松井田宿を過ぎて、新堀地区で左へ折れてしばらく行くと、JR信越線の踏切に行き当たり、正面には妙義山が、いよいよはっきりと姿を見せます↑。
かつて旧道は、この製糸踏切を越えた先で坂を下り、碓氷川に沿って次の五料地区に入っていたようですが道が現存せず、しかし川のほとりの田んぼの中に、その名残りと思えなくもない細道はあったものの、真偽の判断がつきかねたので、資料が示す他の道筋に素直に従って、碓氷の関所 . . . 本文を読む
間の宿でもあった原市を過ぎ、簗瀬では部活帰りらしい地元の男子中学生が小さな声で「こんにちは」と挨拶をしながらすれ違い、郷原の手前で一度旧中山道を離れて、磯部温泉郷へ寄り道。
ここでお目当ての「足湯」(\0)↑に浸かってしばらく休憩してから、旧中山道に戻って再び次の松井田宿を目指します。
郷原地区↓まで来ると、
碓氷の山々に接近していることを更に実感、ひんやりとした空気となだらかな上り坂 . . . 本文を読む
安中宿は細長い高台の上に、ほぼ真っ直ぐに伸びるなだらかな坂道に整備された旅籠数17軒の小さな宿場で、幕末までの長きにわたって飯盛女(下級遊女)を置くことが認可されなかったこともあり、当時はかなり寂れていたそう。
安中宿を抜けると、隣りの原市地区にかけて、当時は日光街道の杉並木と並ぶ名所だったと云う安中杉並木となりますが、肝心の杉が戦後、時代の流れで枯死したために原市地区を除いて全て伐採され、現 . . . 本文を読む
板鼻宿を出るとすぐに碓氷川に差し掛かります。
ここにはかつて「碓氷川の渡し」があり、1747年(延享4年)に酒井雅楽頭が仮橋を架けるまでは徒渡(かちわた)り―肩車或いは蓮台に乗って川を渡ること―のみの通行だったそうで、現在の鷹之巣橋のすぐ右側が、当時の道筋です↑。
国道が開通して現在の位置に鷹之巣橋が架けられるまでは、旧中山道に橋が架かっていたらしく、旧道筋に当時のものと思われる赤煉瓦の橋桁が . . . 本文を読む
上豊岡町で国道18号線に合流すると、群馬県に唯一残る一里塚が左手に見えてきます↑。
資料によれば東西に残っていることになっているのですが、東側は後年、国道の拡幅工事で取り壊されたようで、現在では跡地に側面をコンクリートで固めた盛り土の上に浅間神社の祠が建っています。
上藤塚で左手に八幡宮参道の起点に建つ朱塗りの大鳥居を見、その先で古い石碑がそこになければ間違いなく素通りしたであろう「かねつ橋」 . . . 本文を読む
高崎宿は松平右京亮八万二千石の城下町、本陣脇本陣共に置かない宿場でしたが、一時、中心地の連雀町↑に本陣を置いたことがあるそうです。
連雀町とは、全国から連尺を背負って集まって来た行商人たちが、ここで商いをしたことに因んで付けられた町名。
かつてはかなり賑わった様子の高崎も、現在では人も交通量もまばらで、元気があるとは言い難い雰囲気。
連雀町の先、本町三丁目で左折し、本町一丁目の渋川街道と . . . 本文を読む
倉賀野宿を出ると左に浅間山古墳を見ながら歩き、倉賀野市上正六で右折して旧中山道を一旦離れ、三ヶ所の興味ある史跡が集まっている烏川沿いの佐野と云う地区を目指します。
歩くこと約10分、現在では鳥居の目の前を東北新幹線の高架が走るという、古えでは考えられない場所に、藤原定家を祀る「定家神社」はあります(写真上)。
この神社には、“定家流”の書体で書かれていることから本人自筆と伝えられている「在原 . . . 本文を読む
立石新田から烏川に沿った道を進むうち、市内循環バス「中島」バス停から28歩のところで右折、知らない人にとっては何の変哲もない、しかし確かに由緒ある道を100メートル程行くと、再び烏川の堤に行き当たります。
