京都市と滋賀県大津市にまたがる、標高848mの比叡山全域を境内とする天台宗の総本山の寺院
比叡山延暦寺
を参拝する…
比叡山延暦寺については、788年に最澄が薬師如来を本尊とする一乗止観院という草庵を建てたのが始まり
この寺は比叡山寺とも呼ばれ、年号をとった「延暦寺」という寺号が許されるのは、最澄の没後、823年になってからのこと
日本天台宗の基礎を築いた円仁、円珍、浄土宗の開祖法然、浄土真宗の開祖親鸞、曹洞宗の開祖道元、日蓮宗の開祖日蓮など、新仏教の開祖や、著名な僧の多くが若い日に比叡山で修行していることから、「日本仏教の母山」とも称されている比叡山延暦寺
私が、人生で一番最初に、このお寺の名前を知ったのは、小学5年生の時、
「織田信長焼き討ち事件」が初めてだったと思う…
あれから、ウン十年経っても一度も行ったことのない
比叡山延暦寺
に足腰が丈夫なうちに、ぜひ!!との思いで行ってきました…
比叡山ドライブウェイを使って
延暦寺は、3つのエリアから構成され、
東塔エリアは現在、西塔エリアは過去、そして横川エリアは未来を体現しているとのことで
延暦寺というお寺があるわけでなく…比叡山という山自体がお寺…
とにかくエリアも3カ所あって、広い!広い!!
織田信長の「比叡山焼き討ち」も、そうとう大変だっただろうな…???なんて思いつつ
まずは、東塔エリアへと
駐車場でまず目に留まる「駐車場代無料!」
おお、駐車場代金!!無料!!無料!!と喜んでいましたが…考えれば、比叡山ドライブウェイの通行料が高かったことを思い出しました…
おかげで財布の中身が「ひえー(冷え―)ざん!!」
…と、しょーもないことを思う煩悩をぜひ、この比叡山で払拭しなくては…
「登叡成佛」と書かれた石碑
開山した最澄の直筆が四国の石に刻まれたもので、「比叡山に一歩踏み入れただけで成仏に一歩近づきますよ」という意味だそうな…
「比叡山に登れば、仏に成れるよ」ではなく…1歩近づくだけ…「仏への道」はずっと…遠い…
でも考えてみれば、そりゃそうだ…比叡山に登れば、仏に成れるんだったら、私の廻りには、仏様だらけになっちゃうもんな…(笑)
さてさて、東塔エリア、西塔エリア、そして横川エリアと、すべてのエリアを巡拝できる「諸堂巡拝券」が千円!さらに法華総持院東塔、戒壇院、そして、国賓殿に入れる特別拝観券が別途500円で合わせて1500円
比叡山に「参拝(さんぱい)」よりも「散財(さんざい)」だな…
「ひえー(驚きの声)、散財(さんざい)!」だから「比叡山」っていうのかな…なんてしょーもないことを思いましたけど…
ここは、仏と触れ合える場所…そんな巡拝券が高い!!なんていった煩悩だらけの、みみっちいことを思ってはいけません!!
さてさて、ブログの冒頭にも記したとおり
788年に最澄が薬師如来を本尊とする一乗止観院という草庵を建てたのが始まり…
そんな最澄上人について…大講堂へと続く坂道には…
御覧のような絵パネルがずらーっと
もう、これを眺めれば最澄上人のことが詳しくわかっちゃう!!
最澄上人のご誕生!家に光がさしてますなあ…だから、後々、 徳川家光により1642年に延暦寺根本中堂が再建された…そのことを予見するかのような絵ですなあ…「家が光る」…だけに
幼名は広野さま…と呼ばれていたようで
12歳で仏門、15歳で最澄と呼ばれるようになり、20歳には奈良の東大寺戒壇院にて具足戒を受け、僧侶の資格をすべて具備されたとのこと
比叡山のふもと神宮禅院にて、懺悔の行を行っていた際に、香炉の中に仏舎利をみつけ礼拝供養されたところ、多くの霊験があらわれたそうな
比叡山に入り修業される最澄上人
薬師如来、釈迦如来、阿弥陀如来の三体の仏像を刻む…
比叡山寺創建、そして「永代不滅の常燈明」を供えて「明らけく後の仏の御代まで光り伝へよ法のともしぶ」と詠んだそうな…
比叡山寺の楽慶
法華の宣布と高雄山寺での講演会の図
唐(とう)にもわたっていたんですね…仏舎利のおかげで助かったんですね…私もとう(糖)には気をつけなくちゃ!!??…なんのこっちゃ!
