日本の名城・古城 城撮り物語

全国各地の名城・古城の現況を写真でレポートします。

足利氏館の巻 足利氏が居館に御堂を建設、氏寺となった鑁阿寺

2015-06-25 15:00:38 | 栃木
栃木県足利市の鑁阿寺、足利氏館を訪ねました。鑁阿寺は20年ほど前に一度来たことがありますが、まさか日本100名城に指定されるとは思いませんでした。
もともと鑁阿寺は足利氏の居館であり、その後居館内に大日如来を奉納した御堂を建立、鑁阿寺となりました。城といっていのかどうか。

鑁阿寺の参道

足利尊氏像

鑁阿寺山門



山門の裏手


弘法大師像

本堂

多宝塔

不動堂

経堂

霊屋

大酉堂

本堂と不動堂

校倉

蛭子堂

鐘楼
鑁阿寺の名前の由来を調べました。そもそも鑁阿寺の鑁という漢字は私が持っている中型の漢和辞典には載っていません。漢和辞典に載っていないのにキーボードで漢字変換できるのも不思議です。ネットで調べたところ、読みは呉音でモン、漢音でバン。漢字の意味は分かりませんでした。サンスクリット語のバンナという言葉に由来し、バンナに漢字を当てはめたもののようです。

太平記館

史跡足利学校のポスター。弘道館(茨城県水戸市)、閑谷学校(岡山県備前市)、咸宜館(大分県日田市)とならび日本遺産です。

足利学校の堀

裏門

入徳門

事務所

孔子像

稲荷社

学校門

遺跡図書館

字降松(かなふりまつ)。足利学校の学生が読めない漢字を紙に書き松の木に結んでおくと、翌朝には教頭がふりがな、意味を書いて答えてくれたそうです。

杏檀門

孔子廟


東郷平八郎、上村彦之丞、伊東祐亨の3人の海軍将官手植えの月桂樹。海軍将官と足利学校はどんな関係があるのでしょう?3人ともに薩摩出身。伊東は連合艦隊初代司令長官として日清戦争で清国艦隊に勝利しました。日露戦争時は伊東は軍令部長、東郷は連合艦隊司令長官、上村は第2艦隊司令長官です。



足利学校の方丈

南庭園

北庭園

學校の表札。当時は学校は一つしかなく、学校といえば足利学校のことなのでしょう。明治初期の大学校(のちの東京帝国大学)も同じですね。

室町時代に足利学校を再興した上杉憲実の像





川越城の巻 太田道灌が築城、北条氏が支配し、徳川譜代大名が治めた関東の拠点

2015-06-24 14:59:30 | 埼玉

川越駅。駅前ロータリーの上には広い歩行者デッキがあって、その下はバスターミナル、タクシー乗り場になっています。こういった駅前の構造は高度成長時代以降多くの地方都市で見られるようになった画一的な風景です。とくに新幹線の駅に歩行者デッキは付き物のような観があります。



川越城本丸御殿。川越城の遺構はこの本丸御殿以外はほとんど残っておりません。私は川越は何度もきているし、本丸御殿の近くも歩いたことがありますが、御殿には入館したことがありませんでした。意外にも川越城は日本100名城に選定されています。

初雁武徳殿の記念碑。川越城は別名で初雁城ともいわれています。本丸御殿は明治維新後、中学校となり、その後、川越県庁舎、入間郡公会所を経て昭和初期には初雁武徳殿となりました。武徳殿とは武道場のことです。






御殿内部

本丸門跡。川越城の遺構は本丸御殿以外には富士見櫓跡、中ノ門跡、大手門跡などがある程度です。

市立博物館

市立美術館。美術館も博物館も休館でした。

仙波東照宮

喜多院。別名・川越大師。新年3日の初大師はだるま市で賑わいます。

喜多院の門前の天海僧正像。天海は江戸幕府初期に家康、秀忠、家光を支えた天台宗の僧侶です。



川越八幡宮

岩殿城の巻 武田勝頼の入城を拒んだ小山田信茂の山城

2015-06-19 14:57:46 | 山梨
山梨県大月市の岩殿城を訪ねました。
岩殿城は、武田勝頼が織田軍の甲斐侵攻を受け新府城を捨てて武田家重臣の小田山信茂を頼って岩殿城を目指しましたが、小山田信茂は勝頼を裏切って入城を拒み、勝頼は天目山にて自刃し、ついには武田家は滅亡したという戦国ドラマの舞台となった山城です。

