新・日記どす(DOS)

写真は「ビートルズ」のヘルプごっこ(笑)~音楽からB級スポット訪問記まで、幅広くいろんなことを…笑いをこめて…綴ります~

関ヶ原の戦いの史跡めぐり…東首塚、松平忠吉・井伊直政陣跡から、田中吉政陣跡、細川忠興陣跡、そして岡山烽火場、黒田長政・竹中重門陣跡へと

2019-06-29 07:45:40 | 歴史史跡
関ケ原の戦いの史跡めぐり…




天気予報では
曇りのち晴れ…
ということで出かけたのに…



着いてみれば
関ケ原の戦いが起きたときのように
霧がかかっていて
雨脚も…小康状態だった…
と思いきや…
突然めちゃめちゃ降ってくる…




そんな悪天候の中…




東軍の陣跡を巡る…



まずは
JR関ケ原駅から近いところにある


東首塚



関ヶ原の地に布陣した兵数は
東西両軍を合わせて約17万人
わずか半日の戦いに
約8千人の死者が出たと言われている…



徳川家康は現地で首実検をおこなった後
多くの遺体の処理を
この地を治める竹中重門に命じた



そこで造られたのが

この
東首塚である…



西首塚より現在の規模は大きいいものの
東海道線の工事の際には
多くの白骨がでたとか…
当時の規模は…今のこの整備された
東首塚よりも…ウンとウンと広かったのでしょうね…



唐門が塚の脇に…






これは昭和17年に移築されたとのこと…


唐門をくぐれば…

山王権現社本殿
これも唐門と同じく昭和17年に移築されたとのこと…










戦没者の供養堂になっているとのこと…





首洗いの井戸






ここの井戸水で武将の首を洗って…
徳川家康が首実検(床几場)したとか…



その後に
葬られた首塚…























首級墳碑








碑に書かれていた文字は
完全に消えていました…


なんでも


東首塚だからといって
東軍の武将の供養というわけではなく…
東西関係なく
埋葬している可能性も高いとか…



なんせ…行ったときは
土砂降りでして…
武士の無念が雨を降らしてるように
錯覚しちゃいそうなシチュエーションでした…


お会いしたことのない
武士の方々ですが…
ただ…ただ…
合掌…






その東首塚のすぐ横には

松平忠吉・井伊直政の陣跡がありました…










東軍の先鋒は、福島正則隊でしたが
徳川家が先陣を切ることが重要だと考えた
井伊直政は、松平忠吉とともに抜け駆けし
宇喜多隊に火縄銃で発砲

そこから
関ヶ原の合戦の火ぶたが切られたんですね…


さらには
戦いの終盤島津義弘が
「島津の退き口」といった
敵陣突破して退却を試みた際

井伊直政、松平忠吉隊が追撃
その際、直政、忠吉とも負傷したのは…有名な話…








時空を超えて


妄想に浸りたいものの
激しい雨…

まるで合戦前の天気のように…


紫陽花に叩きつける雨を眺める
心の余裕もなく
車に避難…







さてさて
松平忠吉と井伊直政の陣跡から最後陣地へ向かう途中の
歩道にあるのが


田中吉政の陣跡



徳川家康が最後の陣を張った場所になる陣場野公園の南側にありました…
















石田三成隊と激しい戦を交え


石田三成が敗走後、三成を探し出したことでも有名な武将
田中吉政

実際は
石田三成とは同じ近江出身で仲が良かったらしく



実際に石田三成を捕らえたのは田中伝左衛門、そして沢田少右衛門ですが

その護送にあたっていた時、田中吉政との有名な話が…


石田光成は
生きたまま捕らえられた時


三成が腹痛で苦しんでいたところ
吉政は、腹痛に良いという理由でニラ粥を勧め、三成はそれを食したとか…

さらに石田三成は滋賀県は木之本町の山中で捕縛される時に
「他の者に捕らえられるより、貴殿に捕らえられたほうがいい」

と田中吉政に言い
自分を捕らえた功績を吉政に与えようと思っていたとか…

ニラ粥を食べながら
石田三成は
田中吉政をニラんでいた訳ではないようです…



私は
この時…空を見上げてニラんでましたが…




だって
この日の天気


「天気予報、曇りのち晴れ!」って言ってたやん!!