中国の天台山で法を受けたとのこと…そのときにも凄いことが起きていたんですね…
帰国し天台宗の開立
弘法大師とつきあっとたんかいーと、ドキッとするタイトル
レストランにて、弘法大師が「なんか、くうかい?」と…声を掛けてたりして…最澄は、「ここの料理、最高ー(最澄ー)」といったデートシーンが浮かぶ!浮かぶ!!いかん!煩悩が…
以上、これを読んだ読者のみなさんは最澄上人について、お酒でも飲みながら、熱く語りたくなってますよね…??
お酒を呑んで顔がさいちょう??…もといこうちょう(紅潮)…(笑)
これが、お寺の境内図…
御覧のように比叡山全体が延暦寺…なんですね…
さらに絵パネルは続く
ここからは最澄上人に影響を受けた僧侶シリーズ
相応和尚
平安時代前期の天台宗の僧、比叡山に無動寺を開創、千日回峰行の祖ですね…もう比叡山の自然と一体化してて、絵では「ウォーリーを探せ!」ならぬ「相応和尚を探せー」みたいになってますね
真盛上人
天台真盛宗の開祖、伊勢国で生まれた真盛上人は、比叡山で修行の後、荒廃していた坂本の西教寺を念仏と戒律の道場として復興したそうな…
良忍上人
融通念仏宗の開祖…私がこの状況だったら、念仏を唱えずに、竿をだすな…いかにもアマゴが釣れそうな???…(笑)
空也上人
口称念仏(口で南無阿弥陀仏と念仏を唱え人々に幸せをもたらす)
一般に浄土教、念仏信仰の先駆者
この絵をみても踊念仏っぽく、踊念仏の開祖と仰がれますが、
事実を証明するものはなく、
実際は、町の辻に集まってきた人々と念仏を唱えれば、人々も喜び、踊りながら念仏を唱えていたのが後世に伝わった説が正しいのかも…
ただし、空也が創建した六波羅蜜寺には「空也踊躍念仏」が受け継がれており、国の重要無形文化財に指定されているとか
法然上人…浄土宗の開祖
法然上人は、ただひたすら阿弥陀仏を念じてその名号を称えれば、どんな人でも阿弥陀仏によって極楽浄土に救い取られるということを悟る…具体的には「専修念仏」…一心に「南無阿弥陀仏」と念仏すること…
栄西禅師
臨済宗の開祖、14歳で比叡山延暦寺にて出家得度、以後、延暦寺で天台宗の教学と密教を学んだそうで…その場面の図…
栄西(えいさい)だけにえいさい(英才)教育を受けたことでしょう!!??
親鸞聖人…
あ、この方については、すでに五色園で学んだ!学んだ!
その時のブログを貼っておきますので、ご一緒にぜひぜひ!!
道元禅師…
曹洞宗の開祖…この曹洞(そうとう)宗の開祖にあたっては、そうとう苦労したに違いない…
日蓮聖人
日蓮宗を開祖…太陽に向かって「南無妙法蓮華経」を繰り返し唱えてる図
一遍上人…時宗の開祖…南無阿弥陀仏を一遍(いっぺん)(一度、一回)唱えるだけで悟りが証されるという教義…
南無阿弥陀仏をもう一遍(いっぺん)いう必要はなかったとのことで…
でも、おそらく耳の遠い信者さんもいただろうから、もう一遍(いっぺん)もう一遍(いっぺん)南無阿弥陀仏と言っていたのではないかとは…勝手な私の妄想
天海大僧正
安土桃山時代から江戸時代初期にかけての天台宗の僧、諡号は慈眼大師(じげんだいし)、徳川家康の側近として宗教政策に関与していたようで
図のラストは弁慶のひきづり鐘
その昔、三井寺が延暦寺と対立していた際、比叡山の武蔵坊弁慶が、三井寺の梵鐘を奪い、一人で比叡山の山上まで引き摺り上げ、撞いてみると関西弁で帰りたいという意味の「いのー、いのー」と響いたので、「そんなに三井寺へ帰りたいのか」と谷底へ投げ捨てたと伝えられているとのこと
その鐘は三井寺に残されていて鐘にはこの時の引きずったという跡が確認できるとか…
いやあ、このブログに遊びに来てくれたおかげで、仏教に詳しくなりましたよね…仏教なんてしんらん(親鸞)…もとい…しらん!とは言わせませんよ!!…(笑)
さてさてそんな図の看板を眺めながら歩いてたら
大講堂の前へと…
第一世天台座主義真和尚の建立によるもの…学問研究のために論議する道場で、5年ごとに行なわれる『法華大会』は天台宗の僧侶になるための登竜門ともなってるとか
現在の建物は昭和31年に焼失後、山麓坂本にあったものを移築したものだとか…
ご本尊は胎蔵界の大日如来で、右脇には十一面観音菩薩、左脇には弥勒菩薩の三尊がお祀りされていました…
手水舎は、思いの外、ジミ…
そばには、
吉川英治さんの「新平家物語」でも描かれた梵鐘が…
一突き50円!!
