日本の名城・古城 城撮り物語

全国各地の名城・古城の現況を写真でレポートします。

笠間城の巻 笠間氏が築城、江戸時代には浅野氏も藩主を努め大石家とも縁のある山城

2014-12-31 13:44:33 | 茨城
水戸城に続いて笠間城を目指しました。
笠間城は鎌倉時代に北関東を支配した宇都宮氏の武将・笠間時朝が築城したといわれる山城です。その後代々笠間氏が城主として戦国末期を迎え、秀吉の関東攻略の際には宇都宮氏が豊臣方、笠間氏が北条方につき、笠間城は敵となった宇都宮氏の攻撃によって落城しました。江戸時代になると松平氏、小笠原氏、永井氏、浅野氏などと頻繁に藩主は変わりましたが、牧野氏の時に明治維新を迎えました。

JR水戸線の笠間駅です。駅前は閑散としています。

笠間藩の藩校・時習館跡

日動美術館の手前に大石邸跡があります。大石とはなんと大石内蔵助の大石家です。赤穂浅野家は内匠頭の曽祖父の時代は笠間藩主で、その時に大石家も笠間にありました。

佐白山山麓公園の時鐘楼

大石内蔵助像。内蔵助が笠間に住んでいたのかどうか私はわかりません。山鹿流の忠臣蔵の装束はやり過ぎでは。



佐白山山麓公園から笠間城への登り口



笠間城八幡台櫓跡






天守台へ上がる階段


天守台下の石垣。修復工事中です。



佐白山山頂の佐志能神社


山麓公園に戻ってきました。公園の治功神社

笠間城城主の下屋敷跡


水戸城の巻 明治以降は「学問の府」に変身を遂げた徳川御三家の名城

2014-12-30 13:43:24 | 茨城
徳川御三家、水戸光圀公、斉昭公の水戸城へ行きました。水戸は何度もきています。水戸芸術館、偕楽園、徳川ミュージアムなどは見ていますが、弘道館は行ったことがありません。今回改めて水戸城の跡を歩いてきました。

