大井川の川越で大いに賑わっと云う金谷宿も今は昔の光景、三軒あった本陣もそれぞれ役場の出張所、書店、補聴器店となっていて、唯一↑な看板だけが、時代は違えど懐かしの逸品。
大井川鉄道の踏切を渡り、川越人足たちの詰所だった“番宿”跡を過ぎれば、
「箱根八里は馬でも越すが 越すに越されぬ大井川」
が迫ってくるはずですが、その前にSLの汽笛に誘われるまま、大井川鉄道の新金谷駅に、ちょっと寄り道。
. . . 本文を読む
今は昔、付近の川から菊花紋の石↑が見つかったことから、「菊川(きくがわ)」と云う地名になった伝わるこの間の宿の外れには、承久の乱に失敗して処刑された中納言•中御門宗行の塚があるとのことで、ちょっと寄り道。
菊川の石畳に差しかかる手前を左折して法音寺の前で右折、さらに400mほど山中に入った、現在ではバイパス道が目の前を走る騒々しい場所に、香華も絶えて久しいそれはあります。
かつては寂しい山 . . . 本文を読む
箱根峠、鈴鹿峠と並ぶ難所だった小夜の中山峠は、日坂宿をあとにすると掛川バイパスの下を蛇行しながら抜け、さっそく「二の曲り」という、もはや急坂の域を超えた“急斜面”の洗礼を受けます(↑写真)。
息も絶え絶えに登るうち、大昔の音羽屋のお家芸を思わせるあばら屋を過ぎ、
やがて両側に茶畑が広がるところまで来ると、
ようやく勾配も緩やかになり、冷たい風が火照った体に心地よく感じられる余裕も出 . . . 本文を読む
掛川宿はお墓に縁のある宿場、というわけでもないのでしょうが、もう一ケ所、見て行くことにします。
掛川城の東側約400mほどの場所にある天然寺には、↑写真のやうな、蒲鉾型の珍しいお墓を、道沿いから見ることが出来ます。
これは江戸時代、ゲイスベルト•ヘンミィという、オランダ商館使節団の一員だった人物のお墓。
寛政十年(1798年)、江戸城で十一代将軍徳川家斉に謁見して長崎へ帰る途中の六月五日、投 . . . 本文を読む
次の掛川宿までは国道との合流がほとんどなく、松並木もよく保存されているなど、ほぼかつての道筋を辿ることが出来ます。
↑写真は袋井宿から20分ほど行った久津部(くつべ)地区に残るそれで、松並木は直射日光から旅人を護ると云う目的のほか、沿道の田畑との境界線の役割も果たしていたと云うことが、よくわかる景色です。
かつては、農民が道端をすこしづつを削って、自分の田畑にしてしまうことが横行していたようで . . . 本文を読む
行人坂を下ると、大正時代に植えられたらしい松並木を経て(↑写真)、今度は長い直線の上り坂をのぼり、両側に住宅が続く三ヶ野へと入ります。
すると10分ほど行ったところで、旧道はいきなり林のなかへと入ります。
道を間違えたかと一瞬驚きましたが、ここはかつての古戦場跡にあたり、案内板によれば左に下って行くのが江戸時代の旧東海道(赤矢印)、斜め右に下るのが、鎌倉時代の古道とのこと(青矢印)。
道 . . . 本文を読む
さて、天竜川を渡って源平新田を過ぎ、松並木がところどころに残る県道261号線を30分ほど進みます。
香料工場の前を過ぎると上り坂となり、道は二手に分かれますが(↑写真)、右に行くのが旧道。
この坂は行人(山伏)の寺があったことから「大乗院坂」と呼ばれ、また傍らには襲われて命を落とした旅のインド僧を供養したと云う、「くろん坊様」の小祠がまつられています。
大乗院坂から先はしばらく坂の上り下りが . . . 本文を読む
浜松城下まで歩いた旧東海道探訪、さらにその先を訪ねて行くことにします。
浜松城から浜松駅前にかけての中心街は、車道も歩道も↑写真のごとく充分に拡幅されていますが、馬込川に架かる馬込橋を渡って中心街から外れると、しだいに道幅は狭くなります。
