | 近畿

今回の旅の主要目的の一つ、小谷城へいくためJR北陸本線・河毛駅にきました。
この建物は駅舎ではなく、コミュニティハウスです。駅は無人駅で、駅出口がハウスに直結、ハウス内は観光案内所、土産店となっています。


河毛駅とコミュニティハウスの接続部分

浅井長政とお市の像。河毛駅から小谷城址へはコミュニテイバスが運行されています。本数が少ないので厄介です。


正面の山が小谷山、その右側の尾根に小谷城が築かれました。







小谷城本丸跡への登山口。電車の都合、バスの都合で登山口に着いたのは4時を過ぎていました。本丸へは山道を40分歩きます。山間地の秋の日暮れは早く、下山の時は薄暮、あるいは夕闇の恐れがあり、今回は泣く泣く断念しました。獣避けの金網も恐怖感をつのりました。熊、猪、鹿が出没するようです。



小谷城戦国歴史資料館。本丸攻略はあきらめて資料館を見学しました。資料館の入口に100名城スタンプがあり、押してすぐ帰る人が多いようです。資料館でスタンプを押しただけで「小谷城へ行った」というのはあんまりだと思います。私もスタンプを押しましたが、私は必ず再訪し本丸を攻略します。

季節によって土日祝日限定で、山麓から尾根上の番所跡まバスが運行されています。そのバスを利用するのが近道かもしれません。マイカーだと簡単に番所跡までいけます。


泣く泣く河毛駅に戻りました。次回小谷城を攻める際は遅くとも午後一番には駅に到着する必要があると思います。



和歌山城の巻 紀伊徳川家5代藩主吉宗が徳川宗家を継ぎ8代将軍に

2016-10-19 16:49:12 | 近畿

和歌山市の中心部の市堀川。和歌山城の北外堀です。

北西の交差点から見る和歌山城天守と乾櫓

西外堀



吹上門跡、護国神社の鳥居


吹上門付近の石垣





西の丸庭園の入口

大天守(写真左)と乾櫓(右)。大天守のすぐ手前に小天守も見えます。

北堀

天守と御橋廊下

一の橋と大手門





大手門と一の橋

大手門

8代将軍徳川吉宗は紀州徳川家の5代目です。紀州徳川家初代は家康の十男・頼宣です。2代は光貞、3代は綱教で、ここまでは長子相続でしたが、4代は綱教の弟・頼職、5代がその弟の吉宗です。長子相続が続くのは難しい。その吉宗が今度は将軍家の8代となるから歴史のどんでん返しです。
吉宗のあと、紀州の6代目は光貞の甥、吉宗の従兄弟の宗直です。7代から10代までは宗直の系統が続きますが、11代は吉宗の系統から斉順、12代斉彊、13代慶福(のちの14代将軍家茂)と続き、慶福のあとは再び宗直の系統の茂承が14代当主を継ぎ幕末となります。
紀州家と将軍家の間でいったりきたりが繰り返されました。吉宗は御三卿(田安・一橋・清水家)の創設といい、徳川本家・紀州家の家系存続には大いに貢献しました。



一中門付近の石垣


和歌山城のシンボル、伏虎。和歌山城は虎が伏した形の虎伏山につくられた平山城です。虎伏山の山頂に本丸御殿、尾根上に天守を築きました。




本丸へと続く表坂




七福の庭。七福神を模した7つの石と舳先・船尾の2つの石で宝船を表現しています。



松の丸跡の石垣

本丸虎口


本丸御殿前の石垣。本丸御殿(虎伏山)は今は給水場になっています。


天守台の石垣

童謡「鞠と殿さま」の歌碑。作詞は西条八十、作曲は中山晋平です。


徳川御三家の和歌山城天守。豊臣秀吉の弟・秀長が最初に築城し、次に桑山氏、浅野氏が入城し、浅野氏が福島家断絶後の広島城へ移り、家康の十男頼宣が紀州藩を創設しました。真田信繁が九度山に蟄居していた時は和歌山城は浅野氏が城主でした。
ちなみに秀長のもとで普請奉行を務めたのは藤堂高虎です。藤堂高虎は何度も主君をかえたことでネガティブなイメージが強いですが、城造りの名人であり、和歌山城のほかに大洲城、宇和島城、今治城、津城、伊賀上野城を築いています。
城造りといえば加藤清正の名前があがりますが、藤堂高虎のほうが実績は上です。加藤清正は熊本城という名城をつくったのは事実ですが、どちらかといえば石垣積みの名人という気がします。



楠門(ニノ門)

和歌山城の沿革


乾櫓

ニノ門櫓

大天守と小天守。和歌山城の天守は連立式天守で、北西に乾櫓、北東に小天守、南東に大天守、南西に二ノ丸櫓と四隅に櫓を配しています。
戦前は天守等11棟が国宝に指定されていましたが、空襲ですべて焼失しました。戦後に二ノ丸門だけが木造で、他は鉄筋コンクリートで復元されました。名古屋城も空襲で焼失しました。御三家の城のうちで昭和に残った2つが戦争で失われたのは残念です。

三宝樹

小天守と天守入口


白虎

1/20の天守模型

天守内部





和歌山城の1/300模型

天守最上部

天守からの眺望西方向、二ノ門櫓(左)と乾櫓(右)

