上信越道を越えた先のコンビニで小休止をした後、岩村田(いわむらた)宿へと入ります。
ここは内藤氏一万六千石の城下町と云う、おカタイ宿場町だったこともあって、殆どの旅人が泊まらずに素通りしたとか。
また本陣も脇本陣も置かない宿場でしたが、地元の方の話しでは、「法華堂さん」↓が本陣の代わりをつとめたことがあったそう。
しかし資料では武田信玄の遺骨が安置されている「龍雲寺」と云うことになってお . . . 本文を読む
「追分の分去れ」から約50分ほど歩いた地点より右手へ入った畑の中にあるのが、「御代田(みよた)一里塚」↑。
なぜ街道から離れた場所にあるのかよく分かりませんが―道筋変更でもあったのかな?―、ここもちゃんと東西ペアで残っています。
ちなみに西側の塚のある場所は、現在は民家の敷地内となっていて、白壁の家の左側に見えるのが、それです。
一里塚に植えられるのは普通は榎ですが、この御代田一里塚に植えら . . . 本文を読む
やたら交通量の多い借宿地区の先で再び国道18号線に合流すると緩い上り坂となり、東西に残る一里塚を過ぎて今度は下り坂に入ると、旧道は右手へ逸れて、ここから追分宿に。
追分宿はその名の通り、北国街道との分岐点にあたる宿場で、飯盛女(下級遊女)の数も多く、夜になるとかなりの賑わいを見せたそうですが、そんな“オトナのオトコの夜の町”も今は昔、現在では上段写真のように真っ暗闇で、当時を偲ぶことは出来ません . . . 本文を読む
ちなみに沓掛には、しなの鉄道「中軽井沢」 駅を挟んだ間反対に“旧旧中山道”の道筋が現存↑、「宮之前一里塚」↓がその事実を証明しています。
さて、沓掛宿を過ぎると旧道は国道18号線から離れ、その南側をほぼ並走するような形で、次の追分宿の手前まで進みます。
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現在は旧軽井沢と呼ばれている軽井宿を過ぎると、いかにも別荘地らしい木立のなかを旧中山道は進み↑、離山という地区でかつてのJR信越線である“しなの鉄道”と並走する国道18線に行き当たると、そのままクロスするのが本来の道筋ですが、クロスした先にあるはずの道が空地と雑木林で完全に消滅しているため、少し先にある中学校前の踏切を渡り、ほぼそこから再び続く道筋をしばらく進み、しなの鉄道のガードを潜って再び国道 . . . 本文を読む
一夜を共にした旅人と遊女は、矢作川に架かるこの橋↑で名残を惜しみつつ二手に別れて行った、と云うことから名付けられた「二手橋(にてはし)」は、いわば軽井沢宿の日本橋側の入口のようなもの。
従って二手橋を碓氷峠越えの終点と見做し、坂本宿から約4時間30分、どうやらクマにも出会わさず無事に越えられたわえ、とクマ除け用の小型ラジオを仕舞い、橋の傍のベンチで一息つき、悪路から足を護ってくれたトレッキングシ . . . 本文を読む
崩落同然の箇所を「えいっ」と駆け上がると、その先が別荘地帯となっているためか、すぐに整備された砂利道の下り坂となりますが、しばらく行くうちに右手の雑木林に残る道へと入り、間もなく沢を渡り(写真↑)、斜面に痕跡を留めている、と言った方が当たっているような↓、
しかし確かに京と江戸とを結ぶ幹線道路であった道筋を歩むうちに車道に合流、↓
ここへ出られればもう大丈夫、豊かな木立のなかに伸びる道 . . . 本文を読む
次は、碓氷峠の下りから始まる、長野県内の旧中山道を歩いてみます。
次の軽井沢宿への下り道は、資料では後年に拓かれた車道を行くか、或いは大正時代に拓かれたハイキングコースを通行することを薦めていますが、下り坂に入って間もなく右へ曲がる地点のすぐ正面には、かろうじて残る旧道(上段写真)が。
