明治31年創業の大船軒の名物駅弁、「鯵の押寿し」(\960)が食べたくなったので、発祥地である大船駅へ。
湘南産の小鯵を使用して初めて大船駅で売り出したのは、大正2年4月のこと。
数年前の夏、何の気無しに買って食べたところ、予想外に美味しく感じられ、今頃になってふと食べたくなったのも、あの時の感激を舌が記憶していたからでしょう。
それにしても、箱のサイズといい、掛紙のデザインといい、古き良き . . . 本文を読む
本庄宿は1590年代に整備が始まり、当初はわすが38軒の小さな宿場だったのが約300年後の天保年間、1814年には1212軒まで膨れ上がり、かなりの活気を呈してしたようですが、現在では↑のようにそれも昔語り、となっています。
↓は旧本陣の正門で、現在は旧街道より道を一本入ったところの歴史民俗資料館前に移築されています。
この旧宿場町では毎年11月2、3日に、町中を山車を曳いて廻る“本庄まつ . . . 本文を読む
深谷宿を出発して歩くこと約1時間20分、大里郡岡部町で国道17号線から離れ、やがて庚申塔を過ぎ、手書きの小さな標識がなければそのままの通り過ぎてしまいそうな細い道へ右折すると―それが正規の旧中山道、事実、資料の地図を見ていながら道を間違えて引き返しました…―、左手に「八坂神社」という小さなお社、その脇の坂を下っていると、左手の斜面に夥しい数の庚申塔が並んでいるのが目に入ります↑。
これを「百庚申 . . . 本文を読む
熊谷宿から歩くこと約2時間、途中歩道の無い区間で車がスレスレを通り過ぎて行く恐怖を味わいながらも、ようやく深谷宿の入口、「見返りの松」までやって来ました↑。
深谷宿は当時、商業だけでなく、中山道きっての色街としても有名で、翌朝旅人と遊女はこのあたりで別れを惜しんだことからその名が付いたとか。
国道17号線を渡って少し行くと、右手に宿場の入口を示す常夜灯が↓。
常夜灯から熊谷宿方面の歩道 . . . 本文を読む
熊谷宿をたって約30分、熊谷市石原176で国道17号線から離れると、やがて右手に一里塚が↑。
熊谷市新島に残る一里塚は、現在この東側のみで、西側は江戸時代にこの地域で大流行した疫病がインド伝来とも云われる“吃意摩多利神(きついまたりしん)”によって平癒したとの伝説を紹介した石碑と、件の石像がフェンスに囲われて建っています。
↓は一里塚からさらに行ったところの、玉井と云う地区で出会った木。
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日本橋の三越劇場で、劇団俳優座提携公演「大岡越前―卯の花が咲くとき―」を観ました。
南町奉行に着任したばかりの若き日に裁いた一件が、年月を経て寺社奉行への昇進を目前にして再び…、といった内容で、第一幕の若き日の大岡越前守忠相を頼三四郎さんが、第二幕の後年をTVで長年持ち役にしてきた加藤剛さんが演じる、父子競演が売り。
第一幕では娘婿を濡衣の罪によって亡くした老人(加藤剛さん二役)の怒りと新任の . . . 本文を読む
熊谷は第二次大戦時の空襲で殆どが焼けた後に再建された街であるため、旧熊谷宿としての面影は全くありません。
かつて広大な面積を誇っていたと云う本陣も、現在では跡地の道端に標識があるのみです↑。
旧中山道は本陣を過ぎるとすぐに右へ緩くカーブするのですが、現在はその道筋の一部が潰されて「八木橋」と云う地元百貨店が建っています↓。
道筋通り店内のフロアーを突っ切って行くのも面白いな、と思ってい . . . 本文を読む
高崎線の跨線橋を渡ってその先に続く旧街道を進んでいると、堤防に行き当たります↑。
これが「熊谷堤」で、旧中山道はこの堤の上に続いています。
写真左手は「権八延命地蔵堂」。
