日本の名城・古城 城撮り物語

全国各地の名城・古城の現況を写真でレポートします。

桑折西山城の巻 伊達氏14代稙宗が築城、城下に初代朝宗の墓所も

2016-09-09 16:39:07 | 宮城・福島・山形

桑折西山駅


「異国の丘」の碑。作曲は吉田正、作詞は桑折出身の増田幸治。

駅前の広場


JR東北線の地下ガードを越えて線路北側へと行きます。

桑折西山城の麓の防衛ライン、産ヶ沢川


万正寺の大カヤ

観音寺の裏手が城山です。

桑折西山城の入り口


大手門跡

二の丸の土塁




本丸跡


本丸跡の石碑に桑折西山城のマップを入れたケースがあります。

本丸がある山を高館山といい、本丸は高館城というようです。

本丸跡の石

二の丸

本丸と二の丸の間の空堀



二の丸

二の丸から見た大手門付近


伊達氏14代の稙宗は1532年に梁川城から桑折西山城へ本拠を移しました。その後、稙宗は嫡子の晴宗と親子の争いとなり、稙宗は桑折西山城に幽閉され両派の抗争はしばらく続いたが、室町幕府の命令で親子は和解、稙宗は丸森城に隠居、晴宗は米沢城へと移され15代当主となりました。


伊達氏初代朝宗の墓所


朝宗供養塔

朝宗の墓。質素です。仙台伊達藩の当主は参勤交代で江戸と仙台を行き来する際には必ず朝宗の墓所に立ち寄り参拝したそうです。


菅谷火伏不動尊



諏訪神社



旧伊達郡役所。1883年建築の擬洋風木造建築





内部

2階バルコニーからの景色。まっすぐ旧街道が伸びています。

種徳美術館。桑折町長を務めた故角田林兵衛が収集した美術品と美術館を町に寄贈し1981年に開館しました。案内には蠣崎波響の絵を収蔵していると書いてましたが、特別展開催のため波響の絵は見ることができませんでした。残念です。
松前藩は19世紀初頭に蝦夷地を没収され梁川に国替えとなりました。家老の波響は松前への復帰運動に努め14年後に松前への復帰が実現しました。桑折町長が蠣崎波響に興味を持ったのはそういった理由かも知れません。



松尾芭蕉像






桑折町の旧街道


奥州街道と羽州街道の追分

鶴ヶ岡城の巻 本丸跡に庄内神社、藤沢周平記念館、大宝館が建つ

2016-09-03 16:38:06 | 宮城・福島・山形

村上から鶴岡に来ました。


ハチ公は秋田県、現在の大館市で生まれた秋田犬です。東京大学の上野教授に飼われていましたが、上野教授が死亡し、ハチ公が毎日渋谷駅に先生を迎えにいく話を知った動物学者、日本犬保存会会長の斎藤弘吉がハチ公のエピソードを新聞に投稿したり、ハチ公像の制作運動を行って、忠犬ハチ公の物語が誕生しました。斎藤弘吉は鶴岡市の出身です。

鶴岡駅前のモニュメント


1978年完成の鶴岡駅舎。古からず新しからず、適度によい雰囲気の駅舎です。

駅前の「雪の降るまちを」の歌碑。作曲家の中田喜直が鶴岡の冬の情景をもとに作曲したといわれていますが、北海道旭川もわが町の歌と主張をしているようです。



山王日枝神社


復鎮霊社。庄内藩酒井家の祖、酒井忠次は松平信康の切腹を防ぐことができなかったことから家康には重用されなかったと言われていました。忠次の孫、忠勝が鶴岡に入封し、信康を慰霊する社をつくったそうです。

松尾芭蕉の「珍しや山をいで羽の初茄子び」の句碑。「いで羽」は出羽のことです。


鶴園橋と内川


羽黒街道沿いのタブノキの巨木。幹周5m以上。タブノキは温暖な土地の樹木ですが、庄内地方は対馬海流の暖流が流れているために大きく育ったようです。

鶴岡市役所

庄内藩校致道館東御門

致道館西御門


致道館は国指定史跡です。



致道館表御門


孔子を祀った聖廟



講堂内部

明治初期につくられた朝暘学校の校舎模型

講堂の側面

致道館の隣、文化会館は改修工事中です。


鶴ヶ丘城址公園の鶴岡町役場跡



鶴岡出身、高山樗牛の胸像と文学碑「文は是に至りて畢竟人なり命なり人生也」



大宝館。大正時代に建設された擬洋風建築、現在は郷土資料館です。鶴ヶ岡城は古くは大宝寺城と呼ばれたようです。

大宝館前の二の丸堀

中門跡

資料館では地元出身有名人物を展示紹介していました。第47代横綱・柏戸剛。柏戸記念館は中心部から車で20分。機会があれば一度行きたいが、鉄道の旅だと絶望的な距離ですね。路線バスはないようです。