現在では通行不能の廃道とされていますが、資料によれば、全く歩けないわけでもない様子。
この企画(?)の主 . . . 本文を読む
施行所を過ぎると、草深く勾配のきつい古えの峠道をそのまま現代に伝える「長坂道」↑を、途中で足を滑らしてコケながらも何とか上りきり、その先、陣場ヶ原で分岐した和宮&明治天皇通行路と合流して更に行くと、道が土からアスファルトになり、坂本宿から峠越えに入って約2時間35分、ようやく頂上の「熊野神社」に到着。
ひんやりとした空気の曇天に立ち込める霧が、何となく神秘的な雰囲気を醸し出していました。
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「入道くぼ」の先、十三軒の茶屋のほかに学校もあったという集落の跡、「山中茶屋跡」に人の生活があったことを確かに感じ取り、古えの旅人たちはこの茶屋で腹拵えをしてから上ったと云うのも尤もな急坂、「めし喰い坂」↑を歯を食いしばって上るうち、老婆がこの辺りで旅人達を悩ましたと云う「一つ家跡」を過ぎ、やがて和宮降稼の際に拓かれ、明治11年には明治天皇が御巡幸の際に通行した道との分岐点、「陣場が原分岐」↓で、 . . . 本文を読む
「座頭ころがし」を過ぎてしばらく行ったところで、何故か道端に、不法投棄と思われる車が↑。
とても車が通行出来るような道でないだけに、所有者の神経そのものより、どうやってここまで?という疑問の方が先に立ちました。
やがて、群馬県内の峠道のほぼ中間点に位置する、「栗が原」に。
ここは明治11年に明治天皇が馬車で巡幸した際に拓かれた“明治天皇道”との分岐点にあたり↓、
右側がその道でしたが . . . 本文を読む
南と北の座頭観音像の前を通り過ぎると、また石がゴロゴロしている急坂、「座頭ころがし」に差し掛かりますが、その手前で、江戸初期まで存在していた“東山道”―すなわち“旧旧中山道”―の一部を発見↑。
試しに辿ってみることにしたものの、現在では廃道になっているため、↓のように枯れて腐った倒木だらけで歩きにくい状態でしたが、
構わず進むうち、「座頭ころがし」の坂上辺りに出たので、
そこで斜面を . . . 本文を読む
覗を過ぎると、石ころは姿を消すので急坂でもいくらか歩きやすくなり、その昔弘法大師空海が掘り当てたと云う井戸、“弘法の井戸”の脇を上がると-冷たい水が現在も満々と湛えられていました-、一気に道は平坦になります。
その右手の草むらに残されている石垣は(上段写真)、かつて四軒の茶屋があった“立場(たてば)”の跡。
力餅や、わらび餅が名物だったそうで、ここに人が確かに存在していた在りし日に、思いを馳せ . . . 本文を読む
上州サイドから入る碓氷峠道は、“はね石坂”↑と言う、石がゴロゴロしたけっこうキツイ急坂から始まり、いきなり峠越えの洗礼を受ける感じ。
道幅も人が一人通れる程度にまで狭まり、明治に入って新道や鉄道が開通して交通量が激減し寂れた結果とは言え、これが京と江戸を結ぶ幹線道路なのかと、けっこうショッキングなものがあります。
時には↓のような、
どこが道なのか分からない、殆ど斜面のような箇所もありま . . . 本文を読む
JR信越線の横川駅の前を過ぎ、現在もその子孫の方が住む茶屋本陣を過ぎてしばらく行った先の右手に、「碓氷関所」跡が↑。
石段を上がったところに見える門は東門と云い、かつては街道の東寄り、つまり撮影地点より後方の場所に実際にあったもので、昭和35年に東大教授の手によって、現在の場所に移築復元されたもの。
碓氷関所の歴史はとても古く、醍醐天皇の御代899年(昌泰2年)に、群盗を取り締まるため碓氷山中 . . . 本文を読む