8月 歌舞伎座(1日初日)
「椀屋久兵衛」椀屋久兵衛
「勤皇風土記」芸者お艶

「椀屋久兵衛」(右より、六代目壽美蔵=三代目壽海の備前の惣八、仁左衛門の椀屋久兵衛、六代目芝翫=六代目歌右衛門の女房お松)
〈芸談〉
「『椀久』は真山青果先生の斯ういう歌舞伎風な作品の最初のものとかうけたまわって居ります。鴈治郎さん(※初代)のために書いたものだそうですが成駒屋はんがおやりにならなかったので、私の方でお願いしてやらせて頂いたのですから、私に書き下して頂いたお作といってよいかも知れません。
当時はひどく新しがったもので、『邦劇座』という私のための劇団をつくり、大森痴雪さんが主事、木谷蓬吟さんを顧問に、年一二回やりたい芝居をやりました、この仕事は四五年続きましたが、その旗揚げ興行を浪花座で四日間やった時の出し物が『椀久』だったのです。
ところで、この時の芝居は、台詞をすっかり大阪弁に直して、向こうの人に分り易いようにしましたが、演伎は新しい芝居の心持で全部写実風、一切お芝居らしい仕草を避けました。その癖が出て、今度もさらっとしていけないといわれているようですが、初演の時から見るとずっとお芝居にしているつもりなのです。例えば合方なども自然にきこえるもの以外使わなかったのを今度は幾分妥協して使っていますし、顔などもせいぜい白く塗っています。一番困ったのは時間によるカットで、序幕で備前の惣八に勧められて長崎へゆく気になる、あそこの心理の動きが、カットがひどいのでお客様に納得がいかないと思いますし、自分としてもやりにくいのです。この芝居の山は二幕目の“吉田屋座敷”の場で、卜斎とのやりとりのところでしょう。
二番目の『勤皇風土記』のお艶は演出の佐々木さんの注意で、男を欺すのでなしに、しんから惚れなければいけないといわれ、やりにくいといえばやりにくく、工夫があるといえばそんなところにあるとでも申しましょう。」
(「演芸画報」昭和17年9月号)
〈劇評〉
「随分古い狂言で、震災前大阪で、まだ仁左衛門が我童時代にやったのを見たし、有楽座で壽美蔵松蔦のも見た。真山氏の作としては余り上等な物でもないと思われる。證文の間違いから、一旦身請けになった松山が、又のめのめと遊女かに戻るとは、如何に昔にしてもあまりにも不条理で、どうにも二人に同情することが出来ない。(中略)
仁左衛門の演伎が又どうにも空々しい。例に依って石のように冷たい態度は、序幕でさほど目立たないが、揚屋になると、露骨になってくる。それをこの人一流の妙な写実芸でカバーしようとするから余計に上すべりがして同情を誘わない。どうして、この人は情熱が無いのであろう。筋が無理なのだから情熱で見物を引きつけなければならないのに、他人の為に台詞を云っているような態度なのだから一層歯がゆくなってくる。失望した時の仕草など、余りにも一人かけはなれていて、おかしくさえなる。嘲られても平然として松山と侘びた住居に人形を作っているような男にはとても見えない。」
『勤皇風土記』
「緞帳式な狂言である。いったいこの頃は大歌舞伎で、浅草でやりそうな品のない脚本を平気で出しているが、これは考えものだ。大歌舞伎は例え二番目狂言でも、大歌舞伎らしい品格を具えていてもらいたい。芸者に騙されて悔悟し、勤皇に志す侍と、盲目になって改心するその芸者とを対照させた筋であるが、ただその筋を平坦に叙述してゆくだけで、碌に音楽さえ使わず、芝居らしい山もなく、筋だけが移動して役者は只引摺られているだけだ。
仁左衛門の芸者は、こんな役になると欠点が物を云い、大した度胸もない毒婦ぶりに巧い所がある。」
(同)
〈観客評〉
「流石上方育ちだけに椀久のような役になると仁左も滅法良い。零落してもお坊ちゃん気質のぬけない椀久の感じをよくあらわしている。仁左のふくよかな顔とおっとりした姿が実にあっている。」
(同 “読者倶楽部”)
8月7日、米軍ガダルカナル島上陸
8月8日、第一次ソロモン海戦
10月 歌舞伎座(1日初日)
『福地桜痴・河竹黙阿弥追福興行』
「仮名手本忠臣蔵 五・六・七段目」おかる

「仮名手本忠臣蔵」おかる
〈劇評〉
「仁左衛門のお軽は近頃また昔の冷たい空々しさが復活して、折角の役を壊している。(中略)
七段目は大急行で、幸四郎の由良之助、仁左衛門のお軽、羽左衛門の平右衛門とも、追い立てられるような演伎に見ているほうも落ち着かなかった。」
(「演芸画報」昭和17年11月号)
同 東京劇場(1日初日)※掛け持ち出演
「平家女護島」丹左衛門尉基康
「沓手鳥孤城落月 奥殿 糒庫」淀の方
「壺坂霊験記」女房お里

