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迦陵頻伽──ことだまのこゑ

手猿樂師•嵐悳江が見た浮世を気ままに語る。

ニッポン徘徊──東海道46 箱根峠→箱根宿(箱根の関所)→箱根峠(東坂)

2019-10-08 07:33:00 | 旧東海道
国道1号線の歩道のない路肩を下っていると、右手に旧街道の標識が見えてきます。またとんでもないところに……、と呆れつつ車が来ない隙に横断し、「石挟(いしばさみ)坂」という、坂というよりほとんど崖のような斜面を、恐る恐る下って行きます。こんなヒドイ道をかつての大名行列は通ったのだろうか……、と改めて呆れているうちに足許には石畳が復活、下るにつれて「風越坂」→「釜石坂」→「赤石坂」→「向坂」と、どこまで . . . 本文を読む

ニッポン徘徊──東海道45 箱根峠

2019-10-07 07:36:00 | 旧東海道
こわめし坂をようようのことで上りきると、その先のやや外れに笹原一里塚があるとのことでしたが、うち続く急勾配の洗礼にすっかり忘却し、笹原新田地区から丁寧に復元整備された石畳を、汗を拭き拭き踏みしめて行きます。石畳の道筋が、バイパス道敷設工事で一部封鎖されていたため、そこだけ現道を迂回し、その先より続く木立のなかをしばらく進むと、中世末期に小田原北条氏によって築かれ、天正十八年(1590年)に豊臣秀吉 . . . 本文を読む

ニッポン徘徊──東海道44 三島宿→箱根峠(こわめし坂)

2019-10-06 08:01:00 | 旧東海道
伊豆箱根鉄道線の「三島広小路」駅を中心とした賑やかな界隈が、かつての三島宿。宿場の東側には三嶋大社が鎮座し、鳥居をくぐったすぐ右手には、「たたり石」と云う大きな石があります。もともとは旧東海道の真ん中にあり、通行の上り下りを区別する中央分離帯の役割を果たしていましたが、大正時代に境内へ移されました。道の真ん中にこのような石が置かれていたとは不思議ですが、2900年前に富士山の斜面が大規模な崩落を起 . . . 本文を読む

ニッポン徘徊──東海道43 沼津宿

2019-10-05 10:09:00 | 旧東海道
沼津宿へ入る前に、明治十九年の建立らしい道標に誘われるまま、「六代松」の旧跡を見ていくことに。六代とは平維盛の子の名前で、平清盛を三代目としてその六代目に当たることに由来しています。平家滅亡後、一度は文覚上人に命を救われて出家した六代でしたが、結局は上人の企てた謀反に連座した科で斬首されます。首は家来によって松の根元に埋められ、以来その松は“六代松”と呼ばれて東海道を行く旅人たちに愛されていました . . . 本文を読む

ニッポン徘徊──東海道42 原宿

2019-10-04 08:01:00 | 旧東海道
元吉原を過ぎ、「大野新田」信号で県道380号線に合流すると、延々とした直線道には、「○○新田」という地名がつづきます。それはかつて、海に臨んで水田が広がっていたことを示すものですが、現在では高い防波堤に海の眺めは遮られ、水田のかわりに民家が建ち並び、その屋根を越す松林によって、その向こうに駿河湾が広がっていることを察するのみです。せっかく“東”の“海”に沿った“道”を歩いているのに、このままでは直 . . . 本文を読む

ニッポン徘徊──東海道41 吉原宿→元吉原

2019-10-03 07:28:00 | 旧東海道
富士川を渡り、四丁河原に半円を描くようにして残る旧道を経て古い道標から県道へ再び戻り、JR身延線の「柚木駅」の高架線をくぐった先から、再び旧道は右手にわかれ、ここからJRの富士駅付近を経て吉原宿の手前まで、緩い蛇行を繰り返しながら続きます。吉原宿手前の高島町で一度県道に合流し、高島信号で斜めに伸びる旧道を直進してさらに錦町交差点を過ぎ、すぐ右手にわかれて小潤井川を渡ると、蒲原宿から二里三十町(11 . . . 本文を読む

ニッポン徘徊──東海道40 由比宿→蒲原宿→富士川の渡し

2019-10-02 07:14:00 | 旧東海道
由比川を渡り、短い坂を上ると、興津宿から二里十二町(9.2㎞)の由比宿に到着。左手に見えるエメラルドグリーンの古い木造の建物は、かつて缶詰工場の寮として使われたもので、後ろに長く伸びた造りは、水産加工業全盛期の遺構とも言えましょう。その並びにあるのが、現在は安藤広重の浮世絵美術館となっている本陣跡。塀外には、水路のような溝があります。これはかつて大名行列の馬の水呑み場だったもので、ここで馬の体を洗 . . . 本文を読む