水戸駅の改札口をでるといきなり烈公のパネル。徳川斉昭も売り出し中です。歴史ブームですね。

駅の歩行者デッキ上には水戸の定番、水戸黄門一行の像


駅前通りの大銀杏

三の丸跡の水戸市立三の丸小学校。校門が冠木門です。時代劇のセットのような小学校です。

小学校の校庭

小学校の前の通りは三の丸歴史ロードという名称です。


水戸藩の藩校・弘道館の入口。

「偕楽園と弘道館を世界遺産に」という旗が立っています。



「尊攘」の幅。水戸藩の侍医・松延年の書

弘道館記碑の石摺り。烈公斉昭の書です。

至善堂。徳川慶喜は大政奉還のあと水戸城のこの場所で謹慎生活を過ごしました。

徳川斉昭と七郎麻呂(のちの将軍・慶喜)の像

烈公梅

至善堂の外観

弘道館の売店。水戸藩遺墨拓本を販売しています。

徳川慶喜向学の地の碑

斉昭公の像

弘道館のある三の丸と藩主の居館があった二の丸跡を結ぶ大手橋。

大手橋の下を陸前浜街道・県道232号線が伸びています。

大手橋近くの土塁

初代水戸藩主・徳川頼房公の像

茨城大学付属小学校の校門。旧茨城師範学校跡

旧茨城師範学校跡の碑

市立水戸第二中学校の校門

二の丸展示館。旧彰考館跡

彰考館跡の碑

「大日本史」は彰考館で編纂されました。

見晴し台入口。第二中学の校庭の隅が水戸城二の丸の端で、その場所に見晴し台があります。


見晴し台から那珂川を見渡せます。水戸城は那珂川と千波湖に挟まれた丘陵地にあります。

水戸城跡の大椎

県立水戸第一高校へといく本城橋


本城橋の下をJRの水郡線が通っています。

県立水戸第一高校の校門

一高の校内に水戸城の薬医門が移設されています。


水戸一高の校舎。堂々たる建物ですね。

水戸第三高校の校門

公園側から見た弘道館の外塀です。

弘道館公園

孔子廟

学生警鐘


旧茨城県庁舎、現在は茨城県庁三の丸庁舎。1999年に県庁は三の丸の南約5km、千波湖の南側に新築移転しました。

種梅記碑

八卦堂

鹿島神社

三の丸庁舎前の土塁

茨城県立図書館。以前の茨城県議会議事堂です。現在の議事堂は県庁舎と同様に千波湖の南にあります。


三の丸の空堀

再び三の丸小学校です。

小学校の塀

水戸駅前から見る二の丸の城山。二の丸下の道路が大手橋の下を通り、水府橋で那珂川を渡って6号線に合流し、いわき方向へ伸びています。

水戸城周辺は歴史の宝庫ですね。いまも幕末、尊皇攘夷の空気が漂っていて、桜田門外の変、天狗党の乱を思い出さずにはいられません。
御三家の城にふさわしくかなり大きな城郭です。徳川時代の藩主の居館は二の丸にありました。各地の城跡は大学がつくられたケース(金沢城、仙台城など)、陸軍の拠点となったところ(熊本城、広島城など)がありますが、水戸城跡は弘道館があったことで学問の拠点として城跡に師範学校などがつくられました。水戸が「学問の府」と言われる所以です。

茨城師範学校は現在の茨城大学になっています。
茨城師範学校予備科は県立水戸中学となり、戦後今の県立水戸第一高校になりました。
市立水戸高等女学校は戦後県立水戸第三高校になり、新学制のもとでも女子校として続いてきましたが、2007年に共学化しました。
県立水戸高等女学校は戦後県立水戸第二高校となり共学化しましたが、、男子は一時在籍したが今は全員が女子生徒で実質的には女子校です。
旧制高校の水戸高校は偕楽園の北にありました。戦後は茨城大学に統合され、旧制高校の跡地は現在「水高スクエア」となっています。


武州松山城の巻 扇谷・山内上杉、古河公方、北条、越後上杉が争った武蔵野の平山城

2014-12-29 13:41:25 | 埼玉


埼玉県東松山市の隣、吉見町にある松山城を訪ねました。松山城といえば伊予松山城、備中松山城が有名ですが、この武州松山城は関東の戦国史を知る上では貴重な城です。
荒川の支流、市野川に沿った丘陵地に室町時代に扇谷上杉に属する上田氏が最初に築城し、扇谷上杉の古河公方、山内上杉に対する防衛拠点であったが、その後は北条の手に落ち、さらに越後上杉が攻略、それを武田・北条連合軍が奪い返し、秀吉の関東攻略では前田・上杉の大軍に攻められ陥落しました。関東の平野の中央部、交通の要衝に位置し戦国時代には何度も攻防戦の舞台となった城として知られています。
江戸時代は川越藩の所領となり、松山城は廃城となっています。



登城口。本曲輪への道です。




本曲輪跡

本曲輪跡から見た東松山市街。東松山市は戦後松山町を中心に周辺の町村が合併し市制が施行されました。

ニノ曲輪への道

ニノ曲輪跡

堀切



曲輪4。曲輪4は仮の呼称という意味でしょうか。



城跡の土塁のすぐ下に短期大学や民家、畑が迫っています。


松山城の下の岩室観音


松山城の城山の下は岩盤です。岩盤の穴に観音堂があります。岩室観音は松山城の城主・上田一族によって代々護持してきましたが、秀吉の関東攻略によって松山城は落城し、岩室観音も焼失しました。

松山城のすぐ近くの吉見百穴。有名な横穴式墓遺跡です。


明治時代には百穴は古代人の住居と考えられていましたが、その後の研究で横穴式墓であることが明らかになりました。


戦争末期には百穴の岩盤下に陸軍の地下工場が造られました。中島飛行機大宮工場の工場設備が移設され航空機の部品を生産する予定でしたが本格稼働する前に終戦となりました。