北方向、小天守と市役所

南方向、県立美術館と博物館

東方向、本丸御殿の虎伏山

全国の城番付。行事は名古屋城、和歌山城、二条城、明石城と徳川御三家・直轄・親藩の城。年寄は安土城、河内赤坂城、中世の城。取締は江戸城、大坂城と、将軍家の城。東西の大関は金沢城、鹿児島城、関脇は仙台城、熊本城、小結は福岡城、広島城と外様大名の城が石高順に並んでいます。

和歌山出身の有名人。野村吉三郎(海軍大将、開戦時の駐米大使)、陸奥宗光、松下幸之助、山葉寅楠(ヤマハ創業者)など。

ニノ門櫓への廊下

大天守

小天守

乾櫓


大天守


銀明水


裏坂の虎口

二ノ丸・中奥


東堀


岡中門付近

岡口門


岡口門


東堀

高石垣


二ノ丸


穴蔵状遺構


御橋廊下

内部

西堀

柳島

御橋廊下入口

西の丸


西の丸庭園



西の丸庭園入口

鶴の渓

鶴の門







郡山城の巻 秀吉の実弟、大和大納言豊臣秀長の城

2016-10-18 16:48:38 | 近畿


JR郡山駅へ来ました。目的は大和郡山城です。

外堀緑地北門




常念寺裏堀





常念寺



時の鐘





古い民家


やまと郡山城ホール。大和郡山市にリニア新幹線の駅の誘致キャンペーン、確か名古屋・大阪間はルートは未定です。

大和郡山城です。城の東端を近鉄の線路が通っています。踏切がないので遠回りしなければなりません。


桜御門跡


弁慶の足型石


郡山城の北側の道路。かなりの遠回りです。


天理教の教会。天理市が近いせいか、教会は大きい。

西側の堀


私は逆回りをしたようです。城の櫓が見えた所から左へ行ったほうが天守には近かったと思います。日没が近いのに時間をロスしました。

西側の堀


松蔭門跡

仕切塀

ようやく城内へ入ることができそうです。




天守台にはパワーショベルが見えるので工事中のようです。現在は非公開かもしれません。

馬場先門跡

城址会館。旧奈良県立図書館の木造建築を移築しました。



久護門跡

追手門

追手向櫓

追手門表側


追手東櫓

追手向櫓

追手堀

追手向櫓と追手門。日没のため撮影終了です。残念です。再度訪れたいものです。郡山市は奈良市のすぐ隣なので交通は便利です。再訪の可能性は高いと思います。

郡山市役所。郡山は筒井順慶、豊臣秀長、秀長の家臣だった藤堂高虎が有名です。金魚の生産地としても有名ですね。

信貴山城の巻 信長に反旗を翻した梟雄・松永弾正の山城

2016-10-18 16:47:59 | 近畿
関西の旅2日目の目的地は信貴山です。

近鉄信貴山口駅

信貴山口駅では駅構内で西信貴山ケーブルと直結しています。

ケーブルカーは平日の昼間は30分に1本です。

中間点ですれ違います。


最大の急勾配区間です。


高安山駅

高安山駅からバスで信貴山門へ行きます。かつては鉄道でつながっていました。


信貴山朝護孫寺への参道、開運橋

国道236号線の信貴大橋。橋の下は大門池という名のダム湖です。



開運橋は登録有形文化財です。

信貴山は聖徳太子が「信ずべき尊ぶべき山」と称したことに由来。日本で初めて毘沙門天が出現した霊場です。聖徳太子が戦勝を祈願した際に虎を供にした毘沙門天が現れました。その日が寅年の寅の日の寅の刻だったので、信貴山は毘沙門天を祀り、虎を福の神とするようになりました。

観光センター



開山堂


世界一の福寅

赤門


かやの木稲荷


成福院


信貴山城跡は空鉢護法堂となっています。


多宝塔




標高437m、信貴山の山頂に近づきました。




空鉢護法堂

空鉢護法堂からの眺め

信貴山城址碑

信貴山城の痕跡はあまり残っていません。






松永屋敷跡

大谷池

虚空蔵堂



朝護孫子寺本堂。毘沙門天王を祀っています。

舞台

舞台から河内平野を一望できます。




千手院

信貴山門からバスで王寺にきました。王寺は東側から信貴山へいく拠点です。
信貴山城は痕跡は少なく、寺めぐりがほとんどでした。でも戦国時代の梟雄松永弾正の気分にひたれたのは収穫でした。
松永弾正久秀は足利将軍義輝を殺害、主家の三好氏を滅ぼし、奈良の大仏を焼き払い三つの悪事をはたらいたことにより、織田信長からは「三悪を成した老人」と言われました。斎藤道三、宇喜多直家と並び戦国時代の梟雄の一人です。
弾正は築城術にすぐれ、信貴山城には四階櫓を築き、天守の先駆的存在ともいわれています。信貴山城に次いで多聞山城を築き、多聞山城の櫓の形式を参考に各地の城に多聞櫓がつくられるるようになりました。多聞山城の遺構はほとんど残っていません。信長も弾正の築城術を参考にしたように思います。
弾正は茶人としても優れ、信長に反旗を翻し信貴山城に籠城した最後の時、信長が熱望した茶器「平蜘蛛の釜」を破壊し、滅亡します。
信長には離反した家臣が多いですね。明智光秀を筆頭に、荒木村重、松永弾正など。家臣ではないが浅井長政、将軍義昭も離反者かもしれない。これら有為転変の多い武将は興味深い。