小説「月山」で芥川賞を受賞した森敦

横光利一

ゴジラ映画の監督、本多猪四郎

満州事変の石原莞爾

北海道開拓使判官の松本十郎


地元の発明家、斎藤外市がつくった飛行機の模型
鶴岡は多くの人材を輩出しているという気がします。鶴岡出身の知人にそのことを話したら「トップにはなれない人間が多いのだ」と自虐的に話していました。先日亡くなった加藤紘一はその典型かも知れません。隣の酒田市は大川周明、作家の佐高信を出しています。


鶴岡護国神社

「永久平和の先駆 石原莞爾生誕地」の碑

渡櫓跡


荘内神社


藤沢周平記念館。藤沢周平も鶴岡出身です。

記念館内部

清河八郎も鶴岡出身です。

ケヤキの巨木の根幹部


庄内柿の祖、酒井調良の像



鶴ヶ岡城の碑

荘内神社参道

二の丸大手門跡

発明王、斎藤外市の像

本丸を出て、三の丸跡の致道博物館へと向かいました。

致道博物館の屋根です。

二の丸西門跡




致道博物館入口


1881年建築の擬洋風木造建築。旧西田川郡役所の建物を1967年に現在地に移築しました。


内部

1884年建築の旧鶴岡警察署庁舎は現在修復工事中です。

旧庄内藩主御隠殿。藩主の隠居所です。

内部

鶴ヶ岡城の模型

庭園

民具の蔵




収蔵庫内部



田麦俣の民家(旧渋谷家住宅)



内部



酒井氏庭園。鳥海山を借景とした書院庭園です。







慶応大学タウンキャンパスの先端生命科学研究所。明治期に城跡に国立大学がつくられた事例は多くありますが、戦後、城跡に私立の大学がつくられたのはきわめて珍しいと思います。

百けん濠カフェ

三の丸跡の土塁

三の丸跡から見る大宝館

庄内日報




鶴岡カトリック天主堂


旧風間家住宅、丙申堂の薬医門




丙申堂は閉館後のためで入館できませんでした。

無量光苑釈迦堂


内川と開運橋

松尾芭蕉乗船地跡。芭蕉は川を下って酒田へ行ったそうです。

芭蕉が数日滞在した長山邸跡





村上城の巻 日本海を望む臥牛山の山頂に石垣遺構が残る

2016-09-02 16:37:28 | 新潟・富山・石川

町中の立派な民家


古峯神社と飯野門跡


村上藩内藤家の先祖、徳川家康の異母弟・内藤信成を祀る藤基神社。松平広忠の庶子で、家康のもと三方原、長篠、小牧長久手の戦いなどで活躍しました。

村上城址への近道。近道というとつい行ってしまう。


村上城址。村上城は16世紀初頭に本庄氏が築城、豊臣の時代に村上氏が入城、徳川の時代には堀、本多、松平が藩主となり、享保年間、1729年に内藤信成の子孫の内藤氏が藩主となり幕末へと至ります。北越戦争で焼失しました。

平和観音

七曲道の登り口


村上市街図



七曲道を15分ほど登ると石垣が見えてきます。

四ツ門跡。四足門のことでしょうか。

調練場跡




御鐘門跡



朝日・飯豊山系の眺望

出櫓跡付近の石垣




平櫓跡



埋門跡

冠木門跡


本丸跡の神社

本丸跡からの眺望

村上市街地の鳥瞰図。東北電力提供。東北電力のビルが目立っています。


天守跡

臥牛山、標高135メートル。臥牛山は全国各地にあります。備中松山城も臥牛山。わが故郷の函館山も別名臥牛山です。カリフォルニアのリバーサイド市にある山は函館山に形がそっくりなので、私は勝手に臥牛山と呼んでいました。

