新・日記どす(DOS)

写真は「ビートルズ」のヘルプごっこ(笑)~音楽からB級スポット訪問記まで、幅広くいろんなことを…笑いをこめて…綴ります~

設楽原古戦場巡り…「首洗池」と「謎の墓」

2022-07-31 05:59:16 | B級スポット

設楽原古戦場巡り

今回、紹介するのは

「首洗池」

「首を洗って待ってろ」と言われて、ここで首を洗って待ってた…といったいわれではなくて

過去には「血洗池」「刀洗池」とも呼ばれたこの池

長篠・設楽原の戦いの時、この池で戦死者の首を洗ったという…

丘から眺めると長方形…

プールと間違えて??泳いだ子供もいるかも知れないな???

 

 

そばには長篠・設楽原の戦いの戦死者を慰霊するお地蔵様

もちろん、今は見えない敵…ウイルスがこの地にも、ウロウロしてるかもしれないから、マスクをして備えていらっしゃる…

 

この「首洗池」…どことなく濁っているのは、1575年の長篠・設楽原の戦いの時、この池で戦死者の首を洗ったから…という訳ではなくて、鉄分を含む赤土が濁っているからだそうな…

当時はいなかった「コイ」が泳ぐ!!

 

ここまで、ずっと設楽原の古戦場巡りで歩いてきて

疲れてきたのでコイをみながら、よっこいしょ!!…(笑)

 

 

ここにも、「設楽原古戦場いろはかるた」の立て看板がありました…

 

「首洗い 池は血色に 水濁る」

 

これは、いくら「かるた」といえども…的な記述で、札を読みたくないかも…

 

これで、終わってもなんなので、もう一つ紹介しようっと…その場所は「首洗池」からウンと離れているんだけど、「首洗池」の狭い路地を北に一直線、八束穂公民館を左に折れたところに案内看板があるところ

 

 

あの、この設楽原古戦場巡り、基本的には、このマップを手に入れて、ぐるぐる徒歩で歩いて廻ってきたんだけど…

 

 

この中で、気になるスポットが…

それは、「謎の墓」

 

 

「謎の墓」とありながらこの図の左端「謎の墓」の上に「五味与三兵衛の墓」と記されている???

なにこれ??「謎の墓」でもなんでもないじゃん!「五味与三兵衛の墓」じゃん!!と思いながらも

「謎の墓」の記述に心惹かれる、少年のよーなピュアな心をもったオジサン!

 

もちろん、名探偵コナンのように???謎を追及すべく行ってみることに…

おお、いきなり山の中に入っていくのね…

 

 

もうこの時点で、かなり歩いているので、足が重い…この階段を登るのも「名探偵コナン」ならぬ「名探偵コンナン(困難)」な状況に…

でも登りの階段は全然たいしたことありませんでした…

 

後は、ちょいと森の小径を進むと…

 

おお、「五味与三兵衛の墓」がありました…

 

 

その横には、説明看板

 

 

「謎の塚…五味与三兵衛」

五味与三兵衛さんは越後の浪人で、長篠・設楽原の戦いでは、武田軍の鳶ヶ巣山砦の守備隊長…そこを織田・徳川連合軍の酒井忠次公に奇襲攻撃され、おそらく中山砦に移動したものの、その中山砦で討死したという…

「謎」というのは、中山砦で亡くなっているのに、なぜ、この武田軍の陣との端ともいえるこの山中に「墓(塚)」があるかということでしょうね??

 

おそらく私こと「名探偵コンナン(困難)」の推理では

鳶ヶ巣山砦もしくは中山砦に布陣してた武田軍の誰かが、討死した五味与三兵衛の首、胴体の一部、髪の毛、もしくは五味与三兵衛さんが捨てた「ゴミ」(五味だけに??)なんぞを持ち帰り…ここにお墓として埋め、合掌していたのではないかと…

どう、この推理、五味いとう…もとい…ごめいとう(ご名答)じゃないかと…(ひねりもない、ストレートな推理で、なんか推理ません…もとい…すいません…)

 

 

これは「設楽原古戦場いろはかるた」の立て看板

 

この奥の崖っぷち

正面から看板をみようとすると…転落して…ここに自身の「塚」ができそうで…

 

正面に立つと、間違いなく崖から落下…

 

なぜこんな危険なところに、危険な向きで立て看板を設置したのか

これぞ「謎の墓」ならぬ「謎の看板」だー!!

 

 

 


いよいよ来週の週末に…告知…高橋研ライブツアー「2022・続・はじまりの旅~夏~」

2022-07-30 06:51:02 | 高橋研
告知
 
高橋研ライブツアー
「2022・続・はじまりの旅~夏~」
 
いよいよ来週の週末…
お近くの方、そうでもない方はぜひ観光も兼ねて…ご参加お待ちしております…
 
お席はぎゅうぎゅうではありませんので、安心してご参加ください…
ただし、手指消毒のご協力及び飲食時以外のマスクの着用をよろしくお願いします。
 
2022年8月5日(金) 名古屋・今池 ナイトカフェ弾き語り
Opening act かんた
Open 18:00 / start 19:00
adv ¥3,500 / door ¥4,000(1drink別)
お問い合わせ:052-745-3222
名古屋市千種区仲田2-2-12 ハートイン仲田S棟2階
 
 
2022年8月6日(土) 岐阜・関 ギターマン(THE GUITAR MAN music school)
with okame's
open 18:00 / start 19:00
adv ¥3,500 / door ¥4,000(1drink別)
お問い合わせ:090-7031-9920
岐阜県関市本町8-8 ラ・スォードビル1階
 
 
2022年8月7日(日) 愛知 稲沢 Cafe Salute
with okame's
open 18:00 / start 18:30
adv ¥3,500 / door ¥4,000(1drink別)
お問い合わせ Cafe Salute 0587-22-0300
会場詳細 愛知県稲沢市大塚北9-58-1
 
 
(お願い)
入場時は、手指消毒のご協力をお願いします。
飲食時以外のマスクの着用をお願いします。
一週間以内に発熱のあったことがあるなど、体調のすぐれない方は、ご来場をご遠慮ください。
キャンセルの場合は、必ずご連絡をお願いします。
 
 

 

 

 


「設楽原歴史資料館」の周辺を歩いてみる…天王山と信玄病院址と土屋昌次の塚と岡部竹雲斎、岩手左馬之助のお墓と信玄塚と…閻魔大王と…

2022-07-30 01:14:46 | 歴史史跡

「設楽原歴史資料館」のあたりは、まさに「設楽原合戦」における武田軍が、織田・徳川連合軍と対峙した、武田勝頼陣営の場所でして

「設楽原歴史資料館」のハコモノを見学した後は、そのまま「設楽原歴史資料館」の駐車場に軽四を停めたまま、周辺を散策してみることに…

 

まずは、すぐ近くの「東郷中こども園」の裏の駐車場になにかがある…

 

駆けて寄ってみると

 

立派な…立派な…招魂碑

 

「設楽原古戦場いろはかるた」の立て看板には

牧野文齋の名前が

牧野文齋は、このあたりの医師及び実業家だったようで、1914年には長篠古戦場顕彰会を設立し、自身は副会長を務め、長篠設楽原の戦いにおける戦没者の供養、遺跡の保存、顕彰などの活動を行っており、1914年には設楽原の決戦場跡地などに石碑や墓碑を建立、牧野文斎自身は1930年に戦没者のための忠魂碑をこのように建立したとのこと…

さらには、この地には「久邇宮良子女王」こと昭和天皇の皇后も、この地に訪れたようで

 

お手植えの松が…

ここ、天王山は、武田勝頼公が指揮をとった場所であります…

 

続いては、「東郷中こども園」の門の手前にある

小さな祠の跡は

信玄租師堂跡

 

これも合戦350年祭後の昭和5年に、牧野文齋によって建てられ、 長篠設楽原の戦いの戦没者の位牌を祀っていたそうな…

昭和32年に信玄租師堂は廃止され、その戦没者の位牌は、富士市の本照寺に祀られているとのこと

ここにも「設楽原古戦場いろはかるた」の立て看板が…

 

さてさて、そんな牧野文齋が院長を務めていたという

「信玄病院」の跡地が…

そもそも、この地は武田信玄じゃなくて、武田勝頼が攻めてきたのに

なぜに「勝頼病院」じゃなくて「信玄病院」???