ニッポン徘徊──東海道39 薩埵峠

2019-10-01 07:54:00 | 旧東海道
文治元年(1185年)、近くの海から引き上げられた地蔵菩薩像をこの山に祀ったことから「薩埵(さった)山」と呼ばれるようになったと伝わるこの山は、足利尊氏と直義の兄弟が源氏特有の身内同士の殺し合いを展開した「勧応の擾乱」、武田信玄と今川氏真が対決したりと、たびたび戦場になりました。東海道の難所だったこの山を越えるには、大昔は麓の波打ち際を通るという非常に危険な方法をとっていましたが、江戸時代に入って . . . 本文を読む

ニッポン徘徊──東海道38 江尻宿→興津宿→薩埵峠口

2019-09-30 08:02:00 | 旧東海道
江尻宿は清水港の町であり、かつては講談浪曲、そして任侠映画でその名を馳せた、“清水次郎長親分”ゆかりの地であるわけですが、潮風香る巴川にかかる稚児橋を渡って枡形に右折した先には伸びるのは、なんともらうらぶれた風情。町並みはきれいに整備されていますが、実際には店舗と更地跡の駐車場とがほぼ交互に並んでいる有様、却って痛々しい感じがあります。江尻東三丁目で左折した先が、かつては宿場の中心部だったようです . . . 本文を読む

ニッポン徘徊──東海道37 府中→江尻宿

2019-09-29 16:42:00 | 旧東海道
旧東海道探訪、府中からさらに歩いて行きます。御幸町の華やかな街並みのなかに石碑で跡を伝える本陣跡を通り、やや落ち着いた雰囲気の伝馬町を過ぎると府中の出口、中心部からはなれたことが、続く横田町の家並みからもはっきりと分かります。春日交差点で国道1号線を斜めに渡り、JR線の線路を潜り抜けて曲金(まがりかね)地区に出ると、四つ辻を左に入って六分ほど歩き、黄金橋で再びJR線を潜り抜けて国道1号線に合流する . . . 本文を読む

ニッポン徘徊──東海道36 府中

2018-12-09 07:46:46 | 旧東海道
安倍川橋を渡ると道は二股に分かれますが(↑)、右側を行くのが旧東海道。 ちなみに左側は、江戸時代初期までの東海道の道筋にあたるそうです。 その二股の間にある緑地には、慶安四年(1651年)に江戸幕府の転覆を計画するも密告により失敗、自刃した由井正雪の墓址を示す石碑が建てられています。 またその近くには、旅人が落とした大金を丸子宿の先まで追いかけて届け、しかし礼金は頑として受け取らなかった . . . 本文を読む

ニッポン徘徊──東海道35 丸子宿→手越→安倍川の川越

2018-12-08 09:39:03 | 旧東海道
国道1号線を二十分ほど行った赤目ヶ谷中信号で旧道は右に分かれますが、そのすぐ先の旧道と現道の間には、往年の松並木が一本だけ残っています(↑写真)。 「名残の松」と名付けられたこの松は、丸子宿界隈に三本残る松並木のうちの一本で、傍らの案内板にある通り、江戸、明治、大正、昭和、平成と、四つ時代の交通を見守り続けてきました。 そして間もなく、五つ目の時代へと、突入することになるわけです。 名残の松 . . . 本文を読む

ニッポン徘徊──東海道34 宇津ノ谷峠

2018-12-07 07:43:14 | 旧東海道
岡部宿をあとにして歩くこと約三十分、茶室のなれの果てのような奇妙な廃墟を左に見つつ、併走する国道1号線の廻り沢入口信号で歩道橋を渡り、しばらくは国道に沿って進みます。 向こうに宇都之谷トンネルの出入り口が見えてきたところで、↑写真のごとく右に逸れて坂を下り、山に沿って進むと、いよいよ宇津ノ谷峠の登り口に。 源頼朝が行軍のためにそれまでの道筋(“蔦の細道”)とは別に拓いた峠道とも、豊臣秀吉が . . . 本文を読む

ニッポン徘徊──東海道33 岡部宿

2018-12-06 07:31:53 | 旧東海道
やがて藤枝宿を抜けて水守一丁目交差点の信号に至ると、ここから先は新しい住宅地と飲食店などが集まる区域に再開発されているため、かつての旧道が消滅しています。 そのため道に迷いそうになりますが、傍を走る国道1号線へ出て少し行くと、反対側に往年の松並木がわずかに遺っていて、なんとか見当をつけることが出来ます(上段写真)。 このように、この一帯は旧東海道の道筋が一部消滅しているため、辿るには案内板 . . . 本文を読む

ニッポン徘徊──東海道32 島田宿→藤枝宿

2018-12-05 07:55:01 | 旧東海道
大井川を越えると、旧道は十分ほど人家と工場の間を進んで県道に合流、そのままさらに二十分ほど行った大井神社の鳥居前が、かつて京側の升形のあった場所、ここからが金谷宿より一里(3.9Km)の、島田宿↑。 本通二丁目から四丁目にかけては再開発で道幅が広げられ、建物も新しくなっていますが、江戸寄りの五丁目から六丁目は昔ながらに道幅が狭く歩道はアーケード付きという、 再開発以前のままですが、私はこち . . . 本文を読む