舞鶴城址の碑。村上城の別名は舞鶴城です。舞鶴城もいくつかあるような気がします。ウィキで調べたら全国に16もありました。米沢城、福岡城、甲府城、三春城など。京都府舞鶴市にある城は別名は舞鶴城ですが、本来は田辺城です。


本丸石垣

本丸虎口







黒門跡

中腹からの眺望


七曲道の登り口には一文字門跡があります。本丸へ行くただ一つの道なので一文字門といったようです。


城下の立派な御屋敷


村上高校跡の碑。校門と守衛所のようです。

村上市役所


追手門跡

村上名物鮭製品の店うおや。いくら、塩引、鮭味噌、鮭びたしなど鮭製品の有名店です。

大町文庫

菓子店

村上新聞社

観光案内所

ロンドンタクシーでしょうか。BIG BENというプレートが付いています。

「大洋盛」の造り酒屋


笹だんごの岩船家


城下の商店街。村上木彫堆朱の池田屋さんのご主人から漆器についていろいろ説明をいただきました。皇太子成婚の際に小和田家の引き出物は池田屋製の堆朱の漆器だったそうです。小和田家は村上の出身です。

村上市図書館

新潟厚生連村上総合病院


村上駅。昨日村上に着いた時は日没後でした。

駅前の観光案内所

「今は山中、今は浜」の唱歌「汽車」の作曲者、大和田愛羅は村上の出身です。こちらは大和田です。この碑文は稲葉修が書いたものです。稲葉は村上出身でした。とすると田中角栄とは同県人で選挙区は隣同士だったのです。


新発田城の巻 堀部安兵衛の故郷、自衛隊駐屯地内に三階櫓を復元

2016-09-01 16:36:24 | 新潟・富山・石川

新発田駅舎

駅前の商業施設


県立新発田病院

札の辻跡


市役所新庁舎建設現場のパネル。大倉財閥の大倉喜八郎は新発田出身です。初代・豊山(初の大学卒大関。引退後は時津風部屋の親方)も新発田の出身です。

文化会館





新発田城の二の丸跡。明治期には陸軍病院が建設され、戦後は国立新発田病院、のちに県立新発田病院となり、県立病院は駅近くの現在地に新築移転となりました。現在はアイネスしばたとして整備中です。

特別養護老人ホーム二の丸

鉄砲櫓。鉄砲櫓の跡地に旧二の丸隅櫓を移設したものです。


土橋門跡付近





本丸表門。旧二の丸櫓とともに国指定重要文化財です。

表門前の安兵衛茶屋。堀部安兵衛は新発田藩の出身です。新発田藩士のころは中山安兵衛という名前でした。高田馬場の決闘後、赤穂藩の堀部家の養子となり堀部安兵衛となりました。

堀部安兵衛武庸像

忠臣蔵サミットというイベントがあります。第1回の開催はやはり赤穂市、第2回はどういうわけか北海道砂川市。なぜなのか調べたら、砂川市の北泉岳寺に四十七士の分霊が祀られているるからだそうです。

忠臣蔵サミット記念碑

本丸表門。家紋は新発田藩主溝口家のものです。

復元された辰巳櫓

本丸堀


初代藩主溝口秀勝像





辰巳櫓



辰巳櫓の屋根瓦


辰巳櫓内部



本丸跡の北側半分以上は陸上自衛隊駐屯地です。戦前は陸軍歩兵連隊の駐屯地でした。


休み処

表門櫓


表門櫓の内部

辰巳櫓の模型

三階櫓の模型


鉄砲櫓(旧二の丸隅櫓)




自衛隊駐屯地内の三階櫓


本丸外から見る鉄砲櫓

復元された三階櫓。駐屯地内に復元されましたが、基地内なので立ち入り禁止、全国的に奇妙な城です。




新発田城は日本100名城に選定されています。新発田城ではどういうわけか「日本百名城」と表記。100名城と百名城、どっちが正しいかというと日本城郭協会は日本100名城と定めているので100名城が正しい。私は新発田城スタイル、百名城を支持しますが。

屋根には3体のシャチホコがあります。T字型の入母屋屋根の上にそれぞれシャチホコが乗っているという極めて珍しい様式です。

新潟青年師範学校記念碑

二の丸跡


二の丸跡の芝生広場

再び鉄砲櫓

三の丸跡


大手櫓跡


新発田駅に戻りました。