日本の名城・古城 城撮り物語

全国各地の名城・古城の現況を写真でレポートします。

駿府城の巻 家康が大御所として晩年を過ごした最後の城

2015-03-31 19:07:41 | 静岡
浜松城の帰路、静岡で下車、駿府城へ立ち寄りました。


二の丸橋



二の丸東御門巽櫓


徳川家康像


坤(ひつじさる)櫓


駿府城の石垣を修復工事した際の石垣

本丸濠


再建された東御門



東御門の外側





料亭浮月楼。徳川慶喜の屋敷跡です。十五代将軍徳川慶喜は大政奉還後、江戸城を出たあと上野から一時水戸に滞在し、晩年は駿府で過ごしました。

静岡駅




浜松城の巻 野面積みの石垣、徳川家康が16年間本拠とした「出世城」

2015-03-30 16:20:01 | 静岡
徳川家康は大阪夏の陣で豊臣家が滅亡した年の翌年、1615年に死去、今年が没後400年にあたります。


家康没後400年祭で賑わう浜松駅に到着

駅から徒歩10分、五社神社。2代将軍・徳川秀忠の出生の地です。

五社神社の本殿



浜松城は徳川家康が1570年に岡崎城から移り入城し、1586年に駿府へ移るまでの16年間本拠とした城です。その間の1573年に侵攻してきた武田信玄との戦いで敗北した三方原の戦いは戦史に残る合戦です。



若き日の徳川家康の像


天守門の下の野面積みの石垣


天守門の内側

再建された天守閣

天守の石垣

天守の入り口

展示品の火縄銃

天守からの展望

天守の最上階

城郭分布図


石落とし


天守門

天守閣





絵図

浜松城公園

二の丸跡の浜松市役所

大多喜城の巻 徳川四天王の一人・本多忠勝が上総国に築城

2015-03-26 19:03:44 | 千葉

大多喜駅のホーム。大河ドラマ制作陳情の旗。小田原の北条氏も陳情運動をやっています。

徳川四天王本多忠勝の像。なんと発泡スチロール製です。

大多喜駅14時23分着

観光用の城門

踏切を渡って大多喜城へ

御禁止川、「おとめがわ」と読むそうです。





二の丸跡





昭和50年建造の模擬天守です。そもそも大多喜城に天守はあったのか、元からなかたっという説もあるようです。



天守入口。内部は千葉県立中央博物館大多喜城分館という名称の展示施設になっています。

天守からの眺め

天守最上階

本丸跡から見た二の丸跡の大多喜高校


大多喜高校から天守を見上げる


二の丸跡、大多喜高校にある薬医門

久留里城の巻 房総半島「雨城」といわれた里見氏の山城

2015-03-26 19:01:44 | 千葉

10時3分久留里駅到着。久留里駅は初めての下車です。

城をデザインしたアーチ。駅前を通る国道410号線を歩いて久留里城へ行きました。

410号線沿いの蔵造りの商店。紙屋という屋号ですが金物・雑貨店です。


久留里は名水の地として有名です。城山への途中数ヶ所の取水施設がありました。




農家レストラン・ぽーたる亭



国道のあたりに三の丸はあり、本丸は標高145mの地点です。


久留里城一帯は雨が多く、3日に1度は雨が降るので、別名「雨城」と呼ばれたそうです。




薬師曲輪から三の丸を見下ろします。


久留里出身の新井白石の像

上総掘りの井戸掘り櫓


二の丸跡の君津市立久留里城址資料館

天神曲輪

男井戸女井戸、「おいどめいど」と読みます。


波多野曲輪


本丸天守。昭和54年に建造されたコンクリート製の模擬天守です。天守にもいろいろあって、「現存天守」これは元々の天守が残存しているものです。その一方で「復元天守」「復興天守」「模擬天守」など状態によって様々な天守があります。
復元天守はさらに工法によって「木造復元天守」と「外観復元天守」に分かれます。木造復元天守は文字通り木造で昔の図面に基づきある程度忠実に再建したものです。外観復元天守は、現行の建築基準法や消防法等では木造の高層建築は許可にならないためコンクリート構造だが外観だけは忠実に復元したものです。内部は階段も現行基準に則り、エレベーター設備のある天守もあります。
復興天守は昔の姿・形が不明で、ある程度推定で再建されたもの。模擬天守はもともと天守があったのか不明でも敢えて天守を建造したというケースです。天守探訪も興味深いです。