なんでも、もともとこの地は「新間(しんげん)」と呼ばれていたそうだが、近くに織田信長が「討ち取った首を集め、うず高い塚を築いてその名を信玄塚と呼ぶように命じた」信玄塚があったことから、この牧野文齋が地名も「信玄」と替えてしまったとか…そんな噂が…

だから…武田信玄とはなんの関係もないけど…この地の近く、野田城にて撃たれたと噂のある「武田信玄」が入院してたとか、そんなことは一切ないけど

「信玄病院」の跡地が…

今では「牧野文齋記念公園」になっています

今では、病院の石柱のみが残る…だけで…公園と言っても、遊具なんぞ一切なく、誰も遊びにこないと思うけど…

武田信玄が撃たれたとき、この病院が合ったら、傷も完璧に治り、日本の歴史も変わったかも…

牧野文齋が武田信玄と同時代に生きていたら、武田信玄専属ドクターになってて、武田信玄も長生きしてて、日本の歴史が変わったかも???

いかん!いかん!得意の妄想癖が…苦笑

 

 

さてさて、この信玄病院址の近くにあるのが

土屋昌次の塚

 

武田軍として、織田・徳川軍の構築した馬防柵に攻めあぐんでいたとき、突破口を開くために単騎で乗り込んで、第2の馬防柵を突破!第3の馬防柵に辿り着いたときに、鉄砲隊の集中攻撃を受けて落命…

 

21歳で侍大将で…享年31歳…

ちなみに実弟は「土屋昌恒」…武田氏の滅亡である甲州征伐の際は最後まで主君・勝頼に同行し、天目山の戦いで奮戦…「片手千人斬り」という異名を残すほどの活躍をした武将でありまする…

合掌!!

 

さてさて、その後は「首洗池」方面に足を進めると、その「首洗池」近く…「首洗池」が見下ろせる池の西の丘の上には

 

 

武田軍の武将、岡部竹雲斎、岩手左馬之助のお墓が…

 

向かって左手は岡部竹雲斎、 右手には岩手左馬之助のお墓

武田軍のどのような武将だったのか、ググってみてもヒットしなかったけど…岡部竹雲斎は岡部ジョッキーこと、岡部幸雄さんのような顔を…

岩手左馬之助はプロレスラー上田馬之助のような顔を…勝手に想像して…合掌

 

今回のブログで最後に紹介するのは

「信玄塚」

信玄が眠っている場所ではないけど

織田信長が「討ち取った首を集め、うず高い塚を築いてその名を信玄塚と呼ぶように命じた」とされる

「信玄塚」

設楽原の激戦により村から避難していた村民たちが村に戻った後に散乱していて名前もわからない武者の亡骸を埋葬し塚を築き弔ったところ

 

 

ここで行われてる「火おんどり」は、塚から大量に発生した蜂が武田軍の亡霊だと信じられ、その霊を鎮め供養するために行われるようになったとのこと

武田軍を弔った方を「大塚」

 

 

徳川・連合軍側の死者を弔った方を「小塚」と呼ぶようで…

 

 

その「信玄塚」のそばには

石造りの閻魔大王像が…

 

この社の中に…

おお、いらっしゃいました!いらっしゃいました!!

 

 

 

 

めちゃ怒ってますなあ…

きっと、甘い…甘い…政府の新型コロナウイルスに関する海外からの「水際対策」に怒っているに違いない!!???

 

 

この社には、「設楽原古戦場いろはかるた」がまとめて掲げてありました…

 

ふ…不思議…不思議…「火おんどり」で蜂の大軍は姿を消したんだ…

などなど、この「設楽原古戦場いろはかるた」で、自然と「設楽原合戦」のことが教養として、身についてきますよね…

 

「え」…えんえんと柵木岐阜よりかつぎくる???

 

「え」は「えんまだいおう」の「え」じゃないんかい!!

 

 

またまた怒っているような

「え」…「えんえんと 怒っている 閻魔大王」

「設楽原古戦場いろはかるた」に、この札もぜひ…(笑)


ほぼほぼ設楽原決戦地の近くにある「設楽原歴史資料館」に行く!

2022-07-29 06:21:34 | B級スポット

長篠の戦いにおけるほぼほぼ設楽原決戦地の近くに建立されている

設楽原歴史資料館

に行く!!

 

目に留まる「馬防柵」

もし私が馬だったら、ここを越えることができず???これにて、今回のブログは、おしまいとなってしまうところですが…笑…馬じゃないので、柵をのりこえることができて、よかった??よかった??

 

これが、古戦場に建立されてる設楽原歴史資料館

「長篠城址史跡保存館」に比べれば、ウンとウンと新しめのハコモノです…

 

おっと、そのハコモノの前に像が…

武田勝頼でも、織田信長でも、徳川家康でもなく…

ましてや、長篠のヒーロ―、鳥居スネえもん、でもなく…

 

岩瀬忠震公の像…

 

てっきり、長篠城の戦いにおける鳥居スネえもんのように、設楽原決戦で大活躍された方かと思いきや、長篠の戦いとは、なんの関係もなさそうです…

日米修好通商条約終結にご尽力した、設楽原のヒーローのようで…

でも、これをみたら、長篠のヒーロ―、大権現と神様にすらなってる鳥居スネえもんの像が並んで…建立されてても???

 

もしくは、岩瀬忠震公も、この「スネえもん」のように、

岩瀬忠震(いわせ ただなり)だけに「タダだもん」のようなキャラクターを作ると、もっと子供たちにも親近感が湧くかも??

それにしても「タダだもん」…なんか安っぽい気がしないでもないですが…汗

 

さてさて設楽原歴史資料館なるハコモノの前には、B級スポットにはありがちな「顔ハメパネル」

武田勝頼でも、織田信長でも、徳川家康などの武将ではなく、何故か、足軽に…イメージとしては…ここもスネえもん推し、いや、スネえもんとは違いますね…だって、馬防柵の前で、鉄砲をもってる…どうやら、織田・徳川連合軍の「足軽」に、一瞬にして、なれちゃう優れもの…

 

さてさて、館内に入れば…

徳川家康公とツーショットが撮れちゃうコーナーが…

 

こちらは、武田勝頼公

 

 

動かざること山の如し…「風林火山」…における「山」のイメージでしょうか…

 

さてさて、館内

まずは「設楽原の戦いコーナー」へと

 

「設楽原の戦いコーナー」とか言いながら「設楽原の戦い」とは関係なく、江戸時代末期の「鉄砲」の展示

それが、「最大級の大鉄砲」

 

ただただ、デカくて、持ち運びも大変だっただろうな…

 

さらには、野田城にて、武田信玄を撃ったと言われる

「信玄砲」

日本最古の「信玄砲」

江戸時代の火縄銃はたくさん残されているけど、戦国時代に作られた火縄銃は現在、数丁しか残されていない…その中の1品だそうな…

武田信玄は野田城を3万人の兵で取り囲みます。野田城主、菅沼定盈はわずか400の兵で1ヶ月間、籠城戦…武田軍の攻撃に耐えることに…

武田軍の攻撃は夜には行わない…そんな野田城の静けさの中、野田城から毎夜、聴こえてくる笛の音を武田信玄は気に入ってて野田城の近くに腰を据え、笛の音に耳を傾けていたそうな…

