日本の名城・古城 城撮り物語

全国各地の名城・古城の現況を写真でレポートします。

菅谷館の巻 都幾川の流れに沿う、鎌倉幕府開設の功将・畠山重忠の館

2015-03-07 18:24:41 | 埼玉
杉山城、小倉城を経て、最後に菅谷館跡、埼玉県立嵐山史跡の博物館を訪ねました。今回は車で回りました。交通の不便な城跡を回るには車の機動力は必須です。
菅谷館は鎌倉時代の武将、畠山重忠の館です。重忠は源頼朝に協力し鎌倉幕府の成立に貢献、幕府では重要な地位にありましたが、頼朝の死後、畠山重忠の乱で北条氏によって滅ぼされました。比企一帯や重忠誕生の地の深谷周辺では畠山重忠は地元の英雄です。



菅谷館跡に埼玉県立嵐山史跡の博物館が建設されています。菅谷館の搦手門が博物館の入口となり、博物館の裏手が三の郭、二の郭、本郭となり本郭の奥が都幾川の河川敷となっています。

博物館裏の三の郭

菅谷館の立体模型

二の郭にある地元の英雄、畠山重忠像。鎌倉の方向に向いています。昭和4年に地元の有志が作った竹芯の「竹筋コンクリート」だそうです。



二の郭付近の土塁

本郭


南郭から望む都幾川



忠魂碑


梅林



蔀(しとみ)土塁。目隠しのための土塁です。


三の郭から西の郭へゆく木橋。西の郭の先に大手門がありました。




博物館の入口、菅谷館の搦手門跡付近の空濠



博物館に戻って館内を見学。館内は撮影禁止。展示内容は「?」という印象でした。

小倉城の巻 都幾川の支流・槻川に張り出す丘陵の地形を活かした山城

2015-03-07 18:23:24 | 埼玉
杉山城の次にときがわ町の小倉城を訪ねました。以前の都幾川村と玉川村が合併して、新たにときがわ町となりました。都幾川という川に因んだ地名なので、やはり漢字のほうがいいと思います。小倉城は「こくら」ではなく「おぐら」と読みます。念のため。小倉城は荒川の支流の都幾川のさらに支流の槻川に張り出す丘陵にあります。


小倉城は大福寺という小さな寺院の裏山にあり、城跡へいくにはこの大福寺が目印です。いつ、誰が築城したのかはいくつかの説があって、まだ特定されていません。

大福寺




山城ならではの登山道が続きます。戦国時代に造られた関東の城には珍しく所々に石垣、石積み土塁があります。



本郭の虎口



史跡小倉城跡の石碑



本郭の標高は140メートル。麓の大福寺からはけっこうな登りでした。


本郭一帯


本郭の中央、石碑は大きな石の上に立っています。


本郭西の虎口。二の郭へと続きます。






小倉城は郭の数が5つと、杉山城と比べるとやや規模は小さく、本城というより、支城、防衛拠点といった印象でした。


杉山城の巻 戦国初期に山内上杉が築城、往時の郭、土塁、空堀が近年発掘整備される

2015-03-07 18:21:30 | 埼玉
埼玉県比企郡嵐山町にある杉山城へいきました。比企郡にある松山城、杉山城、小倉城、菅谷館は比企城郭跡群に指定され、近年発掘・整備作業が行われています。
私は昨年12月に比企郡吉見町の松山城へいきましたが、松山城も杉山城も戦国時代初期、山内上杉と扇谷上杉が抗争を続けたころに築城されました。
杉山城は2002年から始まった発掘調査により、山内上杉氏によって築城されたという見方が強くなってきました。
私はかつて東松山市の住人でしたが、松山城の存在は知っていましたが杉山城のことは知りませんでした。私が住んでいた当時はまだ発掘調査は行われていなかったので、地元でも話題になっていなかったのでしょう。

杉山城跡は関越自動車道・嵐山寄居ICの近く、玉の岡中学校の裏手の山にあります。中学を目指して進み、中学の手前で積善寺へ向かって城山の方向へ行きます。

積善寺

杉山城の大手前、出郭。積善寺のすぐ裏が杉山城跡です。

ケースの中に杉山城跡のパンフレットが入っています。近年発掘されたからなのか、きれいな冊子が用意されているのには感心しました。

小高くなっている部分が大手口です。


案内の立て札もしっかり整備されています。





外郭のすぐ下に民家があります。


東二の郭へ進みます。杉山城は本郭を中心に東方に東二の郭、東三の郭、北方に北二の郭、北三の郭、西側は崖、南方に南二の郭、南三の郭、西南に小さな井戸郭と北・東・南に郭を配し、北と東の間、東と南の間がそれぞれ谷が食い込み、西側は大きな谷となっており、理想的な城構えとなっています。





