見出し画像

あみの3ブログ

上平寺城@滋賀県米原市上平寺 令和四年(2022)7月2日

お城検索は→こちら

【上平寺城】
戦国大名京極髙清が山麓に京極氏舘や城下町を整備した際、戦いに備えて「詰の城」として築きました。その後、元亀元年(1570)には、浅井長政が織田信長の侵攻を阻止するために、朝倉氏の援助を受けて改修しています。

京極氏は、仁治2年(1241)に近江守護佐々木信綱の四男氏信が、愛知川以北六郡を与えられたのが始まりです。当初、近江における拠点は柏原舘(米原市清滝)でしたが、戦国時代の幕開けとなった応仁文明の乱(1467~77)以降、北近江の戦国大名として歩み始め、これに伴って舘とか新屋敷を整備したのがここの「京極氏舘」です。
 永正2年(1505)長く続いていた一族の内紛を日光寺(米原市日光寺)の講和で収めた京極髙清は、山岳寺院上平寺があったこの場所を利用して居館を築きます。伊吹神社境内全域が京極氏舘跡で、庭園を伴った京極氏の住まいや屋敷跡、隠岐屋敷や弾正屋敷と言った家臣団の屋敷が立ち並んでいたようです。
 「上平寺城絵図」からは、内堀を挟んで館の南、現在の上平寺集落に武家屋敷や町屋敷や、さらに外堀があって市や民家が並ぶ城下町が広がり、その南端に東国と北陸を結ぶ主要道「越前街道(北国脇往還(」を取り込んでいた事がわかります。
 このように16世紀初頭には北近江の政治拠点として栄えた上平寺ですが、大永3年(1523)髙清を補佐する上坂信光の専横に対し、浅見・浅井・三田村・堀氏などが上平寺城を攻め落とし京極氏舘は廃絶したと考えられています。米原市教育委員会、、、現地説明板より


場所は滋賀県米原市上平寺
ザックリ言って、浅井長政の小谷城と関ヶ原古戦場の中間地点で伊吹山の麓です。


自分は北陸道から行ったので、北陸道「長浜IC」下車、県道243号線から国道365号線へ右折し、「野一色」交差点の次の交差点で左折。県道40号線で「道の駅・伊吹の里」で右折し、道なりに進み、県道531号線の合流から700mほど先が「上平寺集落」入り口です。その交差点の突当りから上が目的地です。

道の駅を経由しないで国道365号線を直進する場合は「野一色」交差点直進、「大野木」交差点直進、「大阪シーリング印刷」がある「藤川西交差点」で左折。県道531号線を直進した突当りが「上平寺集落」です。

また、名神高速道路を利用した場合、「関ヶ原IC]下車、国道365号線にて「関ヶ原古戦場」を過ぎ、伊吹山ドライブウエイ入り口」を過ぎ、国道21号線分岐から約3km先の「大阪シーリング印刷」がある「藤川西交差点」を右折。県道531号線を直進した突当りが「上平寺集落」です。


長浜IC交差点からの伊吹山



上戸集落の交差点



よく見ると城址や京極氏舘への案内板が設置されていますが、走行中の車から認識することはできません(;^ω^)



上平寺集落の一番奥、高台の突当りに「伊吹山登山口駐車場」(無料)がありますので、車はそこに停めました。



駐車場の目の前に谷川が流れていますが、これは京郷氏館群南端の「内堀」だったところだそうです。



内堀に架かる橋を渡ると神社の境内です。そこからが上平寺城への登城口、伊吹山登山口となっています。




途中には「京極氏居館跡」「京極氏庭園跡」があり



突当りが「京極氏墓所」です。



京極氏墓所を左折すると、「上平寺城」登城道、伊吹山登山口となります。




急な崖や足場の悪い岩場は無いのですが、地味な登りが延々と続き、折からの猛暑(当日の最高気温36℃)で猛烈な汗と疲労に襲われました。
そして伊吹山山系のクマが出没するとの情報もあり、冷や汗もかきます💦💦