思えば…この2021年になって、ろくなことがない…仕事においても…仕事以外のこまごまとしたことにおいても
でも、たった50円で開運が転がり込んでくるなら、突きますがな!突きますがな!
少なくとも、私の煩悩が一つ減ったのは間違いない…
さてさて、その大講堂で気になったこと
堂内の禁止事項…
撮影、飲食、携帯電話禁止はわかるとして
問題は、この脱帽…
仏さまの前なので、脱帽してくれということなのか…いや脱帽そのものが禁止なのか???いやあ、仏の道は深い!!???深い!!???
大講堂の裏側には
瑞雲院縁起延暦寺法華三昧道場
その横には
前唐院
続いて立ち寄ったのが
萬拝堂
平成に入って建立された新しいお堂
日本と世界の諸神諸仏を祀るお堂で、
本尊は千手千眼観世音菩薩さま…もうピッカピカ!!
御本尊の周囲に巡らされている大きな数珠に触れながら、ぐるっと廻ると仏様のご加護があるようで…
もちろん、喜んで廻る!廻る!!!平和と人々の平安を祈願しながら…はい、そんな仏様なので…
千手千眼観世音菩薩さまの背中には
これまた、ピッカピカ!!
その隣は「一隅を照らす会館」
はい、手前には平ぺったい伊達政宗が…
館内は、休憩室のような作りで
そこには、まさに、これから立ち寄ろうと思っている
国宝 根本中堂大改修のVTRが流れてる!!令和3年4月29日から改修工事が始まって令和8年3月末まで改修工事が行われるようで…改修工事の期間も壮大さを感じますよね…5年間ですよ!5年間!!…私も還暦、超えちゃってますがな…
ここでは平和と人々の平安を祈願しながら、折り鶴を入れることが出来まして
はい、私もツルを折って、世界平和を願いながら…と、それ以前に「家族平和??」をも願いながら
折ツルをこの中に…
おみくじについての丁寧な解説もありました…
凶であっても、仏様からのありがたい助言なんですね…凶だからといって、絶叫(ぜっきょう)しないようにします!!
その手前には
大黒堂
三面出世大黒天が安置されてまして…はい、遠くの方に…1面だけ大黒天さまがみえました!!最澄が彫ったといわれる三面出世大黒天!!!正しい呼び方は「三面六臂大黒天」
右は毘沙門天、左は弁財天に挟まれて、どどんと中央の奥の方に…
比叡山は大黒天信仰発祥の地…最澄が比叡山へ登ったときに大黒天を見た場所なのだとか…
大黒堂横にある丸い石碑「〇佛」左側の字はなんだろう??
さて、続いては
この東塔エリアの総本堂である
根本中堂へと
先ほど紹介したように、改修工事中…石段を下りていくんですが
その左側には、お得意の図が…笑
東国教化と広済・広拯両院の建立
広済院と広拯院は平安時代初期に最澄(伝教大師)が東山道の神坂峠の東西のふもとに建てたと伝わる布施屋(無料宿泊所)のこと…旅人の便を図ったそうな
奈良仏教との対立
最澄の「法華経」の思想は、既得権益となっていた奈良仏教と対立を深めていったようで
学生式の制定と大乗戒の独立運動
「一遍を照らす」国宝的人材の養成に努めたようで
ご入滅…お亡くなりに…
滅後に比叡山延暦寺となり「日本仏教の母山」として現在に至ってる…そんな図の中心には根本中堂が描かれているも
目の前の根本中堂は工事中
事細かく修理のあらましがパネルによって、展示されてて
もう、このパネルをみただけでも、たいへんな工事であることが伝わってくる
これが入り口
最澄が788年に創建した一乗止観院が元で、織田信長による比叡山焼き討ちの後に、慈眼大師天海が時の将軍、徳川家光に進言し1642年に再建された国宝
本尊は秘仏の薬師如来…その薬師如来の前には黄金色で菊の紋が入った六角形の灯籠が3つ、これが開創以来1200年以上も灯し続けられている
「不滅の法灯」
薄暗い中に灯る法灯…なんとも魔訶不思議なのに、とても穏やかな気持ちで見入ってしまう…
さてさて、この工事中のところだけは撮影可能…
ある面、完成されちゃうとみれない貴重な図???なのかも
ビジョンには根本中堂大改修のVTRが流れてる!
こんなふうに屋根を見下ろせちゃうのは、この工事中だからこその特典???なのかも??