細い川を何度か渡って子安町で国道152線から分かれて県道に入り、和田町あたりまで来ると、所々に松並木の名残りが見られますが、
ついに歩道は無くなって . . . 本文を読む
舞阪宿を出て、新町信号で国道1号線と交差した先には、馬郡(まごおり、古くは“まんごおり”と云ったようです)バス停手前までの約700㍍にわたって、みごとな松並木が続いています(上段写真)。
馬郡バス停を過ぎると、道は民家が両側に連なるなかを延々と進んで行きますが、
馬郡町の東の外れに松並木の名を冠した医院があるのは、昔の景色を偲んだものでしょうか。
昔は立場(休憩所)がおかれていた篠原町 . . . 本文を読む
新居関所より、埋め立てられたかつての湖岸を東へ500㍍ほど行った「新居町駅」から、渡し賃のつもりで190円の切符を買って東海道本線に乗り、
浜名湖を渡って次の「弁天島駅」で下車。
ここはかつて湖岸と陸続きでしたが、前回の浜名橋跡のところでもお話しした明応の大地震(1498年8月24日)によって分断され、島となったものです。
弁天島の名称の由来は、すばり弁天神社があるためですが、
か . . . 本文を読む
「浜名旧街道」と名付けられた道を行くこと約30分、旅人と見ると湯茶を勧める立場(休憩所)の人の様子を、或る洒落っ気のある殿様が、
『立場立場と水飲め飲めと 鮒や金魚じゃあるまいし』
との戯歌(ざれうた)を詠んだとの話しが伝わる“加藤立場”跡を過ぎた先には、数十年前に害虫によって枯れた後、改めて植栽された松並木が、海側に1㎞以上にわたって続いています(↑写真)。
やがて旧道は橋本西信号で国道 . . . 本文を読む
二川宿の先で合流した現道の国道1号線は、点在する物流倉庫や中小工場に沿って源吾坂、三ッ坂と緩やかな坂を上って行きますが、かつてはあたりに人家のない松並木で、
“女を口説き落として連れ込むには究竟の場所である”
と記した道中記もあったほどだとか。
沿道にまだ残る広々としたキャベツ畑を見ると、なるほど、と思わなくもありません……。
さて、国道を行くこと約45分、一里山信号で左に分岐する県道1 . . . 本文を読む
吉田本陣跡を過ぎ、曲尺手町など、いかにも昔を窺わせる町名を行く枡形を何カ所か過ぎ、やがて歩道に復元模型が置かれている東惣門跡に出ます。
ここが東八町信号の五叉路で、東南に分かれていく国道1号線(↑写真の右方向)が、かつての東海道。
そのまま国道の歩道を四十分ほど行き、殿田橋手前で旧道は左に分かれます。
ようやく国道の騒音から解放され、ホッとしながら飯村(いむれ)南地区の道をまっすぐ十五 . . . 本文を読む
松並木を過ぎると、やがて道の両側にまたがる醤油工場が見えて来て、御油宿に到着(上段写真)。
赤坂宿からは十六町(約1.7㎞)、歩いて15分程の距離。
。
この先の、城下町である吉田宿の堅苦しさを嫌った上りの旅人たちがこの宿まで足を伸ばし、また遊女も多く、それは賑わったそうですが、数十年前まで面影を留めていた当時の町並みも、現在ではほとんどが新しい家に建て替わっているか、
更地(売地)にな . . . 本文を読む
藤川宿を出てすぐ国道1号線に合流して十分ほど行くと、旧道は左に再び分かれて舞木町を通り(上段写真)、町外れでまた合流してその先の本宿町で、松並木と道標に従って右に逸れて行きます。
めざす赤坂宿は、かつてはこの本宿町にあったと云われ、
現在の町並みからいっても、そうかな、と思わせるものがあります。
しばらく行って「はうぜうじばし」を渡ったすぐ右手には、法蔵寺という古刹が。
ここに . . . 本文を読む