昭和17年(1942年) 60歳
1月 歌舞伎座(2日初日)
「日本第一 和布刈神事」静御前、榊葉
「二人袴」老松
「名橘誉石切」娘梢

「名橘誉石切」娘梢
『決戦下の興行信念 松竹専務 井上伊三郎』
「一億国民火の玉となって大東亜戦完遂に粉骨砕身しつつあるの時、我々興行に携わる者は如何なる方針を以て職域奉公の赤誠を尽し、その職責を全うすべきであろうか。 (中略)
現下最も要望されるものは歌舞伎にも心配にも『名脚本の出現』である。我々は伝統の価値ある名劇を尊重保存する一方、時代の如何を問わず、啓蒙指導性に富むと共に興味津々の名脚本を翹望し、如何にすれば、名脚本を獲られるかに惨憺の苦心を払って居る。 (中略)
今日最大要望たる名脚本の出現は単に松竹の幸福のみでは断じて無い、大日本文化の為め大日本演劇の為めだ。我々は松竹の利害と云う如き小乗的見地を心の奥底から棄て去り、大日本演劇の為めに微力の限りを尽くしたい信念に燃えている。(中略)
そして健全娯楽が国民の士気をいやが上にも昂揚し、一億の心の団結を益々強化する所以なるに思い到れば、我々は職責上自ずから感奮禁じ得ざるものがあるのである。」
(「演芸画報」昭和17年2月号)
1月2日、日本軍マニラを占領
1月14日、ビルマ領二進撃
1月18日、日独伊新軍事協定を調印
2月 歌舞伎座(1日初日)
「博多小女郎湊枕 小町屋惣七内の場」(情報局国民演劇参加作品) 女房小女郎
「黒手組曲輪達引」三浦屋揚巻

「博多小女郎湊枕」 右・仁左衛門(女房小女郎)、左・十五代目羽左衛門(小町屋宗七)
〈劇評〉
『博多小女郎湊枕』
「仁左衛門の小女郎が近頃珍しくも柔味があった。」
(「演芸画報」昭和17年3月号)
※2月15日、日本軍シンガポールを占領
3月 歌舞伎座(2日初日)
『十四世市村羽左衛門追善興行』
「鏡山旧錦絵」召使お初
「近江源氏先陣館」篝火

