若宮町で二十七曲の最後─江戸からでは一番目の曲がり角─を右折して岡崎城下を後にすると、緩い坂を下って国道1号線と並行しながら、筋違橋を渡ります。
このあたりは幹線道路が騒々しく交差する場所でありながら、昔ながらの松並木が、少しばかり遺されています(上段写真)。
東名高速道路の岡崎ICを地下道でくぐり抜けて大平町に出、しばらくしてから左に分かれる旧道へ入って行くと、
住宅地のなかに「大平 . . . 本文を読む
松並木を過ぎ、牛田町から来迎寺(らいごうじ)町に入ると、「来迎寺一里塚」が東西に遺っています。
上の写真は西側で、東側は道から少し奥まった場所、
ちょうど公民館の真裏に、隠れてしまっています。
在原業平ゆかりの地、八ツ橋にある無量寿寺への道標を過ぎ、今本町に入ると、昔の松並木が岡崎市との境界線付近にあたる国道1号線との合流地点まで、
数キロに渡って断続的に遺されています。
安 . . . 本文を読む
桶狭間古戦場跡を過ぎ、再び旧道へと入って約40分、国道1号線へ再び合流する手前に、形はだいぶ崩れていますが、「阿野一里塚」が東西に残っています。
旧道は黒部川の手前で再び左に分かれ、昔は真ん中から西は板橋、東はその上に土を盛り固めた土橋だったと云う「境橋」を渡り、国道1号線を地下道でくぐり抜け、反対側に続く旧道へ出ると、
落ち着いた風情の今川町を通って行きます。
その先の今岡町 . . . 本文を読む
名古屋中環状線を渡って右折すると、旧道はやがて小高い森に沿って進んでいきますが、この森は戦国時代の砦跡と云われています(上段写真)。
県道36号線を越えると古い民家が目に付くようになり、やがて大きく左に曲がると、
鳴海宿に到着。
↑写真右手の山車蔵のあたりが、かつての本陣跡だそうです。
しばらく進んで枡形を通って宿場を抜け、
曽根地区にわずかに残る松並木を通り、
名古 . . . 本文を読む
角の酒屋から伸びている旧道を、国道247号線を横断した先で道標に従って右に折れるのが東海道(上段写真、赤線矢印)、直進すると国道1号線の向こうに、宮の宿の語源である熱田神宮の大鳥居が見えます。
伊勢神宮に次ぐ格式を有し、三種の神器のひとつ「草薙の剣」をおさめている熱田神宮にはもちろん参拝し、
道中の安全を祈願。
その後は再び旧東海道へと戻り、かつて宿場だった宮の町を通って行きます。
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七里の渡しは、鎌倉時代には既に「古渡(ふるわたり)」と呼ばれて存在しており、慶長六年(1601年)に徳川家康が宿駅制度を定めたとき、唯一の海路として東海道の正式ルートになりました。
しかし、湾に注ぐ揖斐川、長良川、木曽川からの流砂などのため水深が浅く、干潮時には沖合いを通るため十里の航程となり、また時代が下るにつれて沿岸が埋め立てられたので、ルートは一定していなかったようです。
現代の地図に当 . . . 本文を読む
三滝橋から約十分、今度は海蔵川を渡って「三ツ谷一里塚跡」の碑を過ぎ、国道1号線に合流して羽津町で左手に再び分かれると、ここから桑名宿の手前まで、町中の住宅地をひたすら進んで行くことになります(上段写真)。
途中、八田地区では先に見た泊地区と同じく、かつてここが松並木であった時代から唯一変わらずに佇む一本松──かつての地名に引っ掛けた「川原須(かわらず)の松」、
そしてその先には、電球ながら . . . 本文を読む
追分を過ぎて泊(とまり)地区に入ると、道の両側には隣りの日永地区にかけて、低い土手に松並木が続いていたそうですが、現在では松並木の代わりに住宅がギリギリまで迫る、生活道路となっています。
