木立を抜けて国道に合流した途端、辺りの視界がパッと開けて、目の前には茶屋らしき建物が↑。
これは「接待茶屋」、或いは「永代人馬施行所」と云って、江戸は呉服町の豪商かせや与兵衛が、旅人たちの休憩施設として文政11年(1828年)に設けたもの。
ここでは旅人に粥を、荷物を運ぶ牛馬には煮麦を振舞ったそうで、明治3年(1870年)にその役目が終わった後も、数十年前まではかせや与兵衛の子孫にあたる老夫婦が実際にお茶などを出していたようですが、現在では復元らしき竃を残すのみの、無料解放スペースとなっています。
そこで私も、中に入って腰を掛けて、和田宿で調達したパンをかじりながら、しばしの休憩タイム。
ここは国道を行く長距離トラックの運転手さんたちの大切な休憩所でもあるらしく、殆どの人が茶屋の前の駐車用広場にトラックを停めて、広場脇の水道の蛇口から滔々と流れ出る水をポリタンクに詰めながら一息ついている様子が窺えました。
私もすっかり空になったペットボトルに冷たい水を詰めていると、常連らしい運転手さんが、「ここは最近水が出なくなり、それでも今日はダメもとで来てみたら再び水が出ているので驚いた」、と話してくれました。
どうやらツイていたようです。
休憩したお陰ですっかり気力体力を取り戻し、古えの旅人たちもここでどれだけ助けられた思いをしたことだろう…、と今なお現役の休憩所に感謝して、再び山中の旧道へ。
苔むした石畳の道に何度か滑りそうになりながら、
峠の頂上を目指します。
これは「接待茶屋」、或いは「永代人馬施行所」と云って、江戸は呉服町の豪商かせや与兵衛が、旅人たちの休憩施設として文政11年(1828年)に設けたもの。
ここでは旅人に粥を、荷物を運ぶ牛馬には煮麦を振舞ったそうで、明治3年(1870年)にその役目が終わった後も、数十年前まではかせや与兵衛の子孫にあたる老夫婦が実際にお茶などを出していたようですが、現在では復元らしき竃を残すのみの、無料解放スペースとなっています。
そこで私も、中に入って腰を掛けて、和田宿で調達したパンをかじりながら、しばしの休憩タイム。
ここは国道を行く長距離トラックの運転手さんたちの大切な休憩所でもあるらしく、殆どの人が茶屋の前の駐車用広場にトラックを停めて、広場脇の水道の蛇口から滔々と流れ出る水をポリタンクに詰めながら一息ついている様子が窺えました。
私もすっかり空になったペットボトルに冷たい水を詰めていると、常連らしい運転手さんが、「ここは最近水が出なくなり、それでも今日はダメもとで来てみたら再び水が出ているので驚いた」、と話してくれました。
どうやらツイていたようです。
休憩したお陰ですっかり気力体力を取り戻し、古えの旅人たちもここでどれだけ助けられた思いをしたことだろう…、と今なお現役の休憩所に感謝して、再び山中の旧道へ。
苔むした石畳の道に何度か滑りそうになりながら、
峠の頂上を目指します。