掛川城の巻 平成6年に木造・外観3層で再建された天守閣

2014-12-16 11:48:15 | 静岡
掛川城は掛川駅北口から歩いて7分ほど、逆川という川沿いにあります。川沿いの立地は岡崎城に似ていますね。掛川城は山内一豊の城として有名です。一豊は豊臣の時代に長浜城から掛川城主となり、秀吉の死後、関ケ原の合戦の前に率先して東軍に自らの城を提供し、本戦では戦功がなかったにもかかわらず恩賞として土佐一国を与えられ、大出世を遂げました。
一豊が掛川城主だったのは10年余りだったにもかかわらず、掛川城は一豊の城というイメージが強いですね。司馬遼太郎の「功名が辻」、NHKの大河ドラマの影響力は大きいです。

逆川に架かる緑橋。掛川城の天守閣が見えてきます。右手は太鼓櫓

城門の前に模型があります。


城門の前のシャチ


掛川城の入口、四足門


天守側の石垣


太鼓櫓


掛川城の天守閣は1994年(平成6年)に外観3層・内部4階、木造で再建されました。戦後再建された天守閣のなかで木造の物は少ないと思います。木造建築だと建築基準法や消防法をクリアできないようです。

山内一豊と千代の顔出し看板

天守閣の石垣

天守閣1階の山内一豊像。山内家の家紋は三つ葉柏、三菱マークの原型でもあります。


天守閣最上階からの眺め

眼下の太鼓櫓

最上階の天井

階段はかなり急です。

石落とし

外部から見た石落とし


霧吹きの井戸

掛川市街

天守閣下の二の丸美術館(左側)と御殿




天守閣下

駿府城から移植された家康のみかん


二の丸茶室

二の丸美術館

掛川の名産品、葛布



書院造りの御殿。掛川城の御殿は江戸時代後期に建築された貴重な城郭建築物です。

御殿内の三の間

手前は次の間、後方は書院上の間

十露盤(そろばん)池と天守閣

月の池と天守閣



高天神城の巻 今川が築き武田と徳川が争奪を繰り返した山城

2014-12-16 11:33:29 | 静岡

東海道線の掛川駅からバスに乗り、土方というバス停で下車、高天神城の追手門入口へ。


前方の山が高天神城です。


高天神城追手門前の駐車場。追手門が城の正面玄関です。


高天神城は戦国時代初期には今川氏の城でしたが、桶狭間合戦のあと今川方の城主が徳川に寝返り、その後武田と徳川が争奪を繰り返しました。元亀2年(1571年)に武田信玄が城を攻めましたがこのときは徳川方が城を死守。次に武田勝頼の攻撃によって天正2年(1574年)に落城。城を取り返すために徳川が攻め天正9年(1581年)に落城し廃城となりました。3度も攻防戦を経験し、2度落城の憂き目にあったという悲劇の城ともいえます。

いよいよ城への登り口


追手門跡の大スギ

追手門跡

本丸への道は整備されています。

本丸の南東の三の丸

三の丸跡からの眺望

高天神城址の碑

本丸跡

本丸跡からの眺望

本丸跡と御前曲輪跡の間にある元天神社

御前曲輪跡

御前曲輪跡からの眺望

的場曲輪跡




井戸曲輪

高天神城合戦将士英霊碑。あちこちの城郭跡で日露戦争や日中戦争、太平洋戦争の英霊碑は見ますが、戦国時代の武将・兵士を追悼する碑は数少ないですね。

高天神社への石段



西の丸跡に高天神社があります。

西の丸跡からの眺め



西の丸と馬場平の間の切割


馬場平。西の丸から伸びる尾根の先端です。

馬場平からの眺め


甚五郎抜け道。天正9年高天神城の落城に際して武田方の横田甚五郎がここから城を脱出し、武田勝頼に高天神城の落城を告げに走ったそうです。

袖曲輪跡

二の丸跡


天正2年戦死者の碑

堀切



空堀

尾根の先端の井楼曲輪跡

井戸曲輪からの眺望

井戸曲輪から搦手門へ下る石段。搦手側は追手側よりきちんと整備されています。




高天神社の鳥居、神社への参拝路となっています。神社へはこちらが表門ですね。

搦手側の城山