日本の名城・古城 城撮り物語

全国各地の名城・古城の現況を写真でレポートします。

新府城の巻 武田勝頼が織田・徳川軍の侵攻に備えて築いた最後の拠点

2015-03-12 17:42:05 | 山梨
武田勝頼が織田・徳川軍の侵攻に備えて築いた新府城を訪ねました。
武田家は「人は石垣、人は城」と謳われたように躑躅ヶ崎館はありましたが本格的な城郭は有していません。勝頼は1575年に三河に侵攻し織田・徳川軍に長篠の合戦で敗北、織田・徳川軍が甲斐に侵攻してくるのに備え、本格的な城を築くことになり築城したのがこの新府城です。新しい府中という意味で新府城と呼ばれました。城は1581年2月に着工し同年12月に完成。翌年の2月に織田・徳川が襲来し、家臣団の離反、裏切りで3月に勝頼は城に放火し脱出したためわずか60日余りの「新府」でした。勝頼は新府城をあとにして岩殿城(現大月市)を目指すも天目山(現甲州市。竜門峡の近く)で自害しました。


中央線の新府駅で下車。新府駅は無人駅です。

新府駅付近から富士山がきれいに見えます。

新府城の入口、藤武神社の鳥居です。



このあたりは首洗池という池があったようです。



車道をわたり赤い鳥居をくぐると急な石段となります。

帯郭です。この石段は廃城後に神社のために作られたものだと思います。

藤武神社




本丸跡


神社の北に武田勝頼の霊社、武田十四将の霊碑があります。




武田勝頼霊社


勝頼霊社の左右には武田十四将の霊碑

小塚。「長篠役陣没将士之墓」

大塚。「長篠役陣没将士之墓」

「長篠設楽原陣没将士分骨之碑」

「甲斐国主武田氏四百年追遠之碑」

本丸跡から北の方向。下は崖です。

蔀(しとね)の構え。目隠し、深い塹壕状の土塁です。


本丸土塁



二の丸跡


馬出し



西三の丸跡




東三の丸跡



南大手門付近




南大手門の下は急斜面です。




大手門の下方は武田流築城術の三日月濠となっているのですが、城郭初心者の私にははっきり認識できませんでした。諏訪原城の三日月濠は明瞭でしたが。
新府城は躑躅ヶ崎館ほどは有名ではありませんが、武田勝頼が最後に築城した城であり、勝頼や武田十四将の霊所や長篠設楽原の合戦の将士の墓があって武田家末期のモニュメントとして感慨深いものがあります。