さて、総本堂の根本中堂のそばには
福田海奉納牛像が
先代は 昭和年奉納の銅像牛だったそうですが…残念なことに太平洋戦争での金属集めで供出されてしまったそうで…これは2代目
さら別の方向には
最澄の「天台法華宗年分学生式一首」が刻んだ石碑
「山家学生式」の名称で有名な上表文の冒頭が刻まれていまして
この写真の左側の石碑がそれ
伝導大師童形像…最澄の子供の頃の像ですね
その右側には…「南無根本傳教大師」と刻された大師坐像
これは、伝導大師の…その後…でしょうか…
若干、運動不足、肥満傾向あり…のように思われるが
これらの像を左に回り込んだところに建立されているのが、
「宮沢賢治歌碑」
根本中堂 ねがはくは 妙法如来正遍知 大師のみ旨成らしめたまえ
「妙法如来」とは、根本中堂の本尊として祀られている薬師如来のこと…
「正遍知」とは「正しく悟った人」という意味の仏の一つ…薬師如来のこと…
「大師のみ旨」とは、最澄が十九歳で入山した時の「願文」の「回施して悉く皆無上菩提を得せしめん」という部分を指しているとのこと
こんな歌を宮沢賢治が20歳の頃詠んだなんて…若いのに、もう悟りの境地に近づいているような…年寄りっぽいというか…ある面、驚いたというのが本音
この歌が残されているということは、当然宮沢賢治も、ここに参拝にきてたんですね…ということで…ぐぐってみると…
この歌は宮沢賢治が父政次郎氏とともに、比叡山延暦寺に参詣した時に、詠んだという歌でして、無断上京して国柱会の活動をしていた賢治を、政次郎氏は関西方面の旅行に誘ったそうな…
当時、浄土真宗の篤信家であった父と、「純正日蓮主義」を掲げる国柱会に心酔して家出した賢治は、深刻な「宗教対立」にあったそうで
このような状況を解決しようと、政次郎氏は浄土真宗も日蓮主義もルーツが一緒である延暦寺に着目したとのこと
さて比叡山延暦寺の山門にあたる
文殊楼
は、根本中堂から、この急な石段を登った上にあります…
徒歩で、この比叡山延暦寺までのぼってくると、山門である「文殊楼」をくぐって、この石段を降りて根本中堂にて参拝と言った流れが正式な参拝ルートでしょうが…駐車場は、ちょうど「東塔エリア」の裏側にありますから…私もそうですが、ほとんどの方が、根本中堂にて参拝後「文殊楼」に立ち寄る…といった形になっちゃってますね…
さてさて、石段は急すぎる…足を踏み外して転落したら大怪我必至…
石段の途中で背後を振り返れば
ひぃひぃふぅふぅ…
昇り切った…汗
あ、こちらが裏なのね…ってことに気づき…正面に廻って
「文殊楼」は慈覚大師円仁が864年に創建したもの…その後何度も焼失し、現在の堂は1668年に再建されたものだそう…比叡山の総門の役目を果たす楼門
中は立ち入ることができなくて、写真パネルが1枚
この「文殊楼」は谷崎潤一郎さんの作品「二人の稚児」の舞台になっているようで
幼い頃に比叡山に預けられた、二人の少年は…
女人禁制の地で育てられるが、年ごろになるにつれ、「女人」を見てみたいという煩悩がもたげてくるようになる…
煩悩でいっぱいな私には、興味を注がれる作品でして
そばには、漢俳碑
比叡山開創1200年を記念し、中国仏教協会から贈られた漢文の俳句(漢俳)五首(比叡山讃、趙樸初)が刻された石碑
この「文殊楼」から、見下ろすと小さな山門のようなものが
これは「大書院の門」…皇室・高僧・勅使の宿坊・休憩所に迎賓館として使用されているそう…昭和天皇が即位された際に迎賓館として用意された建物なんだとか
一般参拝者は立ち入り不可となっています…
さてさて、「文殊楼」からさらに奥…森の小径を歩いていけば
鳥居があって
そこは星峯稲荷社
稲荷社なので神社かなって思ったんけど…仏様とのこと
延暦寺が出来た頃に荼枳尼天さまが白雪をまとった狐の化身で人々の罪を祓ったという故事があり、以来このお堂にて祀られているとか
まあ、言うなれば豊川稲荷と同じ…仏様だったのよ!
ということを、御朱印いただいたおじ様からききまして
しまった!神社のように「二礼二拍手一礼」してしまった…
しまった!とうどう…もとい…とうとうしくじっちゃった…とうどう(東塔)地域だけにね…という実に微妙なオチを挟んで…
長くなっているので…今回はここまでにしておいて
…次回へ続く…