本郭の東虎口。本郭には東、北、南の3つの虎口があります。




本郭の史跡杉山城跡の碑。本郭はけっこうな広さです。視界がよければ日光の山々が見えるそうです。


北虎口
















南二の郭




井戸跡





南三の郭の南、城の最南端に馬出郭があり、大手の方へ馬を出せる構造となっています。






杉山城跡は私有地です。所有者の同意、協力のもとに嵐山町が発掘調査、整備事業を進めています。


思っていた以上に杉山城は良かったです。近年の発掘調査により城の全容が明らかになってきました。大成果でした。

佐倉城の巻 江戸城北東の防御を担い、戦前は連隊本部、現在は国立歴博となる

2015-03-07 18:20:43 | 千葉
厳冬期、寒気が緩んだ一日を選んで佐倉城へいきました。

京成佐倉駅です。京成とJRの駅は歩けば30分以上も離れています。佐倉城の北端に京成佐倉駅、南端の高崎川の先にJR佐倉駅があります。JRと私鉄がこれほど離れている町は珍しいですね。

佐倉城跡へとつながる旧成田街道

佐倉城の濠

土塁


国立歴史民俗博物館、通称・歴博の入口です。
佐倉城は明治から終戦まで陸軍歩兵第二連隊、その後は第五七連隊、通称佐倉連隊本部があったために佐倉城跡と連隊の跡が交じり合っています。1983年に国立歴史民俗博物館が開設されました。

愛宕坂。城跡らしくゆるかな登り坂です。

佐倉連隊の衛兵所跡

博物館のあたりは佐倉城の侍屋敷跡(椎木曲輪)跡です。


歴博の正面入口。都内の博物館と違って長いアプローチがあってゆったりとしています。

戦国末期に大量に生産された各種火縄銃

大阪夏の陣の時の大坂城を描いた絵。豊臣時代の大坂城を知る上では最も貴重な歴史史料です。

本物の三八式歩兵銃です。ボルトアクション式、手動5連発、重量は3.7kgです。持ち上げてみましたが私には重すぎます。行軍はとても無理ですね。

歴史博物館の見学を終え、いよいよ佐倉城跡の探訪です。
佐倉城は戦国時代に千葉氏が城の原型を築き、江戸時代初期に徳川譜代大名の土井利勝が本格的に築城をしました。北側の印旛沼、西の鹿島川、南の高崎川に挟まれた鹿島台と呼ばれる台地に造られた土塁の城です。

博物館の裏手の梅の木はもうじき咲きそうです。

発掘・整備された馬出し跡

佐倉連隊の便所跡

佐倉城の礎石。発掘調査により佐倉連隊の営舎の礎石に転用されていたことがわかりました。

空濠

一の門跡

本丸周囲の土塁

銅櫓の跡

土塁から見た鹿島川

同じく高崎川

連隊時代のモッコクの木

台所門跡(不明門)


出丸と濠

濠と土塁の間にあって防護の拠点となる帯状の曲輪、帯曲輪

出丸付近の門。城門ではなく屋敷の門のようです。

出丸付近



佐倉陸軍病院跡

「常盤木や冬されまさる城の跡」正岡子規の句碑

二の丸付近

幕末の佐倉藩主、堀田正睦像。幕府老中として日米修好通商条約締結に向けて朝廷との交渉を担いました。

日米修好通商条約交渉時のアメリカ総領事、タウンゼント・ハリスの像。ハリスは佐倉とは無関係ですが。

茶室三遥亭


三の門跡

佐倉城址公園の看板

三の門付近

大手門通り。佐倉連隊の時代に物資輸送のため直線道路になりました。

歴史民俗博物館くらしの植物苑

大手門跡

藩校成徳書院跡

済生堂浜野病院跡

佐倉養生所跡

佐倉順天堂記念館。順天堂大学のルーツです。

順天堂の創始者、佐藤泰然の像。佐藤泰然は江戸時代末期に活躍した蘭医。堀田正睦の招きに応じ佐倉で開院しました。