子育てというものは、本当に大変です。
少なくとも私はいつもそう思っています。
長女のミドリは、今でこそ大人し目の少女に成長していますが、小さい頃は結構気が強く(昔の私に似ているらしい)
頑固で育てにくいな~と感じていました。
でも、それも個性であり、だからこそ彼女は忍耐強くバレエも練習し勉強も真面目にこなして来たのだなと感じます。
さて、本題です。
家の次女ですが。
まあ、これがその、あれですよ。
ずっとブログをお読み下さっている方はご存知かと思いますが…発達障害なのではないかと感じたのが3歳児4歳児の頃。
とにかく保育園での様子が、少し他の子供と違っていたという所からです。
お友達と同じように遊ばないようでした。
それまでは目立って何かが有るほどの差はなかったものの、
まあ、ちょっと変わった子ではあったのだと思います。
例えば、保育園でお昼寝をすることがなかなか出来なかったのですが、
ある時から毎日グスグスと泣くようになり、丁度年配の担任が情緒の事など詳しい慣れた先生だったので毎日きちんと相手をして下さっていました。
少ししてから親は聞きました。
家での様子は、まあ、とにかく良く動くし超やんちゃ。そして高い所に登りたがる傾向がありました。
何をするか分からない年頃でもあったので、本当に男の子並みに目が離せないという感じでした。
それでも慣れている保育園での生活だったので、卒園まで色々ありながらも過ごしました。
親友と言える位、今でも仲良しのお友達もいました。
ただ…初めての場所が怖い。不安。これは強くなっていく感があり…
小学校を決める様々な調査の段階で「普通級」か「支援学級」か迷いに迷いました。
この1年間も相当な労力と心力を使いましたね。
出した答えは「支援学級」。最終的に、教育委員会が出した案も同じでした。
この委員会のやり方には色々意見があるところなのですが、ま、今それは良いです。
就学前の子供には、療育という制度があり指導を受ける事が出来ました。
1年半くらいハナも通いました。しかし、グループワークには入れなかったので
個別に臨床心理士の女性と週に一度授業が行われていました。
そして何より、保育園の卒園式が問題でした。
皆の前で何かをするのが極度に苦手なのです。たまたま年度末の発表会のない園だったのは幸いだったのか慣れずに来てしまったのが良くなかったのか分かりませんけど。
卒園式を無事に終えられるかどうか、全く予想もつかない状態でした。
運動会も然りなので。
卒園式の練習は、何なくこなしている、と先生からの報告は受けてはいたものの、
いつもそうなのです。練習は出来るのです。運動会の踊りも競技も普段のメンバーの中でなら出来ていました。
でも、環境が変わったり普段いない父兄がいる場面になるとだめでした。
それが分かっていたので、担任も私も最後には成り行きに任せましょうという事になっていたのです。
本番、結局は入場は一人で出来ましたが、
途中で声が出せなくなったり、歌も歌わず座っていたり…そんな様子でした。
一番の山場は、一人ずつ親に向かってスピーチをする所。
さてどうなることかと様子をみる私自身が、多分一番鼓動が高まっていたかもしれません。
いえ、一番つらかったのはハナですね。
やはり自分の発表の時には泣いてしまいました。
そして、準備した通り、その部分は先生が言って下さいました。
その時、先生は泣かれていました。
ハナが頑張っていた事もすべて分かっていての涙だったのだと思います。
その涙に他の父兄も泣いている方が多かったです。
その場面でのハナの気持ちを考えると、「無理させたかな。」とも感じました。
こんな感じだったので、入学式もご想像通りだった訳です。
1年生入場は、抱っこしていました。
身体的に何の問題もないのに…です。
そこから、現在の学校での生活が始まりました。
そして担任になってくれた先生との出会いの時でもありました。
紆余曲折という言葉がピッタリな、情緒の安定しない子供の生活。
年配の担任が言いました。
「後5年の教師生活を考えた時に、大勢の人数を扱うよりも、一対一で向き合いたいと思ったんです。
自分の教師人生に誇りを持つためにも、どうしようかと考えて、支援学級教諭の道を選択しました。」
そしてその通り、一生懸命に取り組んで下さっています。
それでも、枠にはめた学校の授業や体制は、家のハナにとってはどうなのか…という部分がありました。
もちろん本人の問題もあるでしょう。
出来ることと出来ない事に差があるという部分で言うと、なにかしらの障害名を付けられてしまうかもしれません。
でもこれを個性という場合もあるという事です。
簡単に診断名をつけてしまう事に幸いにも私の周りの方は反対意見が多かったので、未だに娘はボーダーです。
ただし、スムースな学校生活を送れているかと言うと…そうとも言えないのです。
日々、先生との葛藤があるようで…それでも受け入れて対処して下さる先生方なのです。
どうしても学習面が気になり始めて、私はあるセラピーを受けさせる事にしました。
2年生になってからの事です。ここで若い男性臨床心理士と出会ったのです。
