またまた読みづらくてスマンが、昨日の続き。
1800年というから家斉の時代。ロシアが国防上の脅威となり蝦夷の開拓と防備の必要が急務となった。アンテナ高くアップトゥーデイトな八王子の千人同心は蝦夷地行きを志願して許された。この件に関しオットセイ将軍が関知したかどうかは調査中。
結果的には千人同心の蝦夷地入植は失敗。現在北海道の苫小牧には記念碑が有るとのこと。
千人同心から千人隊へ
さて幕末、尊王攘夷の風が吹きまくるなか、かつて家康に命を拾われた千人同心は当然佐幕派。近代装備を身につけ西洋式の訓練を命じられた。戦国最強の武田軍の子孫とはいえ西洋式練兵は一朝一夕に会得出来るものではなかったようで『井伊殿の自慢の赤備えなれど』と嘲笑する人もいたようである。
そして慶応四年(1868年)、幕府の兵制改革により「千人同心」は「千人隊」と改称された。
しかしどうやら佐幕と言えど武闘派の新撰組とかとは違い、インテリハト派だった千人隊は家康様の日光東照宮が戦火によって灰燼に帰する可能性を憂慮し、官軍に不戦を通知して八王子に引き上げます。そして日光火の番の大役を全うした千人隊は解体されるのであります。
今宵はここまでにいたしたいと思います。
1800年というから家斉の時代。ロシアが国防上の脅威となり蝦夷の開拓と防備の必要が急務となった。アンテナ高くアップトゥーデイトな八王子の千人同心は蝦夷地行きを志願して許された。この件に関しオットセイ将軍が関知したかどうかは調査中。
結果的には千人同心の蝦夷地入植は失敗。現在北海道の苫小牧には記念碑が有るとのこと。
千人同心から千人隊へ
さて幕末、尊王攘夷の風が吹きまくるなか、かつて家康に命を拾われた千人同心は当然佐幕派。近代装備を身につけ西洋式の訓練を命じられた。戦国最強の武田軍の子孫とはいえ西洋式練兵は一朝一夕に会得出来るものではなかったようで『井伊殿の自慢の赤備えなれど』と嘲笑する人もいたようである。
そして慶応四年(1868年)、幕府の兵制改革により「千人同心」は「千人隊」と改称された。
しかしどうやら佐幕と言えど武闘派の新撰組とかとは違い、インテリハト派だった千人隊は家康様の日光東照宮が戦火によって灰燼に帰する可能性を憂慮し、官軍に不戦を通知して八王子に引き上げます。そして日光火の番の大役を全うした千人隊は解体されるのであります。
今宵はここまでにいたしたいと思います。
昨日はいつのまにか寝てしまったのでスマソm(_ _)m
不思議不思議。
デジャビュー自分も感じました。でも、このブログでは無かったですよね?あれれ、不思議なことになりました・・・学生の頃?それとも前世?
不思議っすね~
でも、どうして?
あれ?デジャビュー?以前もこんな会話がありましたか?ウ~ン?
ところで、どうして地方のラジオ番組を知っているのですか?