長々年お世話になったgooblogが年内に廢止と云ふ寝耳に水な店立てを喰らってビックリ仰天、とりあえず樂天ブログへ暫定的に引っ越しの旨、ここに申し上げそろ。https://plaza.rakuten.co.jp/arashi2025/ . . . 本文を読む
東海道かわさき宿交流館の企画展「懐かしき昭和の店先」を覗く。日々の生活に必要な品目だけ商店の數があった昭和の買ひ物風景を、女性の手工藝作家が自分の記憶だけを資料に再現し、平成二十六年(2014年)に當館へ寄贈した見世の小模型から訪ね歩く。見世の内部まで精細に再現した寄贈者の手先の器用さと記憶力以上に、會場いっぱいに並べられた見世の數の多さに驚く。なるほど、品目ごとに見世があり、それらが一本の道に沿 . . . 本文を読む
江戸以来の藤の名所は、さすがにまだ初夏の便りには早過ぎなれど、どうやら四月中にその聲を聞きさうだ。しかしここでは私の好きな牡丹櫻が見頃となりつつあり、樂しみの目白押しで今春は思ってゐたより忙し。しかし今年は雨がよく邪魔するので、晴天下の櫻は一期一會とよく心得ん。 . . . 本文を読む
“花まつり”と云ふ言葉の優しい響きに誘はれて、川崎大師平間寺の灌佛會に出かける。四月八日はお釈迦さまのお誕生日にて、甘茶をかけて生きる心の糧であらせられることに感謝を奉げる。それから振る舞ひの甘茶を初めていただき、後からじわりと広がる甘さに、なにか優しさを覺ゆ。今年の櫻も、今日あたりが最後の見頃かもしれない。締めくくりの牡丹櫻が、そろそろ顔をのぞかせやうとしてゐる。お詣りを済ませて心が軽くなったの . . . 本文を読む
やっと晴天下で満開の櫻を見られて、やっと今年も春に逢へた氣分になる。先日、ラジオ番組でパーソナリティがアシスタントに、「もうお花見はしましたか?」と訊ねると、アシスタント答へて曰く、「ええ。……渋滞中に」空いた時間を有効且つ合理的に使ふこの現代な感覺、尊敬に値する。 . . . 本文を読む
志村けんさんが支那發の人災疫病のために亡くなったとの悲報をうけて、今日で五年になる。もう五年になるのか、と思ふ。(※令和六年十二月撮影)あの、全身から力が抜けた感覺は、五年がたった現在でもはっきりと憶えてゐる。この年早々に日本にも傳染した人工疫病がいかに恐ろしいものであるかを強烈に印象づけた、まさに“事件”とも云へる出来事だった。大勢の人が東村山驛前の“志村けんの木”へ献花に訪れる . . . 本文を読む
久しぶりに有樂町の大江戸骨董市を覗きに行く。ある見世で、ちょっと氣になった扇を見かけて中に入ると、主人がなにか一言、ニッポン語で声を掛けてきた。かういふ時、橫合ひから話しかけられるのがキライな私は、とりあへず小さく頷くだけで受けると、主人は次にどこかの夷國語で、私が見てゐる古物の値段を説明し始めた。マスクで顔が半分隠れてゐるとは云へ、亜細亜系夷國人か何かに見られたことでいっぺんに不快になり、よほど . . . 本文を読む
このところの暑いやうな暖かさに、東京都心でも櫻が咲き始めてゐる。あと數日で四月、新年度。しかし私はいつもの通りに、いつもの通りに咲く櫻を見る。夜になり、白く浮かび上がる櫻に私は足を止め、なにかを想わうとする。なにか一言云ひたい手合ひをくすぐって止まぬあの魔力が、私を嗤ってゐるやうだ。 . . . 本文を読む
昼過ぎにふと氣が向いて、新橋驛前の恒例古本市を覗きに出かける。着いてすぐに綺麗な良い物が手に入り、そこで引き揚げても良かったのだが、せっかくだからとしばらく徘徊するうちに、けっきょくいい出費となる。いつも通りの流れ。いつもの場所で、今日も靴磨きのお婆さんが商賣をしてゐた。いつもの事がいつも通りにあることが、一番の平和であり、幸せなのだよ。 . . . 本文を読む
國學院大學博物館の企画展「江戸の本屋さん 板元と庶民文学の隆盛」を觀る。二百年以上も天下泰平が續いた江戸時代は町人(庶民)文化が花開いた時代であり、木版印刷の發達と普及は、刀が腰飾りとなった武士や貴人、隠棲者など知識教養に富んだ者たちによる雅俗を綯ひ交ぜた知的な遊び心に富んだ娯樂文學を普及させ、やがて町人階級も手がけるやうなってさらに大衆化し、それが“戯作”として持て囃されていく歴史を、貴重な一點 . . . 本文を読む
dmenuニュースよりhttp://topics.smt.docomo.ne.jp/article/ssnp/business/ssnp-20250324-607006?fm=d昨年夏いらいの米価亂痴氣高騰によるレンチン御飯の需要過多から、「生産の効率化を目的として」、一部商品を五月末頃まで休賣、または終賣云々。昨夏にどの店からも精米が消えた時には、前もって少しづつ買ひ溜めておいたレンチン御飯でな . . . 本文を読む
我が町で、今年の櫻に初會。このごろの暖かさに、蕾もだいぶ膨らんでゐる。来週からの来月初めに、満開となるだらうか。うかうかとしてゐると、時間ばかりがやって来て、時間ばかりが過ぎてしまふ。今年になって、まだ自分はなにも仕上げてゐないやうな。 . . . 本文を読む
觀世能樂堂で、喜多流自主公演を觀る。初めが「養老」、老いも若きも飲むと元氣になると云ふ湧き出づる“藥の水”、どうやら酒のことらしいが、私にはヘンな“クスリ”が混ざった水のやうに思へて、とたんにそれを語ってゐる舞臺の立体静止画像が可笑しくなり、それから私もスッカリ元氣になる。「源氏供養」では美聲のワキ方が作った石山寺の静謐な風情を、地謠方がクセの表白に向かって緩やかに盛り上げて最後にスッと締める、極 . . . 本文を読む
日本でラジオが假放送で始まって今日で百年云々、TVを嫌って見ない私にとって、ラジオは浮世を識る大切な情報源──“窓”でもある。あるラジオ番組の投稿で、「百年前の人がRadioを“レイディオ”ではなく、“ラヂオ”と訳したことも、親しみが持てる理由だと思ふ」と聴いて、確かにさうかもしれないと感じる。レイディオではいかにも外来物的、ラヂオならばニッポンで消化された文明、な響きを聞くやうな。ラジオを聴くこ . . . 本文を読む