「鏡山旧錦絵」召使お初
〈劇評〉
『鏡山旧錦絵』
「名題だけを踏襲して、中味は例の大阪仕立の改悪脚色、敢て羊頭狗肉とはいわないが、ヘンに実録風の理屈など押付けて、脂肪(あぶ)気抜きの湯掻殻に、旧衣を着せた新解釈がりは、どうにも箸のつけようがなく、時間節約の犠牲になった登場者を、ただ気の毒という外なく、宗十郎の尾上に、友右衛門の岩藤、仁左衛門のお初と、それそれ身分は立ったことだけを、慰労の意味で記録するに止め、余計な評は差控えるとして、ここに何とも不思議なは、尾上が自害をする間、お初は屋敷から一歩も出ず、局廊下を往復(ゆきかえり)するだけなので、石州浜田といえば小藩の江戸屋敷が、いかに広大無辺であったかということである。なまじっか実説がってあるだけ、つい偏痴気論がいいたくなる。」
(「演芸画報」昭和17年4月号)
〈『加賀見山旧錦絵』における三代目梅玉の回想談〉
「それから話しが別になりますが、大勢の役者衆の中にはつき合いのいい方も、もう一つつき合いの良うのうて困らされる方もございます。つき合いのよくない方では先年お気の毒な死方をされた仁左衛門さんなどそうでした。この方は稽古のときでも、自分の居所にジッとしていないで始終体を動かされるので相手に廻ったものがよくボヤいておりました。それに台詞も口の中でボソボソと独り言のようにいわれるので、これも相手に廻るものが困りました。相手方の台詞がこちらによく判らぬと、こちらの台詞もいえず、その受け渡しのイキがわからないからでございます。
稽古の時からこんな調子でっさかい、芝居が始まっても、常に自分がワキの役でいて、シテのように見せようとされる。それで、いつも人より一歩前へ出て芝居をされることになる。これがどうも邪魔になるので、これもよく蔭げ口をいっておられた方もございました。
私など、あんまりそうしたことを気にせぬ性質(たち)なので、別になんとも思っておりませんでしたが、それでも、そうしたことが二回三回と重なると、気がようないもので、ツイこちらもそのつもりで芝居をするということになり勝ちでございます。
いつでしたか中座で『加賀見山』が出て、私の尾上に仁左衛門さんがお初。その尾上部屋の場で私の尾上が自害する。お初が駈け戻って来る。この時、尾上が屏風の前で横になって死んでいると、お初が芝居をするのにホン具合がよろしゅうございますが、仁左衛門さんが右に申しました通り附き合いの悪い方なので、こちらもちょっと悪戯気が起こって、屏風の前で死んでいるのを、ワザと屏風の後へ半身だけ隠して死んでいましたが、こうすると、尾上の死骸(なきがら)にとりついて芝居するお初の方が、ホン仕難うなります……いってみれば常々の仁左衛門さんに対するこッちゃの嫌がらせなんです。でもとうとう三日目にお弟子さんが私の部屋へ見えられて『相済みませんが、明日から屏風の前で死んでいただきますようお願申し上げます。でないと、どうも芝居が仕難うございますので……』と頼みに来やはりました。こっちは、いわれいでも判っています。ワザとしているのでっさかい『エエそうだしたか、デハ明日から言葉どおりにしましょう』と返事して、翌日から屏風の前で死んでることにしたことがございました。
(「梅玉芸談」山口廣一 著 “お初を困らせた尾上”)
3月1日、日本軍ジャワ島に上陸
3月8日、日本軍ラングーンを占領
3月9日、ジャワ島のオランダ軍降伏
4月 歌舞伎座(1日初日)
『團菊祭興行』
「道行初音旅」静御前
「義経千本桜 鮓屋」若葉内侍
「天衣紛上野初花」松江出雲守、大口屋三千歳

「道行初音旅」 右・仁左衛門(静御前)、左・十五代目羽左衛門(佐藤忠信実は源九郎狐)
〈劇評〉
『道行初音旅』
「仁左衛門の静、腰がほんとうに入っていない。道行は見た目に美しければそれでよいとは言うものの、やはり戯曲的発展があり、前後のつながりが無ければ、道行物のほんとうの味は出てこない。これだけでは余りにあっけない。」
(「演芸画報」昭和17年5月号)
〈回想談〉
「『義経千本桜』の六代君を代役で勤めたときも、おじさんの若葉内侍と一緒に出て、いかにも平維盛の御台様らしく、高貴な奥方はこういうものか、いいお役だなあ、と思いました。いがみの権太の件りに関しては、若葉内侍が立女形で、お里は娘役なのだそうです。近頃ことに『鮓屋』だけ出る場合は、若葉内侍は軽視されがちですが、こういうことは、する側も、される側も、忘れないでもらいたいものです。」
(「澤村田之助むかし語り~回想の昭和歌舞伎~」 六代目澤村田之助 著)
4月1日、日本軍ニューギニアに上陸
4月11日、日本軍パターン半島を占領
4月18日、米陸軍機が東京、名古屋、神戸を空襲──米軍による初の本土空襲
5月 歌舞伎座(2日初日)
『團菊祭延長興行』
「扇音々大岡政談」吉田三五郎
「江戸育お祭佐七」芸者小糸