野田城内から暗闇の中、武田信玄を見つけた火縄銃の名人鳥居三左衛門は火縄銃を信玄を狙って撃ち放つ…武田軍には大将が撃たれたと動揺が走った…

このときに使われた火縄銃が、この「信玄砲」なんだそうな…

 

「鳥居三左衛門」が撃ったのだから「鳥居砲」にはならなかったんだ???…確かに「信玄砲」の方がインパクトがあるしね…

 

さてさて「設楽原の戦いコーナー」ですので

パネルに目を通しながら、設楽原の戦いに至るまでの歴史を目で追います…

「鳥居スネえもん」がヒーローに、さらには「神様」にもなった長篠城の戦い…

 

 

織田信長の岐阜発進…

すぐに戦いを行わずに…ここ設楽原の地で、「馬防柵」の構築をする、織田・徳川連合軍

 

 

武田軍は、設楽原の東の台地に布陣を構える

 

そこは、勝頼台地…じゃなくて「信玄台地」と呼ばれるようになってるみたいで

 

徳川軍の酒井忠次による鳶ケ巣山砦奇襲戦

 

そして、設楽原決戦へと

 

 

織田・徳川連合軍の鉄砲隊

 

 

おお、それに対して、武田軍の騎馬隊は…

 

 

武田軍、惨敗、そして撤退

そんな武田軍の「ほら貝」

 

武田軍は、したらがほらがいい…もとい…したらがはら(設楽原)がいい…とは思えなかったようで

 

そんな新城城のジオラマ

 

 

続いては、「火縄銃コーナー」

西から鉄砲がやってきたから、かんさい(関西)砲…ではなくて…かんさい(艦載)

 

「入り鉄砲に出女」ということわざがありますが

あの…鉄砲がやってきたからと言って、女がポルトガルに出て行った訳ではありませんので…(笑)…このことわざを勘違いなさらないように???

 

そんな鉄砲がずらっと…

 

 

私の人生を振り返ると、思えばいつも「闇に鉄砲」であったような…汗

 

続いては

 

 

まだまだ続くよ!「火縄銃コーナー」

じゅうっと…もとい…ずっと見てると飽きてくる…苦笑

あきてきて、頭がくらくらしてくる…

 

もう…火縄銃がいっぱいで…いっぱいで…程よい展示を超える圧巻の鉄砲の展示で…

そう…程よい…ほどよい…ほどよろい

 

 

 

単に「よろい(鎧)」のオヤジギャグが言いたかっただけ…

 

もう「よろい」…もとい…「よろしい」…汗

 

さてさてラストの展示はお待ちかね

銅像になってる岩瀬忠震公こと「タダだもん」???のコーナー

基本はパネル展示でお堅い内容…

NHK大河の『 青天を衝け』にもでてきた川口覚さんが演じた岩瀬忠震公こと「タダだもん」???

そのNHK大河の『 青天を衝け』に関連付けてアピールする訳でもなく

いたってジミなパネル展示

 

 

この辺りで読むのが飽きてくる

 

 

でもここからがメイン!!

アメリカ総領事タウンゼント・ハリスと相対し、「日米修好通商条約」 の交渉を担った 岩瀬忠震公こと「タダだもん」???

アメリカとの「どこでもドア」の約束をした方が、この「タダだもん」!!!

 

その後は…左遷の「タダだもん」!!!

 

お亡くなりに…

そんな「タダだもん」!!

 

ラストの展示は

亡くなった兵士を埋葬。供養してある「大塚・小塚」が近くにあるようで

 

 

 

そこで行われている「火おんどり」

合戦の戦死者を慰めるために開催されるお祭りだそうな…

 

 

 

さてさて、その後は屋上へ…

 

「屋上」から馬防柵…要は、設楽原の戦いの決戦地がみえるようで

おお見えた!見えた!!

このハコモノから近い!近い!!!

 

 

手前の樹木が視界を遮ってますが…

 

奥の山の方に徳川家康の本陣地

 

 

手前の台地は武田軍陣地であったようで、…まあ、このハコモノのあたりには、武田軍が多勢いたのでしょうね…

 

 

この奥上の足元のでこぼこは、設楽原の地形を表しているのでしょうか

 

 

ただ、ここは織田・徳川軍の火縄銃のような強烈な日差しが襲ってきて…

「アツい!アツイ!…日差しが痛いほど!!」

武田軍のようにスゴスゴと退散したのでした…

 

 

PS…設楽原歴史資料館の敷地内に、もう一つ、B級スポットには必至の顔ハメパネルをみつけました…

 

 

イラストは、鳥居強右衛門と共に援軍要請に行った鈴木金七郎

ってことは、奥平信昌???になれちゃうぞ!!

ここは、武田軍のような「蚊」が襲ってくるけどね!!…苦笑


医王寺山…にある物見櫓…武田勝頼本陣地に行く!!

2022-07-28 06:01:41 | 歴史史跡

長篠城の戦いにおいて、武田勝頼率いる武田軍は、長篠城の攻略のため1万5千の大軍で城を包囲する…

長篠城主奥平信昌は籠城戦を挑むことに…これは、もちろん援軍がなければ勝算はありません…城を護る奥平方の城兵はたったの500人ほど…

一方、武田勝頼は長篠城から1キロほど離れた長篠城の北方に位置する医王寺山陣地を本陣地とし…

そのすぐそばの小山には土屋昌次らの軍勢が布陣した天神山陣地…

また、搦手を守る瓢曲輪を攻略して兵糧庫を奪取した武田信豊、馬場信春、小山田昌行らの軍勢が囲む大通寺陣地等を配置し

さらに、長篠城の南には、武田信玄の異母弟である武田信実らが陣を張る鳶ケ巣山砦を主軸に、久間山砦、中山砦、姥ガ懐砦、君ケ臥床砦といった5つの砦を築き…長篠城を見下ろして城内の監視にあたっていたとのこと…

 

そんな長篠城の戦いにおける

医王寺の裏山にある武田勝頼本陣地へと…

 

 

♪甲斐の山々 陽に映えて われ出陣に うれいなし~

心の中で「武田節」を歌いながら…

 

物見やぐら…のこの矢印に従って

 

 

御覧のように…迷いません!だって、物見櫓が確認できるし…

 

杖(つえ)は、やっぱ、あった方がいいかな…苦笑

 

 

だって、「武田かつより」本陣地に向かう訳だし…

そう「武田かつより」本陣地…「武田かつえより」本陣地

「武田かより」本陣地…汗

 

当然、登る!登る!!

 

ひらすらのぼる…ひぃひぃふぅふぅ…

登ったのは2021年6月…

当然、登れば汗を掻く…汗を掻くと…

恐怖の…恐怖の…織田・徳川連合軍のような「蚊」の大軍が襲い掛かる!!

♪甲斐の山々 陽に映えて~

が…

♪かゆいーの山々 陽に映えて~

になっちゃうほど…

しかし…物見櫓は目前…ついた!!!

 

ついた!!ついた!!

 

ここが本陣地であることを示す…案内看板

 

 

これは、もともとは案内看板だったのでしょうか…

 

無造作に捨てられていました…

 

 

さてさて

バカは高いところに登りたがる!!まさに、そのとおりの性格なので…

物見櫓の階段を一気に…

 

あ、この物見櫓の階段、けっこう急です!!

足腰が弱まると無理だな…よかった…足腰が元気なうちにこれて…

 

物見櫓に登れば…

山と山の間に長篠城がみえる!みえる!!