大月駅

大月駅のホームには岩殿山の観光案内板があります。私は大月を通過するたびにこの案内板を見て是非一度岩殿山へはいきたいと思っていました。

大月駅の背後に迫る岩殿山。大きな岩盤は鏡岩といいます。

山の中腹に「岩殿城跡」の看板があります。

高月橋から見上げる岩殿山

岩殿山の南の山麓を桂川が流れます。

山麓の駐車場

岩殿城跡への入口

「富士の眺めが日本一美しい街」という大月市の観光案内

ふれあいの館の看板



丸山公園の冠木門

大月の街並み

岩殿山城の看板の裏側

丸山公園

公園の高麗門



ふれあいの館。1階は地元出身の写真家・白籏史朗の写真館、2階は展望台です。

富士見百景の看板

中央高速


岩殿山城の絵図

丸山山頂



大手門、稚児落し方向への分岐点。稚児落しはかなり急な壁面で鎖場となっているそうです。鎖と聞いただけで私はギブアップです。



揚城戸跡。巨大な自然石を活かした虎口です。

番所跡



西の物見台跡

馬屋跡


秀麗富嶽十二景八番山頂(標高630m)。岩殿山の山頂はこの先ですが、この地点のほうが富士山がきれいに見えるため秀麗富嶽に指定されています。

南の物見台

乃木大将の詩碑

東屋

馬場跡

倉屋敷跡

本丸への道

烽火台

本丸跡

帰路、ふれあいの館に入館しました。

2階の展望台からは富士山が見えるそうです。この日は雲におおわれて全く姿を見せません。

富士山の方向

岩殿山城のパノラマ図

城主・小山田信茂の史料。山梨では勝頼を見捨てた小山田信茂は敵役ですが、地元・大月では勝頼を裏切って織田方にくだり戦いを避けることによって地元農民を救ったということが評価されているようです。

500円札の富士山の写真は岩殿山の西方、雁ケ腹摺山からの撮影です。昭和17年に名取久作さんが撮影したものです。

白籏史朗写真館の内部

ふれあいの館から見上げる岩殿山


唐沢山城の巻 関東七名城の一つ、平将門の乱を平定した藤原秀郷の山城

2015-06-02 18:56:02 | 栃木

平安時代に平将門が起こした天慶の乱を平定した藤原秀郷が下野・武蔵を拝領、下野の唐沢山に築いたのが唐沢山城です。
川越城(旧名・河越城。埼玉県川越市)、忍城(埼玉県行田市)、前橋城(旧名・厩橋城。群馬県前橋市)、金山城(群馬県大田市)、宇都宮城(栃木県宇都宮市)、多気城(茨城県つくば市)あるいは太田城(茨城県常陸太田市)とならび関東七名城といわれています。
関東七名城は近年観光立地を目指して選定された日本100名城とは異なり、これらの城が現役だった時代に自然発生的に称されたもののような気がします。なぜかというと、金山城や唐沢山城は確かに今でも名城といえますが、宇都宮城や前橋城はあまり残っているものが少なく今日の基準ではとても名城とはいえないと思うからです。関東七名城のうち日本100名城に入っているのは川越城と金山城で、唐沢山城は意外にも選外です。


唐沢山城は栃木県佐野市にある典型的な中世の山城で、藤原秀郷の子孫が佐野氏として城主を努め江戸時代初期に断絶、廃城となるまで続きました。
唐沢山城へは徒歩の場合は東武佐野線・田沼駅から40分くらいかかかるので、今回私は車を使っての城攻めとなりました。田沼駅から唐沢山城への道は関東ふれあいの道の一部となっています。

唐沢山レストハウス。わりと広い駐車場はあります。

レストハウス周辺には野良猫がたくさんいました。ざっと10匹見かけたので全体では数十匹いると思われます。

食いちがい虎口。城門付近がクランク状に曲がって造られています。

桝形の近くの天狗岩





天狗岩の上からは佐野市の市街地を眺望できます。往時は物見として使われたようです。

唐沢山荘

城跡は現在は唐沢山神社となっています。

八大龍王神


大炊の井。唐沢山は水は豊富だったようです。

神橋

神橋の下の四つ目堀


和合稲荷神社

桜の馬場


唐沢山神社。唐沢山城の本丸跡に神社はあります。

神社の社務所


本丸下の石垣

栃木県酒造組合佐野支部からの献酒


本丸跡の神社拝殿


本丸の石垣。1メートル以上の大石が一つだけあり目を引きます。


二の丸の虎口

武者詰跡

お花畑跡。薬草の畑があったそうです。

金の丸跡の金の丸ロッジ。金の丸には金蔵がありました。



北城。姫御殿がありました。今は青年の家となっていますが、営業はしていないようです。

唐沢山城キャンプ場

本丸下の車井戸



三の丸跡

水琴窟

唐沢山城のポスター
唐沢山城は関東でもあまり知られていませんが往時の石垣、土塁は多く残っていて、なかなかの名城と思います。日本100名城には栃木県の城では足利氏館が選定されていますが、私は唐沢山城のほうが明らかに上位であると確信します。