「平家女護島」丹左衛門尉基康

「沓手鳥孤城落月」淀の方

「壺坂霊験記」 左・仁左衛門(女房お里)、右・沢市(壽美蔵=三代目壽海)
〈劇評〉
『平家女護島』
「第一に猿之助(※二代目)が親ゆづりの『俊寛』を見せて居ります。(中略)
仁左衛門の基康は困ります。こんな役をああ味も素ッ気もなくサラサラやってしまっては詰まりません。儲かる所をわざと外らして冷然としているやり方では、この芝居が面白くなくなります。もっと儲ける所をしっかり儲けてくれないと、幕が水ッぽくなります。柄から云えば過ぎた位の基康だのに惜しいことです。」
『沓手鳥孤城落月』
「仁左衛門の淀君は、慥(たし)かに嵌り役なのですからもう少し巧い筈ですが、まだ研究が足りないでしょう。糒庫のほうは下品でいけません。両手を胸へ入れてはだける仕草などは、色気をつけるつもりかも知れないが、益々下品になりました。奥殿の方は上出来ですが、まだヒステリー振りが足りないようです。もっと深く掘り下げて、将来の持役になるように望みます。」
『壺坂霊験記』
「『壺坂』はなかなか面白うございました。爰(ここ)へ来て仁左衛門のお里も大いに見直しました。こんなな役では流石に旨い味があります。ウンと若く作っていたのも原作の意にかないでしょうし、演出の手順もよく研究してあって、無駄がありません。ただサワリの間の動きは平凡ですし、チョボ(※義太夫)とのやりとりが少し烈しすぎるように思います。爰は成るべく義太夫に任せて置いたほうが歌舞伎らしくっていいでしょう。観音堂の場が殊に巧いと思いました。『忠臣蔵』のお軽では、あんなに冷たかったのが、斯うも変わるかと思うほど情がありました。蘇生してから引込みも少しも難はございません。近頃での当り物でありましょう。」
(「演芸画報」昭和17年11月号)
10月26日、ガダルカナルの攻防をめぐり南太平洋海戦
11月 歌舞伎座(10月29日初日)
※10月からの延長興行
「仮名手本忠臣蔵」桃井若狭助安近、おかる


「仮名手本忠臣蔵」桃井若狭助安近
11月1日、大東亜省を設置、拓務省など29局13部を廃止し行政の簡素化をはかる。
12月 歌舞伎座(3日初日)
「春風帖」娘応為
「廓文章」扇屋夕霧


「廓文章」扇屋夕霧 (十五代目羽左衛門の藤屋伊左衛門)
〈歌舞伎のお家芸〉
「片岡仁左衛門の家は可成り長く続いているので、大分役柄が違って来ています。初代の当り役といったら團七でしょう。これはいつもの『夏祭』ではありません。イヤ仁左衛門の團七を見て、人形の『夏祭』が出来たのだから、此の方が本家なのです。どんな筋だか解りませんが、とに角この役はお家芸と云えましょう。今の我當(※十三代目仁左衛門)が子孫に至って復活した訳です。六代目までは何も伝わらず、七代目は実悪で、師直を殊に得意とし、五斗の鉄砲も自慢物でしたが、演出は伝わっていません。『五大力』の三五兵衛はこの人の初演ですが、脇役ですからお家芸とも云えますまい。八代目に至って、いろいろと出来ました。この人は和事師で、何よりも『封切』の忠兵衛が得意でした。これは純然たる片岡家のお家芸で、十代目から先の仁左衛門、今の仁左衛門、我當まで演っています。八代目以来、片岡家は立役の家となった訳です。そして新口村では必ず孫右衛門と二役ゆくのが型になっています。流石にこれだけは誰がやっても不評は受けません。代々の俳優に忠兵衛の血が流れているのでしょう。次に『大和橋』の信孝も非常な当りで、これも代々の仁左衛門がやりました。先代仁左衛門のは少し変っていましたが、あれは古風にやった方がよろしいのです。今の仁左衛門が改名披露の役にこれを選んだのは当然でした。それから『小笠原騒動』の笹原隼人と島の小平次の二役もお家芸で、八代目は随分度々やりましたが、十代目以来絶えています。これはどうか手を加えると、復活出来る可成り面白い狂言であります。
先代仁左衛門は“片岡十二集”と題して、お家芸を十代目定めました。それは『堀川』の与次郎、『庵室』の清玄、『大和橋』の長七郎、『大蔵譚』の大蔵卿、『大文字屋』の助右衛門権八、『鰻谷』八郎兵衛、『酒屋』宗岸、『石田の局』『吃又』『木村の血判取』『赤垣源蔵』『和気清麿河原の別れ』の十二であります。面白いのは、此うち仁左衛門に書いた新作というのは『和気清麿』だけで、あとは昔からある狂言の改作であったり、或は独特の演出に拠るものばかりである事です。つまり『堀川』は全然院本通りにやる。『鰻谷』や『大文字屋』は古い義太夫から探し出す。『赤垣源蔵』は義太夫と黙阿弥の作を折衷するという行き方で、全部に仁左衛門の独創の見られる所が特色であります。この中の幾つかは、後まで伝えられるだろうと思います。まだこの外に、仁左衛門が初めてやった、『さくら時雨』の紹由とか『名工柿右衛門』とかは、これも片岡家のお家芸として、残す価値が充分にあると思います。」
(「演芸画報」昭和18年1月号)
情報局は米英楽曲約1000曲の演奏を禁止する。
12月31日、大本営はガダルカナル島からの撤退を決定。