実際にみえてるのは「長篠城址史跡保存館」ですけど

後ろの山にも「砦」を作って、長篠城を囲んで…完璧かと思いきや、その砦の一つ「鳶ヶ巣山砦」が家康の重臣・酒井忠次の「奇襲」で総崩れに…

そこから、南側の砦がことごとく奇襲によって崩れていく…

武田軍は、戦いの舞台を移して…織田軍・徳川軍がいてる設楽原へと向かうのです…

 

私は「武田節」を心の中で…

 

 

「♪甲斐の山々 陽に映えてわれ出陣に憂いなしおのおの馬は 飼いたるや妻子につつが あらざるや あらざるや~

 

ならぬ

 

♪かゆいの山々 陽に映えて われ出陣に薬なし おのおの腕をかいたるや 鞄に虫よけスプレー あらざるや あらざるや~

 

織田・徳川連合軍のような「蚊」の大軍の攻撃は容赦ありません!!

「鳶ヶ巣山砦」が崩れるように、私も蚊に5カ所も刺され

武田勝頼気分を十分に味わうことのできた???

医王山中腹の武田勝頼本陣地でありました…


武田勝頼本陣地址である長篠山医王寺を参拝する…

2022-07-27 06:30:02 | 歴史史跡

長篠城の戦いにおける武田勝頼本陣地址である

長篠山医王寺を参拝する…

 

もともとこの場所には、利修仙人が鳳来寺山の杉を以って彫像したという薬師如来と、行基菩薩が彫刻したとされる阿弥陀如来の二木像が祀られた堂宇があって、真言宗の寺として、医王寺は開かれたらしい…

その小庵が、かつては鳳来寺の真言宗学頭・医王院の末に連なっていたという経緯で、寺号は長篠山医王寺と定められ…これには本尊・薬師如来の異名が「大医王仏」であることも起因している…

室町時代の僧・琴室契音が大洞山泉龍院の末寺として1514年に開創…

ただし、琴室契音は自らに因る開山を望まずに、師である克補契嶷大和尚に開山を拝請

克補契嶷大和尚、その後の二世に琴室契音は大和尚により、さびれた堂宇を改築し曹洞宗の寺として、長篠山医王寺は今日に至るとのこと

でもその間、開山当時の長篠城主である菅沼元成、後代では野田城初代城主の菅沼定則から梵鐘を寄進されるなど、菅沼一門の厚い庇護を受け

さらには、1575年の長篠城の戦いでは、甲斐の武将 武田勝頼公がここ医王寺にて本陣を張るなど…戦国時代の渦に巻き込まれ…

長篠城の後、織田信長と徳川家康との連合軍がやってきたとの報を受けると、山県昌景や馬場信春などの諸将と軍議が開かれた場所でもあります…

 

 

駐車場近くに井戸がありました…

 

屋敷跡にあったものを、ここに移設したとのこと…

いど(井戸)だけに…いどう(移動)した…ということですね!…(笑)

 

早川孝太郎の碑

郷土の誇るべき芸能と民俗を紹介するため、各地をくまなく歩いて採訪し、巧みな画法をも生かし、淡々と真実を語りかける文章を数多く残した偉大な民俗学者…とのこと…もちろん、これ、ググってみました…

 

さて同じく…駐車場と山門の間には弁財天が祀ってある「蓮池」

 

 

 

さらには、山門の脇には弥陀が池と呼ばれる池が在り、「片葉の葦」の伝説で知られる池がある…

 

長篠設楽原の戦いの出撃前夜、武田勝頼公の夢枕に老人が現われたそうな…
老人は勝頼に「戦わない方がいい、撤収せよ!」と戦を避けるように勧めたが、勝頼は怒り、太刀にて老人の腕を切り落としたそうな
翌朝、境内の弥陀が池を見ると、茂っていた葦が全て片葉になっていたという…以来弥陀池の葦は片葉のものが多くなったとか…その老人は「葦の精」だったんじゃないか…といういい伝え…

 

人の忠告が聞けない武田勝頼公が、ウイルスが襲ってきてるのに、国民の心配ごとをきかず、オリンピック開催、有観客一辺倒で、もうやると決めてた某菅元総理と被ってみえたのは、私の気のせいでしょうか…

オリンピック開催後は、武田勝頼軍のように、新型コロナウイルスにやられっぱなしにならなければいいけど…

ああ、また第7波が、やってきちゃいましたね

 

そんなことを思いながら参拝へと…

歴史を感じさせる山門

 

 

これが、その手前にあった境内図…

 

 

さてさて山門をくぐると

その左右には、もともとは、本堂の屋根先の両側に置かれていた

稚児鬼

 

そして旧本堂の鬼瓦

 

本堂に向かう両側には、お地蔵さんが立ち並び…

 

 

これは、井戸跡でしょうか…

 

おそらく武田勝頼も眺めていたと思われる「くろがねもち」の木

 

本堂の横には、梵鐘…これが野田城初代城主の菅沼定則から寄進されたものでしょうか…

本堂の手前には仁王像が…

 

 

めちゃめちゃ怒ってますなあ…というよりも驚いてますなあ…

きっと、オリンピックを猪突猛進で進めるがために,ザルのように大雑把だった、新型コロナウイルス感染症対策における国の水際対策のユルさに怒っているに違いありません!!

 

 

オリンピック開催、ちょっと待てよ!!

私には、そう思えて仕方がなかったのですが…

 

ではでは、本堂にて合掌!!

 

 

どうか、新型コロナウイルスが、これ以上蔓延しませんように…と

さらには医王じゅうじしゃ…もとい…医療じゅうじしゃのみなさんが、楽になりますようにと…オヤジギャグを盛りこみながら合掌!

 

 

さてさて、この本堂の横には…

お寺の境内には珍しい…

私の大好きな…大好きな…無料で入れる

 

民俗資料館なるハコモノが…

 

このポストに手紙を入れると永遠にこの中に入ったまま、配達されないと思います…

 

おお、いかにも民俗資料館らしい…民俗資料館によくある江戸時代の農機具、唐箕

 

 

 

中は、もう、民俗資料館というよりも、古い民具の倉庫に近い感じ…

 

天井に展示してあるこれが、落ちてきたら大変なことになるな…だけに「ワ~!!」と叫ぶだろうなと、私のしょーもないオヤジギャグに杞憂しながら…苦笑

 

 

 

 

ただし、お寺に関係あるもの、戦国時代の長篠城や武田勝頼に関連するものが展示してあるその範疇を超えて…なんでもあり…民俗資料館という名の「バーリトゥード状態」…この倉庫に「なんでもあり」って感じで置かれていて…埃っぽさも、タマラナイ…喘息等持病持ちの人は、あまり長時間は…いない方がいいかも…

 

 

お寺なのに…お寺なのに…

「三河大草駅」での駅名表示の看板 …それも新城市富保にかつて存在した豊橋鉄道田口線(旧・田口鉄道)の看板が…

これは、鉄ちゃんなら、ご本尊以上に拝んでおきたい一品かも??

田口線の廃線に伴って1968年廃止された駅名表示の看板 

 

さらには

時刻表まで…

 

鉄ちゃんはレッツゴー???

 

さらには、戦争に関するものも…戦争といっても長篠城の戦いのものではありませんよ!

 

 

真珠湾攻撃に散った方々が、まるでアイドルのブロマイドのようにも思え…

この絵なんか…ちょいと夢にでてきそうな…恐怖を感じる画で…

戦争後に平和が訪れる…

郵便局員の帽子とかばん…まだ民営化になってないころのものですね…(笑)

レコ―ドプレーヤー

おそらく流していたEPレコードは

「南の島のハメハメハ大王」…

「南の島のハメハメハだいおう」…「…だ医王(寺)」

お粗末っ!

レジ計算器

お会計は920円…医王(いおう)…もとい…以上(いじょう)になりますってね!

たぶん、使いすぎて、異常(いじょう)が生じたに違いない…でも、大丈夫、そんなときには「そろばん」がある!!

あ、そろばんも壊れているやないか!!