この堤を越えたところが、中山道二ヶ所目の渡し場、「柳瀬川の渡し」です。
川の名称は正しくは“烏川”なのですが、ここの箇所だけは何故か“柳瀬川”と呼んでいたようです。
ここは江戸中期まで渡し . . . 本文を読む
夏の間はお休みしていた旧中山道探訪、ようやく過ごしやすい陽気になってきたところで再開です。
埼玉県の次は、お隣り群馬県の旧中山道を辿ってみます。
神流川を渡ると再び国道17号線から分かれて、約1キロで上州(群馬県)最初の宿場、「新町宿」に入ります(写真上)。
ここが宿場として整備されたのは承応2年(1653年)と遅く、それまでは本庄宿を出たあと、途中から後年とは違う道筋を通って、次の倉賀 . . . 本文を読む
本庄宿は1590年代に整備が始まり、当初はわすが38軒の小さな宿場だったのが約300年後の天保年間、1814年には1212軒まで膨れ上がり、かなりの活気を呈してしたようですが、現在では↑のようにそれも昔語り、となっています。
↓は旧本陣の正門で、現在は旧街道より道を一本入ったところの歴史民俗資料館前に移築されています。
この旧宿場町では毎年11月2、3日に、町中を山車を曳いて廻る“本庄まつ . . . 本文を読む
深谷宿を出発して歩くこと約1時間20分、大里郡岡部町で国道17号線から離れ、やがて庚申塔を過ぎ、手書きの小さな標識がなければそのままの通り過ぎてしまいそうな細い道へ右折すると―それが正規の旧中山道、事実、資料の地図を見ていながら道を間違えて引き返しました…―、左手に「八坂神社」という小さなお社、その脇の坂を下っていると、左手の斜面に夥しい数の庚申塔が並んでいるのが目に入ります↑。
これを「百庚申 . . . 本文を読む
熊谷宿から歩くこと約2時間、途中歩道の無い区間で車がスレスレを通り過ぎて行く恐怖を味わいながらも、ようやく深谷宿の入口、「見返りの松」までやって来ました↑。
深谷宿は当時、商業だけでなく、中山道きっての色街としても有名で、翌朝旅人と遊女はこのあたりで別れを惜しんだことからその名が付いたとか。
国道17号線を渡って少し行くと、右手に宿場の入口を示す常夜灯が↓。
常夜灯から熊谷宿方面の歩道 . . . 本文を読む
熊谷宿をたって約30分、熊谷市石原176で国道17号線から離れると、やがて右手に一里塚が↑。
熊谷市新島に残る一里塚は、現在この東側のみで、西側は江戸時代にこの地域で大流行した疫病がインド伝来とも云われる“吃意摩多利神(きついまたりしん)”によって平癒したとの伝説を紹介した石碑と、件の石像がフェンスに囲われて建っています。
↓は一里塚からさらに行ったところの、玉井と云う地区で出会った木。
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熊谷は第二次大戦時の空襲で殆どが焼けた後に再建された街であるため、旧熊谷宿としての面影は全くありません。
かつて広大な面積を誇っていたと云う本陣も、現在では跡地の道端に標識があるのみです↑。
旧中山道は本陣を過ぎるとすぐに右へ緩くカーブするのですが、現在はその道筋の一部が潰されて「八木橋」と云う地元百貨店が建っています↓。
道筋通り店内のフロアーを突っ切って行くのも面白いな、と思ってい . . . 本文を読む
高崎線の跨線橋を渡ってその先に続く旧街道を進んでいると、堤防に行き当たります↑。
これが「熊谷堤」で、旧中山道はこの堤の上に続いています。
写真左手は「権八延命地蔵堂」。
その昔、白井権八がこの地蔵の前で人を斬り殺し、
地蔵に
「誰にも言うなよ」
と口止めしたところ、
「言わぬが、おぬしも言うな」
と返事をした、と云う伝説が。
ところが、これと同じ伝説が旧街道沿いの熊谷寄りにある地蔵にも伝 . . . 本文を読む