
新米の朝食をありがたくいただき、ちょっと小池百合子氏似の女将さんと(気を悪くされたらごめんなさい!) 、娘さんと、その小さな息子さんに別れを告げて濱田屋旅館を出発、山々に朝霧のかかるなか、長久保宿から約8㌔先の、和田宿を目指します。
宿場を出たすぐ先の、資料上では現存していないことになっている旧道筋(写真上段)を経て国道142号線に合流、歩行スペースが無いため左側の土手上の農道を通り、四泊落合(よとまり おちあい)の一里塚跡より国道の右側に半円形に残る旧道を経て、大門川と依田川を渡り、依田川を西側に沿って続く旧道を進むうち、左手に「三千僧接待碑」が。

地元の人が一千人の僧に食事を振る舞ったことを記念して、もともとはこの先の和田宿エリアにある定信寺に建立したもの。
その後、更に人目に触れられるようにと、この地へ移したのだとか。
このことからも分かるように、もともと“一千”と彫ったものを、更に二千人の僧に振る舞いたいと云う願いから、事前に“二”を彫り足して、合計の“三千”とした、と云う経緯がこの石碑にはあります。
脇に立つ案内板には、『後から“二”を足したことは、表面を見れば明らかである』みたいなことが書かれていましたが、石碑自体がかなり古いこともあって、私には見分けがつきませんでした。
それより気になるのは、この地元の人は果たして、二千人の接待を達成できたのかどうか…?
さらに20分ほど歩くと、武田信玄に敗れて自害した和田城主・大井定信父子が葬られていると云われる「若宮八幡宮」のすぐ傍に、突然↓のような、道の反対側に通じている地下道の入口が。

東側を流れる依田川の向こうを走る国道142号線と違って、車の通行が殆どないこの山間の旧道に、こういったものがあるのを何とも不思議に思いましたが、現在はこの先の和田小学校と中学校の通学路となっていることから、どうやら子どもたちの安全のために設けられたもののようです。
おそらく、国道が開通する以前、この旧道がまだ主要道路だった頃につくられたのでしょう。
地下道の壁面には、和田小学校平成4年度卒業生たちの手による、土地の草花の絵が描かれていましたが、蜘蛛の巣が頭上スレスレまで張り巡らされ、主がこちらに睨みを利かせていたり、電灯にたかっていたムシの死骸が足元に散らかっているあたり、いかにも…、といった感じでした。
すぐ先、真新しい石碑がその位置を伝えている上組一里塚跡を通り、芹沢地区のあたりから狐坂を上ると、長久保宿から1時間40分、和田宿入口の石碑が見えてきます。
宿場を出たすぐ先の、資料上では現存していないことになっている旧道筋(写真上段)を経て国道142号線に合流、歩行スペースが無いため左側の土手上の農道を通り、四泊落合(よとまり おちあい)の一里塚跡より国道の右側に半円形に残る旧道を経て、大門川と依田川を渡り、依田川を西側に沿って続く旧道を進むうち、左手に「三千僧接待碑」が。

地元の人が一千人の僧に食事を振る舞ったことを記念して、もともとはこの先の和田宿エリアにある定信寺に建立したもの。
その後、更に人目に触れられるようにと、この地へ移したのだとか。
このことからも分かるように、もともと“一千”と彫ったものを、更に二千人の僧に振る舞いたいと云う願いから、事前に“二”を彫り足して、合計の“三千”とした、と云う経緯がこの石碑にはあります。
脇に立つ案内板には、『後から“二”を足したことは、表面を見れば明らかである』みたいなことが書かれていましたが、石碑自体がかなり古いこともあって、私には見分けがつきませんでした。
それより気になるのは、この地元の人は果たして、二千人の接待を達成できたのかどうか…?
さらに20分ほど歩くと、武田信玄に敗れて自害した和田城主・大井定信父子が葬られていると云われる「若宮八幡宮」のすぐ傍に、突然↓のような、道の反対側に通じている地下道の入口が。

東側を流れる依田川の向こうを走る国道142号線と違って、車の通行が殆どないこの山間の旧道に、こういったものがあるのを何とも不思議に思いましたが、現在はこの先の和田小学校と中学校の通学路となっていることから、どうやら子どもたちの安全のために設けられたもののようです。
おそらく、国道が開通する以前、この旧道がまだ主要道路だった頃につくられたのでしょう。
地下道の壁面には、和田小学校平成4年度卒業生たちの手による、土地の草花の絵が描かれていましたが、蜘蛛の巣が頭上スレスレまで張り巡らされ、主がこちらに睨みを利かせていたり、電灯にたかっていたムシの死骸が足元に散らかっているあたり、いかにも…、といった感じでした。
すぐ先、真新しい石碑がその位置を伝えている上組一里塚跡を通り、芹沢地区のあたりから狐坂を上ると、長久保宿から1時間40分、和田宿入口の石碑が見えてきます。