 

 

さてさて、埃っぽい民俗資料館から外に出ると

その隣には「三社堂」

 

 

向かって右から

「太子堂」

 

中央には「白山大権現」

 

左側には

「稲荷大明神」

 

その裏手には、紫陽花苑…

 

あ、実際(あ、じっさい)ちょうど、あじさい(紫陽花)の花の咲くいい季節に参拝出来てよかったなと…

 

さてさて民俗資料館は、上記に紹介したものだけ…ではなく…

な、なんと寺務所の2階も民俗資料展示室になってまして…

こちらは、先ほどの民俗資料館のような倉庫にいるかのような埃っぽさはまったく感じません!!

 

 

2階の入り口には、昔の庫裡を支えていた柱の展示と解説板

 

 

 

 

2階にあがれば、薄暗かったので

 

 

暗かったので、電気をつけてみました…(笑)

明るく、展示品がみやすくなりました…

でんとう(電灯)をつけるとでんとう(伝統)の品々がよくみえる!!…なんてね!

まあ、暗いと何かに蹴躓いて、でんとう…ならぬ…てんとう(転倒)する怖れがあるからね!

まあ、予想通り誰もいませんが…

100パーセント、ソーシャルディスタンスが保てて「安心・安全」…スガ元総理の提示したオリンピック大会開催に向けての、安心・安全より…ウンと「安心・安全」

 

な、なんとここには

あの長篠の戦いに使われたという「六十二間兜」が…

 

 

他にも長篠城野牛門の瓦などが…

 

そんな長篠合戦記の展示

 

 

他にも…展示品はいっぱい…

 

上記に紹介したとおり、戦国時代の長篠城や武田勝頼に関連するものが展示してあるけど…展示品はその範疇を超えて…なんでもあり…民俗資料室という名の「バーリトゥード状態」…

 

「奥三河の岩石」

 

を拾い集めたのでしょう…相当なる「いし(意思)」をもって…をもって…(笑)

 

実見台???

初めて聞く言葉でした…要は触っていいということでしょうか…

 

右手の箱の中には、教科書が…

一つ一つの感じは読めますが、何を意味しているのか、さっぱり分かりません!

 

土人形がずらーと所狭しと並べられて濃厚接触…

 

 

何故か、天狗…のお面…

 

 

鼻がめちゃめちゃ長いんです!!

 

 

 

 

 

手足がなくなりつつある達磨さんでしょうか

 

時代は江戸から明治へ

 

 

蓄音機

おそらく流していたEPレコードは

「南の島のハメハメハ大王」…

「南の島のハメハメハだいおう」…「…だ医王(寺)」

もう、このオヤジギャグも使いまわしの2回目だー!!

 

「旅順から原爆まで」

 

 

ここにも、展示してありました…戦争遺品…戦争といっても長篠城の戦いのものではありませんよ!

 

 

そして、やはり鉄ちゃんなら、ここにこないと…

懐かしの「田口鉄道」のセピア色に焼けた写真が…

 

 

これにて、民俗資料展示室

正直、ここは、武田勝頼本陣地址だーって、ことで参拝しにきたのに…

この民俗資料館及び民俗資料展示室の寄せ鍋状態の溢れんばかりの展示品に圧倒されちゃった気が…

 

 

私の心の中では、武田勝頼が…田口鉄道の「三河大草駅」跡に立って、「廃線(はいせん)だー!(敗戦)だー!!」と嘆いている図が…

 

おお、我ながら上手いこと言うた…(笑)

オチも決まったところで

 

 

この物見櫓(展望台)のある医王寺の裏山…

あ、実際に、武田勝頼が本陣をはった場所に向かうとしよう!

 

あ、実際に…(あじさい…に)…ねっ!

 

 


長篠のヒーロ―「スネえもん」こと…鳥居強右衛門を訪ねて…お墓と鳥居強右衛門磔死の碑と…

2022-07-26 06:00:12 | B級スポット

長篠城のヒーロー

いや長篠のヒーローと言っても過言じゃない

「スネえもん」こと…鳥居強右衛門

 

足軽の!足軽の!!鳥居強右衛門

「ごううえもん」じゃなくて「すねえもん」

もちろん「ドラえもん」じゃなくて「スネえもん」

 

「スネえもん」のことを簡単に紹介すると…長篠城が武田軍に攻められ、あわや落城、絶体絶命の場面に、城主、奥平貞昌の命で、この足軽の鳥居強右衛門が岡崎城にいる徳川家康に援軍を依頼しにいくことになる…

足軽の鳥居強右衛門は、裏手の野牛郭から泳いで脱出…武田軍の仕掛けた鳴子網(川から脱出できないようにする見張り用の罠)をかいくぐり、約4 kmを泳いだ後、家康のいる岡崎まで全力疾走!援軍依頼の伝達を見事果たす…

援軍を依頼したことを長篠城を護っている奥平方にむけて狼煙をあげて知らせ、役目を果たすことに

しかし、鳥居強右衛門は、狼煙をあげたにも関わらず自ら戻って、籠城する味方に知らせようと、来た道を引き返そうと…

その途中、捕まって武田方の捕虜となってしまう…

捕まってしまった鳥居強右衛門(「スネえもん」)

彼には「ドラえもん」のように、「どこでもドア」のような道具がある訳ではないので…捕まってしまった以上、「どこでもドア」ならぬ「どうにでもせいや」と思っていたことでしょう??

そんな「スネえもん」に向かって、武田勝頼はある取引を迫ります…

それは 長篠城内に向かって、「徳川軍の援軍は来ない!投降せよ!」と嘘の呼びかけをすれば、命を助けるだけではなく…その後、武田軍としての身分も保証するとのこと…
「スネえもん」は、その武田軍のこの取引に応じたようにみせかけます…


しかし、城の前に引きずり出された強右衛門は、味方に向かってこう叫んだそうな…真逆のことを叫ぶ…
「援軍は来る。あと2、3日持ちこたえよ!」
激怒した武田勝頼によって、「スネえもん」は、即、磔に…

しかし、この命がけの呼びかけにパワーを得た城主奥平貞昌と籠城する奥平軍は、援軍到着までの2日間、城を守り抜いたとのこと…

 

 

その「スネえもん」のお墓が、長篠城址近くの…

興国山新昌寺にあるという…

さっそく拝みにいってみることに…

 

興国山新昌寺の山門…

 

 

この山門をくぐると正面に本堂が…

1539年長篠山・醫王寺四世月傳太隋大和尚により創建

宗派は曹洞宗…ご本尊は釈迦牟尼仏のお寺です

鳥居強右衛門がここに埋葬された当時、このお寺は「貴船庵」と呼ばれていたとのことで…1791年に興国山新昌寺に改められたとか

地元住民が、1762年に鳥居強右衛門の墓を創建して以後、「鳥居祭」が250年以上開催されているらしい…

 

 

境内は、このように広く…実に静寂…まあ、一言でいえば誰もいません!

 

 

 

本堂内にて合掌…

この本堂の左側にあるお堂の中は

 

 

「足軽」の鳥居強右衛門が、な、なんと神さまになって祀られている!!

 

これは、長篠城の戦いの戦死者の墓碑かどうかわからないけど…

境内の片隅にありまして

 

 

このそばにひっそりと…鳥居強右衛門のお墓の案内板がありまして…そちらに進めば…

 

鳥居強右衛門の墓が…

「鳥居大権現」…左右に阿吽の狛犬を従え…

 

 

 

お墓なんだけど、もはや神様に近い位置???にいらっしゃいました…

 

墓碑に歴史を感じます…墓碑には、「わが君の命に替る玉の緒をなどいといけん武士の道」 という辞世の句が記されているようで

 

いやあ、まさかまさかの「足軽」から「神様」へ…

「鳥居大権現」

私の知る限り、この世、1番の立身出世!!

「徳川家康」よりも、凄すぎる!!というのは…

長篠城から岡崎城を往復した数日で、あっという間に神様になっちゃったんですよ!!???