登山道として整備されているので迷うことはありません。




京極氏墓所の分岐から歩く事37分、境内入り口からは55分で城域の竪堀に到着です。



ここで当日の行程を縄張り図で示します。
中井均先生作図概要図、近江の山城を歩く「上平寺城」より(ブログ管理者加筆)



伊吹山文化資料館所蔵の立体模型です。
自分のようなミーハージジィにはこちらの方が100倍分かり易い(^^♪



尾根のピークに主郭があり、下(南)に向かって伝二の丸、伝三の丸が一直線に配置され、上(北)の端は大堀切と土橋(図中以下同 A)で、下(南)端は畝状の竪堀(G)で、それぞれ防御しています。
また、主郭と伝二の丸の間の斜面には竪堀(B,C,D)が、伝二の丸と伝三の丸の間には堀切と土橋(F)で敵の侵入に対する備えをしています。
曲輪の真ん中を通路が通り、その通路を挟んで左右(東西)に曲輪が分断されているようにも見えます。これは麓の「京極氏館群」の配置にも共通の特徴と言えます。


「畝状空堀群」(図中G)










「伝三の丸」(図中Ⅳ)
こちらの曲輪には、伝二の丸のような土塁がありません。従って浅井氏による改修はされていないと考えられています。






東側帯曲輪



切岸



三の丸と二の丸の間にある「堀切と土橋」






竪堀



断面




土橋を渡ると道は直角に二度曲がって伝二の丸虎口へと続く
クランクさせた空間が「外枡形」(図中E)となっており、敵兵の侵入速度を遅らせ土塁上から攻撃する仕掛けです。




「伝二の丸」



伝二の丸(図中Ⅱ)西土塁
伝三の丸に比べ、こちらの曲輪は土塁が巡らされています。
さらに虎口や土橋・竪堀など高度な防衛施設が整備されていることから、浅井氏が越前朝倉氏の援助にて改修したものと考えられています。



伝二の丸(図Ⅱ)東土塁



伝二の丸(図中Ⅲ)東土塁



本丸切岸と伝二の丸の間に施された竪堀(図中B,C,D)





「本丸」(図中Ⅰ)
東側切岸から登り東側虎口より本丸に至りました



本丸東側土塁



本丸削平地



城址碑
後方は西側虎口



西側虎口より本丸下へ降りて、弥高寺跡へと向かう案内板
伝二の丸から西回りでもここへ出ることができます。



城域の北端に刻み込まれた「大堀切」(図中A)
本丸はこの大堀切Aと南側の竪堀B,C,Dで鉄壁の守りとも言えます。










上平寺城跡から弥高寺跡まで登りました。
麓からの位置関係を地図で表します。
伊吹山山頂への登山ルート上に「京極氏舘」「京極氏墓所」「上平寺城」「弥高寺跡」の遺構が点在していることがわかります。




【弥高寺跡】
上平寺城跡からの登り道はやや険しくなっています。
途中ロープがあったり



斜面が崩れて道幅が狭くなっているので要注意



上平寺城跡から約5分で伊吹山登山道との分岐、さらにそこから約20分で弥高寺から伊吹山への分岐となります。



「行者の谷」
深い谷があって、いくつか沢が流れた湿地帯で、山ヒルが出そうな雰囲気です。



南に開けた斜面に出ました。
この平坦地にも礎石跡と思われる遺構が遺っています。



最後の登りで弥高寺跡に到着。
麓の集落から伊吹山に登る登山ルート上にあります。



背後(北)にそびえる伊吹山山頂



ぐるっと周囲を土塁で囲んでいます



史跡案内板
一段高い台地は「基壇」で、何段か石積みも検出され、大規模な伽藍?建築物の跡ですが、礎石や石積みは焼けて細かく割れており、記録にみえる永正9年(1512)6月の火災によるものと思われます。