「江戸育お祭佐七」芸者小糸
〈劇評〉
「ありし日の團十郎、菊五郎の当り芸を、昭和の観客の前に演じて見せると云う興行目的から云って、出し物の撰みかたが苦しくなるのはやむを得ないが、(中略) 原作の省略のしかたに一言なきを得ないのである。
この未曾有の大戦下に、こうした豪華な興行を続けてゆくには、非常な苦心があるであろうことはよく分かるが、総力戦体制下にある国民に慰さめをあたえ、明日の力を養うための演劇と云う建前から考えて、いま少し現在の国家情勢に応じた興行法が考えられなければなるまいと思う。無論、松竹の大谷氏をはじめ興行関係の人々は、とかく、その点に考慮をついやして居られると思うが、歌舞伎がわが国演劇の代表的なものであり、将来繁栄をつづけてゆく為には、大きな革新を要するのではあるまいか。(中略)
二部興行とは云え、実に百名の俳優軍を擁しての大興行である。これは、出し物の上の必要からでは決してない。明治以来七十年の興行史に現われた俳優過重の余弊である。おそらく團菊がこれら狂言を上演した頃は、こんな多勢の俳優は使用しなかったであろう。」
『江戸育お祭佐七』
「仁左衛門は、梅幸亡き後の歌舞伎の陣営で、羽左衛門の対手役として、唯一の人であり、舞台姿も美しく、まことに結構であるが、当人がつとめてなろうとしている柳橋の芸者と云う江戸好みの芸者になり切っていない。これは、仁左衛門が芸だけでなろうとしても資質にそなわるものが違っていてはどうにもならないのである。」
(「演芸画報」昭和17年6月号 長田秀雄 評)
5月7日、日本軍コレヒドール島占領、珊瑚海海戦
5月9日、朝鮮に徴兵制施行を決定
6月 歌舞伎座(1日初日)
「天目山」夫人相模の方
「与話情浮名横櫛」妾お富
「夜討曽我狩場曙」源頼朝
「俠客春雨傘」傾城葛城
「墨塗女」妾花野

「与話情浮名横櫛」妾お富

「夜討曽我狩場曙」源頼朝
〈劇評〉
『天目山』
「額田六福氏作・巖谷三一氏演出 (中略) 敗者の勝頼が天目山の最期に、北条家出身の相模の方が、里方から復帰の使者、また夫からも退散を勧められながら、敢然これを斥けて、夫と運命を共にするという、貞烈ぶりを主題とした新史劇、(中略)
宗十郎の勝頼が主人公だけれど、役としては仁左衛門の夫人が女天下で占めていいる。」
『与話情浮名横櫛』
「またかでありながら、やはりお目当の『源氏店』である。これも与三郎が顔さえ見せて、お約束の“御新造さんえ”と来れば、幾年見せられても待兼ねた観客(けんぶつ)が、ずっと乗出して息を呑むのだから、最早芸を超越して、宗教の境に達したと見る外ない。(中略)
仁左衛門のお富も本役になりきッて一回毎に色気の加わるのは感心、(後略)」
『夜討曽我狩場曙』
「さみだれ月に唯一の季節狂言、筐(かたみ)送りから討入をすッ飛ばして、すぐ仮屋問答になる簡明ぶり、(中略)
仁左衛門もこの場の頼朝にはまッて当人よい心持ちにちがいない。」
(「演芸画報」昭和17年7月号)
6月5日、ミッドウェー海戦
6月7日、キスカ島占領
6月9日、大政翼賛会を全面的に改組
7月 帝国劇場(4日初日)
「会津籠城」佐の上家次女由紀
「本朝廿四孝 十種香」腰元濡衣
「伊勢音頭恋寝刃」油屋お紺

「会津籠城」右・仁左衛門(佐の上家次女由紀)、中央・三代目梅玉(同長女勢以)、左・訥升=八代目宗十郎(同三女美壽)

「本朝廿四孝 十種香」腰元濡衣

「伊勢音頭恋寝刃」油屋お紺
「本朝廿四孝 十種香」腰元濡衣、「伊勢音頭恋寝刃」油屋お紺写真
※7月11日、大本営は南太平洋侵攻作戦の中止を決定