強右衛門の墓の横に、武田軍のお墓も…

そんな敵陣が、そばで眠ってて…落ち着いてあの世にいられなかったんじゃないかと、瞬間的に危惧しちゃったんですけど…

第二東名の建設に伴い、武田軍のお墓も一緒にここに移設されてきたようで…

もう…さすがに、あれから400年以上経っているので…案外…あの世でも攻めてきた武田軍と長篠城を護ってた奥平側の兵も…平和に酒を酌み交わしていたりしてね!…(笑)

 

もうお互いのわだかまりは水に長篠…もとい…流しの…ってね

 

 

こちらが武田軍のお墓…

 

 

左から

伝小山田五郎兵衛昌晟の墓

横田十郎兵衛康景の碑…

武田勝頼本営に配置された足軽の大将であるらしい…

 

伝高坂又八郎助宣之墓

 

 

和気善兵衛宗勝の墓…

酒井忠次の鷲ケ巣砦奇襲隊にやられ討ち死したらしい…

この武田軍の亡くなった方々は、明らかに「足軽」の鳥居強右衛門よりもウンとウンと身分の高かった方ばかり…

なのに、墓の大きさと言い、完全に形勢が逆転されちゃってる!!!

 

さてさて、興国山新昌寺を後にして

向かったのは、長篠城から、寒狭川を挟んだ向こう岸

そこにある…鳥居強右衛門が磔にされた場所へと…

 

近くを飯田線の列車が走る…そりゃそうだよね!だって、長篠城の本丸広場を飯田線の線路が縦断しているからね…

 

 

さてさて、このような広がる田園の風景の中に…

ぽつんと目立つ案内看板…とのぼり旗

 

 

遠くからでもよくわかります…

この木々の奥には寒狭川が流れ、その向こう岸には長篠城址なんですけど…川がそばにあるといった感じはまったくしません!

直射日光が降り注ぐ畦道を看板めがけて??一直線???

 

いや、先に「磔死の碑」の方へと

これが、鳥居強右衛門磔死の碑

 

 

処刑地は、強右衛門が城に呼びかけた場所と近かったようで…今のように木が生い茂ってなくて…当時は城の本丸からこの対岸がよくみえていたようで…

 

 

鳥居強右衛門が、はりつけ(磔)になったその日は

この日のように、直射日光が「てりつけ(照りつけ)」た日だったのでしょうか??

それとも豪雨が、「ふりつけ(降りつけ)」た日だったのでしょうか??

処刑は、刀で「きりつけ(斬りつけ)」られたのでしょうか??…こんなふううに「くくりつけ」られて…

そんな鳥居強右衛門の「はりつけ」の地で「きをつけ」したまま、手を合わせた私だったのでした…

 

え??「はりつけ」されてても、ずっと鳥居強右衛門は生きていたって???

 

 

それは、「はりつけ」じゃなくて…「うそつけ(嘘つけ)」!!!やないか!!

 

 


告知…いよいよ今週末…2022 〈小山卓治 ×サンタラ(SANTARA)〉ジョイントライブ

2022-07-25 07:21:33 | 小山卓治
いよいよ今週末…
 
感染症対策をしっかり施して楽しい夜を過ごしたいものです…
 
お時間ありましたら、ぜひぜ…
 
どの会場もぎゅうぎゅうではありませんから、ご安心を…ただしマスクと手指消毒等、ご協力、よろしくお願いします!!
 
 
 
名古屋今池得三~近江八幡酒游舘~刈谷サンダンスとめぐる
3日間のツアー
 
 
お近くの方…そうでもない方も…ご参加をお待ちしております…
 
 
 
2022 〈小山卓治 ×サンタラ(SANTARA)〉ジョイントライブ
 
2022年7月29日(金)名古屋 今池 得三
開場 18:00 開演 19:00
前売 ¥4,300 当日 ¥4,800(飲食代別途/ 自由席)
お問い合わせ:RIBBON INFORMATION:takuji@ribb-on.info
サンタラinfo:gravyrecords@gmail.com
得三 052-733-3709
会場詳細 名古屋市千種区今池1-6-8ブルースタービル2F
地下鉄今池駅10番出口より徒歩3分、JR千種駅より徒歩6分
 
2022年7月30日(土)滋賀・近江八幡 酒游舘
酒游舘開館30周年記念ライブ
開場 16:30 開演 17:00 
予約 ¥4.000 当日 ¥4,500/(ドリンク別途¥600 ※地酒のみ お代わり自由/ 自由席))
お問い合わせ:RIBBON INFORMATION:takuji@ribb-on.info
サンタラinfo:gravyrecords@gmail.com
酒游舘: 090‐1960‐1264
sakedelic1960@softbank.ne.jp
【会場詳細】滋賀県近江八幡市仲屋町中6
JR近江八幡駅北口より近江バス8分(長命寺方面行)大杉町バス停下車徒歩2分
 
2022年7月31日(日)愛知 刈谷 サンダンス
開場 17:00 開演 18:00 
前売 ¥5.500 当日 ¥6,000/(各¥1,500の飲食代含む / 自由席)
お問い合わせ:RIBBON INFORMATION:takuji@ribb-on.info
サンタラinfo:gravyrecords@gmail.com
サンダンス 0566‐26‐7733
【会場詳細】愛知県刈谷市恩田町4丁目154-15
名鉄一ツ木駅から徒歩10分
国道1号線「一里山町金山」信号より車で5分「築地町」信号よりすぐ
 
小山さんのブログより
田村キョウコさんのブログより
【再アップロード版】真夏の東海+滋賀ツアー決定!|小山卓治 × サンタラ
 
 
(お願い)
入場時は、手指消毒のご協力をお願いします。
飲食時以外のマスクの着用をお願いします。
一週間以内に発熱のあったことがあるなど、体調のすぐれない方は、ご来場をご遠慮ください。
キャンセルの場合は、必ずご連絡をお願いします。
 

 

 


「スネえもん」推しのハコモノ…「長篠城址史跡保存館」に行く!

2022-07-25 06:45:12 | B級スポット

長篠城の敷地内にある、まるでお城のよーなハコモノ

「長篠城址史跡保存館」

 

歴史資料館でもなく歴史博物館でもなく「史跡保存館」??

おそらく、土塁などを壊して、ここに建てたんだと思われる史跡「保存」館…ちょっとした矛盾を感じたのは私だけかも…

いやあ、こんな矛盾、政治家のお偉いさんの発言に比べたら、たいした矛盾でもなんでもない…

 

入り口の手前に飾ってある鬼瓦

長篠城に関するものかと思いきや

 

 

豪商、久保屋こと望月喜平治商店の穀倉にあったとされる鬼瓦…

「長篠城址史跡保存館」とあるのに、長篠城のものとなんの関係もないやないか!といった矛盾を感じるけど

いやあ、こんなの政治家のお偉いさんの発言に比べたら、たいした矛盾でもなんでもない…

 

こんなご時世なので、検温、手指消毒、なにかあったときの連絡先の提出等、新型コロナウイルス感染症対策はばっちりで…

武田勝頼と同じように、新型コロナウイルスは、簡単には、この長篠の地を「長篠城址史跡保存館」を攻めることはできないでしょう??

そもそも、大都市と違って、人が少ないし…密にならないしね!!

ほら、館内、ソーシャルディスタンス!!

 

 

武田軍ならぬコロナウイルス軍は、さすがに攻めてこれんやろ!!

 

さてさて、「長篠城址史跡保存館」とあるので、展示品は、てっきり城主奥平貞昌のものが際立つ展示、もしくは、攻めてきた武田勝頼軍か、あるいは、徳川家康、織田信長のものが展示の中心かと思いきや

 

展示の中心は、推しは…もう、長篠城の戦いのヒーローはこの方だったんだと言わんばかりの、圧倒的なインパクトを残す展示の中心となっているのが

 

 

「スネえもん」…

ドラえもんと「スネ夫」の合体キャラクターのように思われるけど…まったく関係のない「スネえもん」…彼がヒーローなんだな…

 

 

地元の小学校のキャラクターにもなっているようです!!