麓の集落側に開いた虎口
南側斜面には雛壇状に削平地が連なり、その出入り口であったようです。



虎口を出ると南側斜面には階段状に削平地が連なり、まるで階段状曲輪群のようでもありますが、これは庫裏と仏堂を兼ね備えた礎石建物「僧坊跡」だそうです。
麓に通じる道の両側に雛壇状に並んでいます。


出土品は土師器や貯蔵用の瓶などが多くを占めますが、中国から輸入された政治の椀や、香炉・花瓶など15~16世紀の仏具仏像の装飾品の一部も見つかっています。







図中Eの外枡形虎口や、同B,C,D、あるいは同Gで見られるような放射状の竪堀群などは戦国期ピークの築城術で、「信長公記」によれば浅井氏が同盟を結んだ越前朝倉氏の協力を得て京極氏の城を改修し、同時に弥高寺も改修された可能性が高く、信長公記が伝える刈安城は上平寺城と弥高寺の二つの部分から構成される城であったと考えられるそうです。
しかし、浅井氏から守備を任された堀秀村は信長方に内応し、戦わずして開城となったそうです。



【京極氏舘】
京極髙清が北近江を支配するために整備した居館で、伊吹神社一帯が館跡です。
麓の方から
薬師堂


京極氏一族の居館群が並び
蔵屋敷


弾正屋敷


隠岐屋敷


屋敷を仕切る土塁



突当りの右側が京極氏の「御屋形」で、奥行き約54m、幅約35mあり、奥に庭園跡があります。




【京極氏庭園跡】
池泉鑑賞式の庭園で、背後の河戸谷の四季を借景にして庭園を愛でながら、宴や武家の儀式が行われていました。









【京極氏墓所】






京極氏の一族の墓と伝えられる五輪塔です。もともとここに京極髙清の墓石がありました。江戸時代に丸亀藩主・京極高豊が、京極家の菩提寺徳源院に歴代藩主の墓を整備した時に、髙清の墓石は移されました。墓石の一つには永正3年(1506)の文字があり、京極家ゆかりの女人の墓と伝えられています。




「上平城絵図」(伊吹山文化資料館所蔵)には以上のような詰の城である上平寺城、京極氏居館・庭園から内堀を挟んで家臣屋敷、外堀の外に町屋敷。西側尾根上の重臣屋敷群。そして南端に主要街道の越前街道(北国脇往還)が描かれています。






【上平寺城】
《戦国大名京極氏の遺跡群》

名称(別名);じょうへいじじょう(刈安城、桐ケ城)
所在地;滋賀県米原市上平寺
城地種類;山城
標高/比高;669m/380m
築城年代;永正年間(1504~1521)
廃城年代;
築城者;京極氏
主な改修者;浅井長政
主な城主;京極氏
文化財区分;国指定史跡
主な遺構;土塁・堀・堀切・竪堀・虎口
近年の主な復元等;
地図;





【伊吹山文化資料館】
企画に資料館があれば立ち寄ることにしています。お城の散った芋系の展示や発掘調査報告書などが狙いです。



場所柄関ヶ原にも近いので周辺の城舘の情報も豊富です。



偶然にも御城印発見! もちろん買うよね~



住所;滋賀県米原市春照77
休館日;毎週月曜日、祝日の翌日、12月27日から1月5日
開館時間;9:00~17:00
地図;

コメント一覧

1948219suisen
ありがとうございます。

現在、見苦しい記事を書いておりますが、また楽しいブログに戻したいと思っておりますので、ご期待くださいますよう!
aminosan111
@1948219suisen 1948219suisenさんコメントありがとうございました。第二第三の人生楽しんで下さいね(^^♪
1948219suisen
followくださりありがとうございます。

私もfollowさせていただきましたので、よろしくお願いいたします。
名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

※ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「城歩き」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事