その昔、白井権八がこの地蔵の前で人を斬り殺し、
地蔵に
「誰にも言うなよ」
と口止めしたところ、
「言わぬが、おぬしも言うな」
と返事をした、と云う伝説が。
ところが、これと同じ伝説が旧街道沿いの熊谷寄りにある地蔵にも伝 . . . 本文を読む
宝持寺を過ぎ、鴻巣宿からほぼ一里歩いたところで、「箕田の追分」に差し掛かります↑。
高崎線北鴻巣駅の西の延長線上に位置するこの追分を東に折れると忍行田道へ、中山道はそのまま直進。
中山道もこのあたりまで来ると、だいぶ長閑な風景に。
古街道を旅している気分が満喫できます(↑は鴻巣市前砂)。
旧中山道は吹上駅手前で踏切を渡って線路の東側に出、駅前を通ってしばらくしてから左へ桝形に折れ、 . . . 本文を読む
桶川宿から歩くこときっちり2時間、鴻巣宿に到着。
ここは江戸幕府がひらかれる前年、お隣りの北本宿から機能を移転してオープンした宿場で、江戸時代はよく火事に見舞われたとか。
ここは旧宿場町の史跡はほとんど残っていないのでサッサと通り、次の熊谷宿を目指します。
…と言っても、次の宿場までの距離は、なんと四里(16キロ)!
こりゃいよいよ覚悟を決めねばならぬわえ、と思ううち、鴻巣市加美で高崎 . . . 本文を読む
桶川宿から次の鴻巣宿までの間には、安土桃山から江戸前期までのごく短い期間、「北本宿」が存在していました。
やがて鴻巣宿が開かれて機能がそちらへ移った後も、「間(あい)の宿」-二つの宿の間にある宿と云う意味で、宿泊不可の茶店のみの休憩所-として賑わったそうです。
もうしばらく進むと、右手に「本宿天神社」が。
満更ご縁がないわけでもないので参拝しました。
そこで配布されている栞の「神社の沿革 . . . 本文を読む
桶川市内に入ると、間もなく木戸(宿場の出入口)跡を通って桶川宿へ。
ここは昔日の宿場町を偲ばせる古い建物が所々に残っていて、↓写真左の武村旅館はかつての“旅籠”の姿をそのまま現代に伝えている、貴重な旅館です。
またこの旧宿場町には地元の観光名所や中山道の歴史を紹介した案内所があり、浮世絵の製法を再現した三色のインクによる“多色刷り版画体験コーナー”もあったので、ひとつ試してみました↓。
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大宮宿から約8キロ、上尾宿に着きました。
上尾宿は戦国末期の成立で、中山道69次の中でも小規模な宿場。
↑写真左手の木立は上尾宿の総鎮守「氷川鍬神社」、1632年(寛永9年)の創建で、1908年(明治41年)までは「鍬大神宮」と云い、本陣はそのお向かいにあったそうです。
↑は宿場を出て少し行ったところにある庚申塔。
宿場の入口にある庚申塔は、悪魔が宿場に入って来られないよう護るためのも . . . 本文を読む
上尾宿へ向かう途中、行く手に鬱蒼とした木立が見えてきたので、何かのお社かなと思っていたら、やはりそうでした。
この神社は「加茂神社」と云って↑、創建年代は不詳だそうですが、かなり古いことだけは確かなようで、渓斎英泉の浮世絵にも描かれています。
途中、街道沿いの宮原という町に住む従姉妹を久しぶりに訪ねて談笑したあと、再び中山道へ。
上尾市に入ってすぐのところで、また行く手に鬱蒼とした木立↓ . . . 本文を読む
浦和宿を出発して一時間半、大宮宿に到着。
1628年(寛永5年)の往環替えで宿場として指定・整備され、道筋も現在のものに改められました。
ここも旧浦和宿と同様に繁華街となっていて、かつての雰囲気は何も残されていません。
京寄りの宿場入口付近で長年にわたって寿司屋を開いている伯父を訪ね、しばし歓談してから再び出発。
宿場を抜けると、宇都宮(東北)線の線路をくぐり抜けて↓、次の宿場「上尾宿 . . . 本文を読む