「スネえもん」…「タケコプター」ならぬ「タケダ、ヤッツケター」みたいな道具を使って武田軍をやっつけた訳ではありません!!

 

むしろ、武田軍に捕まって磔にされちゃってる!!

 

 

さてさて、「スネえもん」の本名は

当時、城主奥平貞昌に仕えていた

足軽の!足軽の!!鳥居強右衛門

「ごううえもん」じゃなくて「すねえもん」

 

長篠城が武田軍に攻められ、あわや落城、絶体絶命の場面に、城主奥平貞昌の命で、この足軽の鳥居強右衛門が岡崎城にいる徳川家康に援軍を依頼しにいくことに…

もう絶体絶命!「鳥居」だけに「とりい」そぎ、岡崎城に行かなくちゃ!!って思ったことでしょう

そこで、足軽の鳥居強右衛門が裏手の野牛郭から泳いで脱出…武田軍の仕掛けた鳴子網(川から脱出できないようにする見張り用の罠)をかいくぐり、約4 kmを泳いだ後、家康のいる岡崎まで全力疾走!援軍依頼の伝達を見事果たしたとのこと

ちゃんと援軍を依頼したことを長篠城を護っている奥平方に狼煙をあげて知らせることができてチャンチャン!!よかったねー!!

でも、このヒーロー、それだけでは終わらない…ここで終わったら「走れ!メロス」と類似した作品、「走れ!すねえもん」になっちゃうじゃないか!???

 

無事に援軍が来ると知った鳥居強右衛門は、狼煙をあげたにも関わらず自ら戻って、籠城する味方に知らせようと、来た道を引き返す…

その途中、捕まって武田方の捕虜となってしまう…

捕まってしまった鳥居強右衛門(「スネえもん」)には、「どこでもドア」のような道具がある訳ではないので…捕まってしまった以上、「どこでもドア」ならぬ「どうにでもせいや」と思っていたことでしょう??

そんな「スネえもん」に向かって、武田勝頼はある取引を迫ります…

それは 長篠城内に向かって、「徳川軍の援軍は来ない!投降せよ!」と嘘の呼びかけをすれば、命を助けるだけではなく…その後、武田軍としての身分も保証するとのこと…
「スネえもん」は、その武田軍のこの取引に応じたようにみせかけます…
しかし、城の前に引きずり出された強右衛門は、味方に向かってこう叫んだそうな…真逆のことを…
「援軍は来る。あと2、3日持ちこたえよ。」
激怒した武田勝頼によって、「スネえもん」は、即、磔に

しかし、この命がけの呼びかけにパワーを得た城主奥平貞昌と籠城する奥平軍は、援軍到着までの2日間、城を守り抜いたとのこと…

そんな英雄、「スネえもん」の展示がメインと思われるような、ここ「長篠城址史跡保存館」の展示品の数々…

 

主だったものを簡単に以下に紹介をば…

 

そうそう、ここ「日本百名城」の一つに選ばれたようで、その賞状…

「スネえもん」もあの世でさぞ喜んでいるに違いない…

 

入り口にある門の展示は

新城藩家老菅沼権右衛門屋敷の門

「スネえ門」じゃなくて「新城藩家老菅沼権右衛門屋敷の門」

 

反対側には

「亀姫屋敷の門」

「スネえ門」じゃなくて「亀姫屋敷の門」

 

 

これらの門は壁に貼り付けてありますので、くぐることはできませんので、眺めて館内へと…

 

まずは武田軍が攻めてきたことを示すパネル

 

 

 

 

その長篠城の身分の低い方の陣笠…

 

 

 

さてさて、激怒した武田勝頼軍が長篠城を襲ってくる

武田勝頼軍1万5千…一方長篠城を護る兵はたったの5百…

鳥居強右衛門に関する展示以外では、ここの展示品の目玉ともいえる

 

血染めの陣太鼓

長篠城、奥平方のものであるらしい…

太鼓の下の方に血痕が…

意外と、時が経つのにそんなに黒ずんでおらず…あ,血痕だって確かにわかる…

さてさて、ここからは、「ヒーロー」…「スネえもん」に関する展示品が…

 

 

 

鳴子網をかいくぐって、岡崎城に向かう「スネえもん」

 

やや、中肉中背…どこにでもいる仕事帰りに居酒屋で一杯してそうなサラリーマン体型…

ところが、こちらになると「足軽」の身分の方とは思えない…服はどこで、手に入れたんだろう??泳いでいる時、背負っていないようだけど

 

 

 

 

 

磔にされてる「スネえもん」

右下は鳴子網にひっかかって、武田軍に見つかった図か…

 

捕まった「スネえもん」

 

 

そして…磔に!!

 

 

「スネえもん」の大活躍で、持ちこたえた長篠城…

その後は、徳川方も巻き込んで…武田軍VS織田・徳川軍の

設楽原の戦いへと

 

 

 

武田軍の4武将が大通寺で、飲みかわす図…

なんか決戦前夜なのに…負け戦のように…4武将の表情に覇気のないところが気になるところ…

 

さてさて設楽原の決戦

 

教科書で観たことのある図

武田軍は騎馬…それに対して織田軍は鉄砲隊ですよね!!

 

 

そんな鉄砲がずらーと…

 

 

そして、その戦いとその後…

 

 

武田軍の馬場信房が武田勝頼を逃がし、自らの首を差し出す図

 

 

 

 

もうこのジオラマ自体に歴史を感じる…そんな

設楽原の戦いのジオラマ

 

 

 

スイッチは4つ

 

おお,点灯した!点灯した!!

 

 

さてさて、最後に館外、2階の部分をぐるっと廻ってみよう…

 

いたるところに、こんなのぞき穴が…

のぞき穴があれば、覗いてみたくなるのが、悲しいかな…男のサガ(性)

 

 

「スネえもん」跡じゃなくて、「大手門跡」

 

あの…覗いてみたんですけど…前の生い茂る葉が邪魔で…

 

 

ここで「スネえもん」が城にむかって叫んだそうだけど…生い茂る葉が邪魔で…

 

 

「狼煙をあげた山」はわかったかな…でも、こののぞき穴からでは生い茂る葉が邪魔ですけど…

 

大通寺山

のぞき穴からは生い茂る葉しかみえません!

 

 

これはおそらく…武田勝頼本陣地…のぞき穴からみえるのは葉っぱだけ

 

狼煙をあげた山も、のぞき穴からは葉っぱしか見えない

 

 

もはや、説明表示すら解読不能

 

 

この説明板解読不能ののぞき穴からみえたのは、駐車場にとめた私の軽四でした…

 

最後は「のびた」ふうに

「のぞき穴からは、葉っぱと軽四しかみえないよ!「スネえもん」なんとかしてよ!!

 

はい、「見たままスコープ」

 

ドラえもんの「見たままスコープ」は人の記憶を映し出す映写機だけど、

 

「スネえもん」の「見たままスコープ」は、葉っぱの生い茂る「見たまま」何も起こらないスコープでござんした…

 

「スネえもん」の「見たままスコープ」は、葉っぱの生い茂る「見たまま」何も起こらないスコープでござんした…

「スネえもん」の「見たままスコープ」は、葉っぱの生い茂る「見たまま」何も起こらないスコープでござんした…

「スネえもん」の「見たままスコープ」は、葉っぱの生い茂る「見たまま」何も起こらないスコープでござんした…

 

あ、ここは最後の一文を「スネえもん」のように「コピー&磔(貼り付け)で…」(笑)

 

 


武田勝頼が攻め落とせなかった城…長篠城址に行く!!

2022-07-24 06:23:26 | 歴史史跡

城址マニアの私…

今回は長篠城に行く…

 

武田勝頼が成し遂げれなかった野望…

長篠城を攻め落とすぞー!!