(…つづく)
少なくとも私はいつもそう思っています。
長女のミドリは、今でこそ大人し目の少女に成長していますが、小さい頃は結構気が強く(昔の私に似ているらしい)
頑固で育てにくいな~と感じていました。
でも、それも個性であり、だからこそ彼女は忍耐強くバレエも練習し勉強も真面目にこなして来たのだなと感じます。
さて、本題です。
家の次女ですが。
まあ、これがその、あれですよ。
ずっとブログをお読み下さっている方はご存知かと思いますが…発達障害なのではないかと感じたのが3歳児4歳児の頃。
とにかく保育園での様子が、少し他の子供と違っていたという所からです。
お友達と同じように遊ばないようでした。
それまでは目立って何かが有るほどの差はなかったものの、
まあ、ちょっと変わった子ではあったのだと思います。
例えば、保育園でお昼寝をすることがなかなか出来なかったのですが、
ある時から毎日グスグスと泣くようになり、丁度年配の担任が情緒の事など詳しい慣れた先生だったので毎日きちんと相手をして下さっていました。
少ししてから親は聞きました。
家での様子は、まあ、とにかく良く動くし超やんちゃ。そして高い所に登りたがる傾向がありました。
何をするか分からない年頃でもあったので、本当に男の子並みに目が離せないという感じでした。
それでも慣れている保育園での生活だったので、卒園まで色々ありながらも過ごしました。
親友と言える位、今でも仲良しのお友達もいました。
ただ…初めての場所が怖い。不安。これは強くなっていく感があり…
小学校を決める様々な調査の段階で「普通級」か「支援学級」か迷いに迷いました。
この1年間も相当な労力と心力を使いましたね。
出した答えは「支援学級」。最終的に、教育委員会が出した案も同じでした。
この委員会のやり方には色々意見があるところなのですが、ま、今それは良いです。
就学前の子供には、療育という制度があり指導を受ける事が出来ました。
1年半くらいハナも通いました。しかし、グループワークには入れなかったので
個別に臨床心理士の女性と週に一度授業が行われていました。
そして何より、保育園の卒園式が問題でした。
皆の前で何かをするのが極度に苦手なのです。たまたま年度末の発表会のない園だったのは幸いだったのか慣れずに来てしまったのが良くなかったのか分かりませんけど。
卒園式を無事に終えられるかどうか、全く予想もつかない状態でした。
運動会も然りなので。
卒園式の練習は、何なくこなしている、と先生からの報告は受けてはいたものの、
いつもそうなのです。練習は出来るのです。運動会の踊りも競技も普段のメンバーの中でなら出来ていました。
でも、環境が変わったり普段いない父兄がいる場面になるとだめでした。
それが分かっていたので、担任も私も最後には成り行きに任せましょうという事になっていたのです。
本番、結局は入場は一人で出来ましたが、
途中で声が出せなくなったり、歌も歌わず座っていたり…そんな様子でした。
一番の山場は、一人ずつ親に向かってスピーチをする所。
さてどうなることかと様子をみる私自身が、多分一番鼓動が高まっていたかもしれません。
いえ、一番つらかったのはハナですね。
やはり自分の発表の時には泣いてしまいました。
そして、準備した通り、その部分は先生が言って下さいました。
その時、先生は泣かれていました。
ハナが頑張っていた事もすべて分かっていての涙だったのだと思います。
その涙に他の父兄も泣いている方が多かったです。
その場面でのハナの気持ちを考えると、「無理させたかな。」とも感じました。
こんな感じだったので、入学式もご想像通りだった訳です。
1年生入場は、抱っこしていました。
身体的に何の問題もないのに…です。
そこから、現在の学校での生活が始まりました。
そして担任になってくれた先生との出会いの時でもありました。
紆余曲折という言葉がピッタリな、情緒の安定しない子供の生活。
年配の担任が言いました。
「後5年の教師生活を考えた時に、大勢の人数を扱うよりも、一対一で向き合いたいと思ったんです。
自分の教師人生に誇りを持つためにも、どうしようかと考えて、支援学級教諭の道を選択しました。」
そしてその通り、一生懸命に取り組んで下さっています。
それでも、枠にはめた学校の授業や体制は、家のハナにとってはどうなのか…という部分がありました。
もちろん本人の問題もあるでしょう。
出来ることと出来ない事に差があるという部分で言うと、なにかしらの障害名を付けられてしまうかもしれません。
でもこれを個性という場合もあるという事です。
簡単に診断名をつけてしまう事に幸いにも私の周りの方は反対意見が多かったので、未だに娘はボーダーです。
ただし、スムースな学校生活を送れているかと言うと…そうとも言えないのです。
日々、先生との葛藤があるようで…それでも受け入れて対処して下さる先生方なのです。
どうしても学習面が気になり始めて、私はあるセラピーを受けさせる事にしました。
2年生になってからの事です。ここで若い男性臨床心理士と出会ったのです。
(…つづく)