東餅屋跡から和田峠の頂上までは、↑のように“ビーナスライン”を何度か横切りながら進むことになります。
木立に覆われた相変わらずキツイ勾配を上ること約15分、一気に視界が解放されて、和田峠の頂上に到着。
残しておいた力餅を口にした時の、あの美味さといったら!
ここからは下り坂。
残りの道を、下諏訪宿へと急ぎます。
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施行所を出発して約30分後、坂の途中に現れたのが「広沢一里塚」↑。
簡単な絵図入りの道中記以外にあまり情報が無かった古えの旅人たちにとって、いま自分はどれくらいの距離を旅しているのかを知る上で、一里塚がいかに頼もしい存在であったか、私もここまで旅を重ねて、だんだんと実感出来るように。
私の足で、1時間でだいたい4キロ。
一里塚(跡)を見れば、時計を見なくてもだいたいの所要時間が分かるようにな . . . 本文を読む
木立を抜けて国道に合流した途端、辺りの視界がパッと開けて、目の前には茶屋らしき建物が↑。
これは「接待茶屋」、或いは「永代人馬施行所」と云って、江戸は呉服町の豪商かせや与兵衛が、旅人たちの休憩施設として文政11年(1828年)に設けたもの。
ここでは旅人に粥を、荷物を運ぶ牛馬には煮麦を振舞ったそうで、明治3年(1870年)にその役目が終わった後も、数十年前まではかせや与兵衛の子孫にあたる老夫婦 . . . 本文を読む
唐沢一里塚を過ぎると再び国道142号線に合流し、約20分歩くと新和田トンネル有料道路との分岐点である男女倉(おめぐら)口↑、そこを右に折れて進むと、和田峠越えの古道の入口が↓。
さて…、と覚悟して足を踏み入れたものの、何しろ中山道最大の標高差1600メートルの和田峠、延々と続く上り坂に、
上りはじめてたったの20分で心身共にかなりキツくなってきたところ…。
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「扉峠口」バス停前を出発、依田川を渡り、唐沢地区で右カーブの上り坂に入ると、右に見えてくる別れ道が江戸後期頃からの旧中山道。
上段写真の、左に伸びている未舗装の坂が、江戸後期頃までの“旧旧中山道”。
もちろん、天保2年(1831年)には廃止となっている―この年に作成された絵図面には既に描かれていないため―こちらの道に、進路をとります。
坂を上り、森の中に残る道筋を辿るうち、
東西共にほ . . . 本文を読む
和田宿は東からの旅人が目前の和田峠越えに備えた宿場として、西からの旅人が無事に和田峠を越えてホッと息をついた宿場として、そして参勤交代の大名が必ず泊まった宿場として、大いに繁盛していました。
しかし、皇女和宮の宿泊が既に決まっていた文久元年(1861年)3月10日、一軒の民家から出た失火が瞬く間に宿場の大半を舐め尽くし、
「これじゃとても、和宮さんをお迎え出来ないんで…」
と幕府に一行の宿泊地変 . . . 本文を読む
新米の朝食をありがたくいただき、ちょっと小池百合子氏似の女将さんと(気を悪くされたらごめんなさい!) 、娘さんと、その小さな息子さんに別れを告げて濱田屋旅館を出発、山々に朝霧のかかるなか、長久保宿から約8㌔先の、和田宿を目指します。
宿場を出たすぐ先の、資料上では現存していないことになっている旧道筋(写真上段)を経て国道142号線に合流、歩行スペースが無いため左側の土手上の農道を通り、四泊落合( . . . 本文を読む
笠取峠を下ること約40分、ようやく長久保宿に到着。
旅籠数が最盛期で43軒と、信州の中山道では塩尻宿の75軒に次ぐ数を誇る、かなり繁盛していた宿場であったことは、今も数多く残る当時の建物からも窺えます。