 

と、その前に腹が減っては、戦はできぬ…(笑)

 

近くの「長篠食堂」へと…

ここで「気まぐれ定食」の中の「稚鮎天定食」をば

揚げたてで、めちゃ美味しかったのです!!

 

 

 

満足!満腹!満足!満腹!!!

ここで頼んだ「気まぐれ定食」…「気まぐれ」の割には、たくさんのメニューの中から選べて、満足!満腹!満足!満腹!!!

 

武田勝頼も、ここで食べてから長篠城に向かえば攻め落とせたかもしれないのに…(笑)

 

 

 

長篠城は1508年土岐氏の一族の菅沼元成が築いた宇連川と寒狭川の合流点の北側断崖上に位置する天然の要害の戦国時代末期の城

残っている内堀と土塁が城の東側を後方は合流する2つの川が堀として利用されていて、築城するにはもってこいの条件の整った城であります…

もう圧巻なのは…本丸と帯郭の間に設けられていた

この帯郭址及び看板看板の奥にある

この内堀と土塁

 

いやあ、これみただけでも、城址マニアの私にとっては、下手なグラビア写真のオネーチャンの写真よりもウンとテンションがあがる!あがる!!

ここに水を張っていたとのことで、これじゃあ簡単に武田軍に攻め込まれないだろうな…と実感!!

 

この縄張概図のように

裏は、この内堀と…反対側は2本の川に挟まれて…

 

それにしても後方の川の近くにある野牛郭のあたりを、飯田線の線路が真っ二つ…実に残念なことを当時の国鉄はしてくれたもんだと思いつつ…

でも、遺構がいっぱい残っててテンションのあがる城址であることは間違いない…

さてさて長篠城は築城当時は菅沼氏は今川方に従って居城していたが、今川義元が「桶狭間の戦い」で敗れると、その後、長篠城は徳川家康に従うように…

しかし、1571年武田信玄の配下であった天野景連の攻撃を受け、武田氏に従うように…

でも、戦国時代、まだまだ戦いは続く


1573年、武田信玄の病状が重篤化したことにより武田軍の攻撃が緩んだ武田軍の隙をついて、徳川家康が長篠城を奪還

その後は歴史の教科書にも載っている戦い…

1575年には、旧今川・徳川氏配下で、武田氏から離反して徳川氏に帰参した家臣、奥平貞昌を長篠城主に就任させることに…500人ほどの兵で当地の守備にあたらせる…


その年、武田勝頼率いる武田軍が約1万5000人という兵力で長篠城を包囲する…

これが「長篠の戦い」の前哨戦ともいわれる

「長篠城の戦い」

武田勝頼の攻撃に対し、家康の家臣、奥平貞昌は籠城戦を展開し持ちこたえる…

その後に続く長篠・設楽原の戦いによって武田勝頼率いる武田軍は敗北

その後、奥平氏は居城を新城城に移したため、長篠城は廃城となったとのこと

 

たった15年の間に、今川氏に服従したり武田氏に服従したり、徳川軍に服従したら、武田勝頼が攻めてきて…もう…いかにも戦国時代のど真ん中にあった城であったことがよくわかります…

 

歴代城主…一覧

たったの68年の歴史しかないのに…まさに戦国の渦中にあった城であったことがよくわかります…

 

もう、この石でできた説明解説板自体に歴史を感じちゃいますね…

 

これが、本丸跡…

 

 

 

 

うん、500人くらい集まれば…ちょうどいい感じかな…って、妄想の中で奥平貞昌の500人の兵を思い浮かべてみる…

あまりにも、きれいな本丸広場なので、妄想の中で奥平貞昌の500人の兵を思い浮かべてみても、なんだか野外フェスみたいな感じで、心の中に描いちゃってるんですが…

忌野清志郎さんの

「あいしあってるかい」…じゃなくて…「討ち死にしあってるかい」「イエーイ」の歓声が聞こえてきそうで…

はい、読者のみなさんは、こんな妄想、きき流し…の…苦笑

 

本丸の廻りに残る土塁

 

 

林高英領徳碑

江戸の中頃に長篠に生まれ、代官となった人とのこと(ぐぐってみた…)長篠城駐車場前に「林高英の屋敷」があったらしい

 

土塁の上には歴史を感じる

長篠城址碑

 

大正7年建立でした…

奥平貞昌になった気分で…大変そうだから、正直、奥平貞昌になりたいとは思わないけど

徳川家康の長女・亀姫の娘婿なんだけど…亀姫は美女だったんだろうか…家康公の娘だもんな…

その隣には

久邇宮良子女王の「御手植え松」の石碑

良子女王は、後の昭和天皇の妃の香淳皇后のことですね…

 

 

先ほどの長篠城址の石碑も

大正7年の久邇宮良子女王ブームにのっかって作られたに違いない??

 

鳥居があって、そこには御神木に匹敵する立派な木が…

 

 

こうして、触れてると「木」からパワーをいただけてる「き」がする…

おお、やる「き」がでてきた…(笑)

 

鳥居は残されていましたが「社」は移転されていました…

 

ここから本丸を見下ろし、その本丸へと…

 

「堅木植樹碑」

 

 

テキサス独立戦争中に、メキシコからのテキサス独立を志した180余名が,約5000人のメキシコ軍を相手に戦った「アラモの戦い」と、長篠城で行われた戦いが似ているということで結び付けた、日米友好の植樹…とその案内石碑やら案内板やらまとめて…

このカシ(樫)は日米修好の証しとして、アラモ側から贈られたものらしい…

 

さてさて、線路側へと…

 

この奥の山に砦を設けていたようで…

「対岸・武田軍五つの砦」の説明板

 

その武田軍五砦に徳川軍東三河勢が奇襲した「鳶が巣方面の戦い」の案内板…

もうこの案内板に歴史を感じちゃいますね…

 

 

 

 

あの奥の山に砦を造って、じっと長篠城を見張っていた時に、武田軍は奇襲をうけたようで…

線路の向こう側の「野牛郭址」

城址に線路がひかれている光景…

 

断崖絶壁の要城とのことで、「本丸跡」から下の川を見下ろしたいと思っても、木々にさえぎられてまったく見えません!!(聞こえてくるのは川音ばかり…)

 

不忍の滝があるようで…

 

 

おお、かすかに木々の隙間からみえた!みえた!

 

 

 

さてさて、この地にこれば、武田勝頼よりも、徳川家康、織田信長よりも、城主、奥平貞昌よりも「亀姫」よりも有名なこの方

 

足軽!の!足軽!!の…

磔になった「鳥居強右衛門」(「すねえもん」…「ごううもん」じゃなくて「すねえもん」

 

 

ここからじゃ木が生い茂って何もみえないけれど

川すらみえないけれど…

 

 

「鳥居強右衛門」の活躍、ヒーローぶりは

次回、書き綴る

「長篠城址史跡保存館」の展示で明らかになる!!

戦国武将を差し置いて、城主をさしおいて

足軽の「鳥居強右衛門」が大ヒーロー!!

あ、恥ずかしながら「鳥居強右衛門」の存在…ここで初めてしりました…

次回のブログをお楽しみに!!

 

さてさて、最後に紹介するは

駐車場のそばには「さかさ桑」の復元??が…

 

 

長篠の落武者が小松集落にさしかかって民家の庭に杖をつきさした、その杖から桑の芽が出たが、下方に向かってだけ伸びるので「さかさ桑 」と名付けたそうだが、その落武者が武田勝頼ではなかったか…といった伝説…

そこは、季節がら「桑」以上に…紫陽花がきれいでござんした…

 

 

しかし…この城には…まだ奥平貞昌の軍勢が…あるいは、徳川軍が、この姿にかわって…襲ってきそうで…それは、この看板…

 

 

ま、無視(マムシ)する訳にはいかず…足元を気にしながら…武田勝頼軍のように退散したのでした