天守1階の展示コーナー。「日本の古城」として全国の残存天守12の城のパネルを展示。



天守からの眺望

天守最上階




資料館内の模型

資料館のガレージで案内用の柱を製作中です。

お玉ヶ池

久留里曲輪

国道410号線まで降ってきました。三の丸の久留里神社

久留里城三の丸というバス停から鴨川行きのバスに乗ります。東京駅と久留里・鴨川をアクアライン経由で結ぶ高速バスですが、久留里・鴨川間も利用できます。このバスが今回の奥の手です。11時33分久留里城三の丸発。

諏訪上原城の巻 武田信玄に滅ぼされた諏訪頼重の山城

2015-03-20 19:04:54 | 長野

先日訪ねた新府城に続いて中央線沿線の古城、武田信玄に滅ぼされた諏訪頼重の山城、上原城を訪ねました。茅野駅で下車。茅野駅は茅野市民館、茅野市美術館に直結、モダンな建物です。

駅から上原城の入り口までは約1km。ここから上原城までは約2km、上原城は永明寺山の山腹に位置しています。

千鹿頭神社

上原城への道は永明寺山遊歩道として整備されています。

所々に石垣があります。

山の斜面はきのこ山となっていて立入禁止です。


永明寺山遊歩道の1km地点

崖下は墓地です。

陽の当たらない部分は雪道でした。融けた雪が凍結し滑りやすく非常に歩きにくい。ノーマルタイヤの車だと無理ですね。車も歩行者も私以外はゼロでした。

上原城の入口に着きました。上原城は永明寺山の山腹のコブ状の山・金毘羅山にあります。

上原城跡案内図

上原城址の石碑




主郭下の帯郭の石仏

井戸

金比羅神社の鳥居。上原城の三の郭です。

金比羅神社は四国・讃岐の金比羅権現が分祀されたものです。


神社の下、諏訪盆地側は断崖絶壁です。


上原城址碑



二の郭の物見石。高さ5m以上の巨石


標高978mの主郭跡。主郭は広くはありません。上原城は小規模な山城です。金毘羅神社のある諏訪盆地側は断崖絶壁ですが、永明寺山の中腹にあるため永明寺山側は守りが弱い印象です。






上原城は室町時代後期に諏訪氏によって築城され、天正11年(1542年)諏訪氏五代目の諏訪頼重の時に武田信玄に攻められ落城しました。諏訪頼重の娘は信玄の側室となり、武田勝頼の母・諏訪御料人として知られています。豊臣秀吉・淀君・秀頼の物語と似ていますね。

上原城を下って城山の麓の頼岳寺へ向いました。



頼岳寺山門



頼岳寺本堂

本堂の裏手に諏訪一族の霊廟があります。


諏訪氏は頼重滅亡後、江戸時代に別の系統の諏訪頼水が高島藩初代藩主となり再興しました。この霊廟の中央に頼水の父・頼忠(頼重の従兄弟)、右に頼水夫人、左に頼水自身が祀られています。


頼岳寺の裏山、板垣平に諏訪氏の居館がありました。

帰路に穴山駅で途中下車

以前から中央線でここを通るたびに、穴山駅のホームのこの案内板は気になっていました。穴山といえば武田を裏切って徳川家康と内通した穴山梅雪です。穴山氏の発祥の地だそうです。

駅の正面にある能見城。能見城が穴山氏ゆかりの城です。






かなり期待はずれの本丸跡です。

能見城跡の碑の隣には守屋一族発祥の地の碑。守屋一族について説明はありません。穴山氏とはどういう関係なのか不明です。この碑は守屋一族の末裔が建てたものです。

穴山氏の墓や居館跡もあるようですが、城跡がやや残念なものだったし、時間もないのでパスしました。穴山氏はともかく、諏訪氏の歴史探訪は有意義でした。