昭和18年(1943年) 61歳
1月~2月 歌舞伎座(2日初日)
※二ヶ月の長期興行
「義経千本桜」銀平女房お蝶実は典侍局
「神明恵和合取組」女房お仲

「義経千本桜」銀平女房お蝶実は典侍局
〈回想談〉
「三嶋のおばさん(※六代目尾上菊五郎夫人 寺嶋千代)は六代目(※菊五郎)さんとの以前に、十二代目仁左衛門さんとの間に市村吉五郎さんをもうけているわけでしょう。だから六代目のおじさんと十二代目のおじさんは一度も舞台を一緒にしなかったというのですけれど、一回ありました。一度だけ、『め組の喧嘩』で辰五郎夫婦をなさり、二人の間の子である又八を私がやったのです。(十八年一月)
(中略)
私が、芝のおじさんの辰五郎にお仲が松嶋屋のおじさんでしたと話したところ、市村兄さん(十七代目羽左衛門)が、そんなことをするわけない、と憤ったけれど、現に私はふた月続演で出ていましたもの。 (中略) 二人の雲行きが怪しかったというのは、もっともっと昔のことで、『め組』のお仲をさせる頃には、もうそんなことはなかったのではないでしょうか。とてもいいお仲でしたよ。とても素敵なお仲でした。十二代目さんは声柄がいいし、綺麗だし。私、『七段目』のお軽なんか好きでレコードをよく聴きますよ。素敵ですよ。」
「私が最も松嶋屋で印象に残っていますのは、何回も申し上げるように六代目の
辰五郎で勤められた女房お仲(『め組の喧嘩』)です。おじさんのお仲は、なかなかお腹(なか)の強い女でした。そういうことは、二十五日側にいて見聞きしないとわかりません。本当に実の母親のように思いました。世間では、おじさんの舞台の感じを冷たいといいましたが、お仲は母親の情に満ちていましたよ。綺麗なお声で、実になんともいえない甘いお声で、阿古屋や『朝顔日記』の深雪が評判になったのはうなずけます。私には宝物と思うLPがあります。『源氏店』のお富、もちろん与三郎は十五代目の橘屋です。 (中略) ことに『七段目』のおかるはその女房ぶりといいその声の美しさ、

(七代目のおかる)
(中略) このレコードを聞くのが何よりの楽しみです。」
(「澤村田之助むかし語り~回想の昭和歌舞伎~」六代目澤村田之助 著)
1月13日、ジャズレコード禁止
2月1日、ガダルカナル島から撤退開始
3月 歌舞伎座(2日初日)
「改作 桐一葉」淀の方
「平家女護島」丹左衛門尉基康
「小鍛冶」三條小鍛冶宗近
〈劇評〉
『改作 桐一葉』
「淀君の仁左衛門持として選ばれたのだろうが、畜生塚の怪夢と、奥殿密訴の一幕二場だけでは、錦襴手の大鉢に、口替りをポッチリ盛った形で、箸をつける客のあっけなさよりも、盛つけをする板前の方が、脾肉の歎に堪えまいと察する。仁左衛門が柄に於いて、今での淀君役者であることに異存はない。」
(「演芸画報」昭和18年4月号)
4月 歌舞伎座(2日初日)
『團菊祭興行』
「伽羅先代萩」乳人政岡
「四季」五人囃子
「与話情浮名横櫛 源氏店の場」妾お富