さてさて
この田中吉政の陣跡のすぐ横が
陣場野公園



首実検(床几場)の行われた
徳川家康の最後の陣跡ですが


激しい雨…
激しい雨…
のために
ここは後でみようと…回避…




続いては
細川忠興陣跡









細川忠興…
よりも…その奥様
ガラシャ…の方が良くご存知な私…



石田三成は、上杉征伐で東征した大名の妻子を人質にする作戦を実行
その際、細川忠興の妻、正室ガラシャは人質になるのを拒み
家老に自分を殺させ屋敷に爆薬を仕掛けて火を放った…



この事件で細川忠興の三成への憎悪は膨れ上がり
この関ヶ原の戦いでの
石田三成との激しい戦闘へと「線」として繋がっていったのである…



忠興の怒りは凄まじく
関ヶ原では自ら望んで三成の正面に陣取り、終始石田隊と激しく戦ったとか…


そんな細川忠興陣跡は

細川忠興の石田三成への恨みつらみの想いとは裏腹に



ほっこりと…




真四角の人口池があったり






雨に濡れた


パンダの遊具があったり






関ケ原の戦いの優劣を図るかのような??


シーソー???






西軍が…ここから転げ落ちたような
滑り台???が






この
住宅地の中にあって…


この滑り台で
滑らなくても
足元が雨でぬかるんで
スベリそうな…
そんな…どしゃぶりの雨の中…







続いては
岡山(丸山)烽火場、黒田長政・竹中重門陣跡へと
軽四を走らせる…


この行き止まりの
駐車場に軽四を停め






この写真の左手の道を
なにも疑わず登る…



…何も考えずに登ると
左手に…お寺がみえてきた…







ここは
瑞龍寺





ここで…初めて気づく


岡山(丸山)烽火場をいつの間にか通り過ぎていたことを
…というのは…これ以上進む道がなくなっていたのよ…



慌てて戻る!戻る!!!



そもそも…
駐車場で軽四から降りた…
この左の道を登っちゃいけなかったのよ…







駐車場から
もっと左の竹藪の中の道を進んだ先にありました…














なんか
この竹藪の中の道をこうして
進むだけでも…関ヶ原の合戦気分が漂ってきていいですなあ…




気になっていた
土砂降りだった雨も
このときだけは小康状態…


その途中にあった

金刀比羅神社










説明板によると

東軍武将、生駒一政公が黒田長政・竹中重門とともに陣を構えた
この地において
必勝を期して讃岐から持参した金刀比羅宮の御神像を松の枝にかけておいたそうな…
関ヶ原の戦いの後、住民がそれをもらいうけ、祭祀したとのこと…



さらに進めば
関ヶ原の街が
眺望できるところに…


ここが

岡山(丸山)烽火場
















「ここは黒田長政と竹中重門が布陣した場所でして…」


ほうかほうか…」












開戦を告げる烽火が上がった場所で


ほうかほうか…」



烽火だけに…
ほうかほうか…」と頷いてみるも



そもそも
ここ岡山烽火場
「おかやまほうかじょう」と読むのではなくて
「おかやまのろしば」


烽火は「のろし」と読むそうな…汗




ここにくるまで
道を間違え…さらに…読み方を間違える…

なんだか…
私の本領発揮…みたいな…感じですが…


さてさて
関ヶ原の戦いの決戦場石田三成陣跡、笹尾山を望む眺望は
霧がかかって
雲行き怪しく

まるで…関ケ原の合戦のときの天候にそっくり…












…当時の想いに馳せようかと思いきや…
めちゃめちゃ雨が降ってきた…
風も伴って…


のろし」ならぬ


あらし」のように…


天候「わろし」…
(古語で「よくない…の意」)





「そんな中、この関ヶ原の地で…400年前、「のろし」もとい…「ころし」あったんですよ…」


ほうかほうか…」…汗




だから…烽火は「ほうか」じゃないってば!!


もう「ほうかっとこう!!」(ほかっとこう!!)…汗























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