が、日永5-12あたりにわずか一本だけ、古えの時代を偲ばせる松が残っています(上段写真)。
道幅のわりに車の交通量が多いなか、日永から赤堀地区を通り、
次の南浜田町から中浜田町にかけて古い民家が残る地 . . . 本文を読む
宿場名にもなっている石薬師寺は、坂の左沿いにある古刹です。
今は昔、平家追討のため西下した“蒲冠者”源範頼が戦勝祈願にこの寺を訪れた際、鞭にしていた桜の枝を地面へ逆さまに刺したところ、月日が経つうちに根が生え、見事な花を咲かせるようになった──
それが、寺から百メートル程離れた場所にある「蒲桜」で、またの名を「逆桜」(上段写真)。
ヤマザクラの変種だそうで、地面から細い幹がいくつも分かれて伸 . . . 本文を読む
元禄三年建立の道標から約十分、関西本線の「井田川駅」前を過ぎて右折し、その先の踏切を渡ると、わずかの間ながら鄙びた景色が広がります(上段写真)。
県道を横断して小田坂を上ると、地元の生活道路といった風情が続き、古い木造校舎のような公民館の前を過ぎて安楽川を渡り、中富田という地区を二十分ほど行くと、右手の川俣神社には一里塚跡の石標と、これより西は亀山領であったことを示す領界石とが並んで建っています . . . 本文を読む
国道1号線に合流した先で歩道橋を渡り、JR関西本線の踏切を越え、鈴鹿川沿いに伸びる太岡川寺畷(上段写真)を二十分ほど行くと、関西本線の線路に道が分断されているため、そばの陸橋を渡り、その先に続く坂道を丘へとのぼって行きます。
そして布気、野尻と住宅の続く地区を過ぎると、左手には「野村一里塚」が。
一里塚に植えられるのは基本的に榎ですが、ここでは椋が植えられ、樹齢も三百年を越えているそうです . . . 本文を読む
このあたりを元坂下といい、かつて坂下宿はこのあたりにあったのだそうです。
ところが、慶安三年(1650年)の大洪水によって宿場がことごとく流失、東へ約1㎞の場所に移転したのが、現在のこる坂下(さかのした)宿(↑写真)。
広大な敷地面積で有名だったと云う本陣も現在では茶畑となり、また道が拡幅しているために宿場町であった雰囲気は薄いものの、道沿いの至るところに残る石垣が、
かつては鈴鹿越えを . . . 本文を読む
土山宿を出ると、かつてはその先で田村川を徒渡りしていましたが、大水のたびに流される旅人が多く、宿場の悩みのタネでした。
そこで1775年、約600メートル上流に板橋を掛けて、通行の便宜をはかりました。
坂上田村麻呂ゆかりの「田村神社」の鳥居前を右折した先に、その橋は「海道橋」として復元されています(上段写真)。
橋を渡り、工場の間を抜けると、民家の間を行く坂道に差し掛かります。
ここ . . . 本文を読む
水口宿まで歩いた旧東海道、さらにその先を歩いてみることにします。
三筋の道が合流した先で本陣跡を左手に見て過ぎ、緩やかな坂をのぼって県道549号線を渡り、案内標識がそれと伝える東見附の跡を過ぎると、かつての松並木、現在は新旧の家屋が混在するなかを進んで行きます(上段写真)。
水口宿を出発して約四十分、水口町今郷に入ったところで、右手に今在家一里塚が。
これは明治時代に取り壊されたのち . . . 本文を読む
石部宿を出発し、次の水口宿までの三里半(約13.7㎞)の間には、家棟川、由良谷川、大沙川と、天井川の隧道が三ヶ所ありました。
上の写真はそのうちの、由良谷川の隧道です(家棟川の隧道は、近年の河川切り下げ工事により、撤去されています)。
「家屋より高いところを流れる自然の川とは、どんなだろう……?」
と、草津宿のそれを見て以来気になっていたわたしは、傍らの土手から隧道の上へと上がってみました . . . 本文を読む