「伽羅先代萩」乳人政岡
〈劇評〉
『伽羅先代萩』
「御殿と云っても、近頃の定式で栄御前のお入りからである。もう飯炊きなどは永久に見られないものか。(中略) 仁左衛門の政岡は無事の部」
『與話情浮名横櫛』
仁左衛門のお富はまだ極印とはゆかぬが、大分冷たい所がとれて、お富らしくなりかかっている。しかし多左衛門に『いい兄を持って仕合せだ』と云われ、恥ずかしそうにニッコリ笑って後を向くなどは考え違いだろうと思う。冷汗をかく氣持でなくてはなるまい。」
(「演藝画報 」昭和18年5月号)
4月18日、山本五十六、ソロモン上空で戦死
5月 歌舞伎座(3日初日)
『團菊祭延長興行』
「雪暮夜入谷畦道」大口屋三千歳
※5月1日、木炭や薪が配給制となる
5月29日、アッツ島日本守備隊全滅
6月 歌舞伎座(2日初日)
「源平布引滝 義賢最期」木曽先生義賢
「雪暮夜入谷畦道」大口屋三千歳

「源平布引滝 義賢最期」木曽先生義賢

「雪暮夜入谷畦道」大口屋三千歳
〈義賢最期の解説〉
「六月の歌舞伎座に珍しく『源平布引滝』義賢最期の場が出た。(中略)
爰(ここ)は昔もよく出た場であって、江戸時代には五代目の團蔵、鼻高の幸四郎、四代目の三津五郎などが大当りを取っている。大抵は実盛と替ったものである。今度の仁左衛門は大分写実でやっているが、赤姫や繻子奴の出る芝居なのだから、もっと時代なほうがいい。顔の糊紅なども要らない事だと思う。落入る時がこの役の見せ場で、大紋を広げてスックと立ち、ヒー、テンという笛と太鼓に合せて、棒倒れに倒れるのが型である。仁左衛門が今度の手本にした、中村信濃という人は、まともに三段の上へ倒れて鮮やかな落入りを見せたそうだが、それは一種のケレンであろう。なまじ倒れないほうが、却って古風に見える。私は昔、浅草の小芝居で、浅尾朝之正という女役者のやったこの役を見たが、その時は倒れないで、立ったまま幕を切り、可成りに悲壮味を出していた。この場は演出に依っては相当面白い効果があげられるのであるが、今度は中を大量に削った関係もあって、ひどく水ッぽい芝居になってしまった。」
(「演芸画報」昭和18年6月号 “歌舞伎保存断片 「布引瀧」の前後” 今谷久平 述)
〈回想談〉
「『義賢最期』はめったに出たものではなく、松尾国三さんの奥さんの市松延見子さんが巡業(たび)ででもなさったのでしょう、義賢にこまかい注文を出していらっしゃいました。多田蔵人が猿翁(※二代目猿之助)のおじさんでね。あのとき上演したから、この芝居も現仁左衛門さんが受け継いでいのちを保ったのですから、昔は小芝居でもいろいろなことを知っている人がいたのです。そのおかげで珍しい出し物も出していましたよ。九郎助は訥子さんでした。もう五十代でしたでしょう。太郎吉を前向きに背負って、九郎助も太郎吉もチャンチャンバラバラやりました。」
(「澤村田之助むかし語り~回想の昭和歌舞伎~ 六代目澤村田之助 著」)
◎10月号をもって「演芸画報」廃刊、11月1日より「東宝」「国民演劇」「演劇」「現代演劇」「宝塚歌劇」「演芸画報」の六誌を統合して「演劇界」を発刊。
「大東亜戦争も決戦段階に入り、日々苛烈な戦況を聞くに至った今日、すべてを戦力増強に集中すべきである事は論を俟ちません。今般演劇雑誌もこの国策に従い、統合する事にきまりました。 (後略)」
(「演芸画報」昭和18年10月号)
10月 歌舞伎座(1日初日)
「近江源氏先陣館 盛綱陣屋」後室微妙

「近江源氏先陣館 盛綱陣屋」後室微妙
11月 大阪 歌舞伎座(1日~25日)
「笠」小町
「仮名手本忠臣蔵 (三段目~七段目)」顔世御前、早野勘平
12月 南座 顔見世興行(1日~19日)
「小鍛冶」三条小鍛冶宗近
「花曇宵編笠」不破数右衛門