また、旧本陣(上段写真右手)のある坂道に位置する竪町と、坂下の平地に位置する横町とがL字形に接する、宿場町の旧い形態をそのまま残していることも特徴で、その接点の内側の角にあるのが、当時43 . . . 本文を読む
次の長久保宿へ向かうには、笠取峠を越えて行かなくてはなりません。
その峠道の芦田宿側には、1604年(慶長9年)に徳川秀忠が小諸藩に命じて753本の赤松を約2㌔にわたって植えさせたと云う「笠取峠松並木」が、現在も半分の約1㌔残っています(写真上段)。
松並木を抜けると国道142号線に合流、思ったより勾配がきつくないことにホッとしながら、頂上を目指します。
約30分後、立科町と長和町の境 . . . 本文を読む
通行の妨げとなっていた大きな石を割って道を拓いたと云う「石割坂」なる急坂を、また坂かい…と半ばウンザリしながら上り、町文化財のわりには整備のし過ぎでいかにも再現然としている一里塚跡↑を通って茂田井間の宿を抜け、ほんの10分ちょっと歩いたところで、芦田宿に到着。
ここは子孫の方が現在も住んでおられる旧本陣がそのまま残り(中段写真の右手)、また当時“つちや”という屋号だった旅籠が、「金丸土屋旅館 . . . 本文を読む
望月宿は8月の満月の日に馬を朝廷へ献上していたことからその地名が付いたと云われ、その歴史は飛鳥時代にまで遡れるそうです。
古い建物が当時の雰囲気をよく伝えている、この鹿曲川沿いの旧宿場町を過ぎると、再び山を越えて行くべく上り坂が続き、
ようやく下り坂となってホッとしていると、望月宿から僅か40分、当時の休憩施設“間の宿”の、茂田井(もたい)宿に差し掛かります。
そのまま時代劇のロケに . . . 本文を読む
祝言道祖神の前を横切る国道142号線を渡り、その先に続く旧道を少し行くと、右手の民家の前に、かなり初期に建てられたと見える「右 中山道」の道標が。
その右脇には民家の私有地のような草道が伸びており、但し私有地ではなかったのでそのまま進むと、次の望月宿へと通じている「瓜生坂」の上り口と思われる場所に(写真上段)。
坂を上がった先の道筋が一部消滅しているため、旧国道を迂回し、旧中山道の前身とも言 . . . 本文を読む
八幡宿は隣りの塩名田宿との間がわずか3㌔と、中山道で最も距離が短いところにある宿場で、所要時間にして約30分。
皇女和宮が宿泊したかつての宿場も、今では旧本陣の門(上段写真の右手)にその面影を僅かに残すのみの静かな静かな町、宿場を抜けたところで合流した国道142号線とは、約10分行った百沢地区で再び分かれ、
いかにも旧道らしい、なかなか雰囲気のあるエリアをしばらく行くと、左への緩いカーブの . . . 本文を読む
塩名田宿の西端、千曲川に接する辺りは“河原宿”と呼ばれ、現在も当時の風情が残っています。
ここから橋で向こうへと渡るのですが、この千曲川、よく洪水を起こしてはその度に橋を押し流してしまう、まさに住民泣かせ旅人泣かせ川でした。
江戸時代までは幕府が再建の資金援助をしていましたたが、維新後は明治6年に当時の民間企業が“船橋”を渡し、有料で交通の便を図るようになりました。
船橋―この記事の第28回 . . . 本文を読む
塩名田(しおなた)宿はそのすぐ先を流れる千曲川が増水して“川留め”になった際、旅人たちの逗留地として機能した宿場で、そのために本陣も二軒ありましたが(写真↑の右手がそのうちの一軒)、平常時は泊まる人が少ないために寂れた雰囲気だったようで、江戸期の道中記も、『わびしき所也』『宿あしし』と、好意的には書いていません。
しかしそんな塩名田が、明治30年代より一大花街として栄華を極めた時期があります。
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