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日蓮聖人のご霊跡めぐり

日蓮聖人とそのお弟子さんが歩まれたご霊跡を、自分の足で少しずつ辿ってゆこうと思います。

追分感井坊(身延町身延)

2018-06-10 20:23:58 | 旅行
身延山奥之院思親閣の参拝も済ませたし・・・次に急ぎましょう。


お、ここから七面山を望めるのかな


わ~、濃霧で無理だ~!
でもここは七面山の遙拝所みたいです。それこそ女人禁制の時代は、ここで懸命に拝む女性が沢山いたのでしょうね。


七面山はこっちだな。


今日の目的地・白糸滝まで10キロ、2時間てとこかな?


霧の林道って、結構心細いもんです。
時々猿が横切ったりして、心臓が止まりそうになる~


何だろう?柵に囲まれた石がある・・・


傍らにお題目の法塔があるぞ。


「日朗聖人腰掛石」
身延山の西側からは、日朗上人のご霊跡が沢山あるって聞いたことがあります。
往時を想像しながら、合掌。


久遠寺のショベルローダーがあるんですね!


これだけの山中で道を維持してゆくためには重機が必須だということ、実際に歩いてみるとよ~くわかります。


思親閣から30分くらいかな?霧の中に建物が現れました。


追分感井坊です。


この紋、どこかで見たことある・・・そうだ、柴又帝釈天!


菱形にぐるぐる渦巻いている紋、帝釈様のですよね!(↑画像は柴又帝釈天=経栄山題経寺)


日蓮聖人のご一行が身延山に登り、疲れてしまい水が欲しいと思っていた頃、帝釈様が姿を現して水場を教えてくれたそうです。
お祖師様は日朗上人をその場所に遣わせました。


日朗上人は急いで示された場所に行ってみました。
しかしいくら探しても水の気配はありません。

探し疲れて・・・途方に暮れていると・・・帝釈様が再び現れ、具体的な場所を教えてくれました!


日朗上人が懸命に掘ると、清く冷たい水がこんこんと湧き始めました!

急いで汲んで日蓮聖人の所へ持って行きました。
お祖師様はこのお水を「帝釈天王の御水」として、ありがたく頂いたそうです。


そしてお祖師様自ら、帝釈様のお像を刻し、由緒ある地にお祀りしました。


現在その場所には帝釈様のお堂、そしてその縁起から、こちらの坊は「感井坊」と呼ばれるようになったそうです。



今まで知らなかったのですが、帝釈様って四天王を従える偉い王様なんですね。
四天王は毎月の「六斉日」に人々の善悪を見て廻り、帝釈様に報告(!)するんだって!

ちなみに「六斉日」は8、14、15、23、29、30日だそうです。気をつけなくちゃ!!


感井坊は「追分」といわれるだけあって、古くから山道の三叉路として重要な場所でした。
七面山、奥ノ院、御廟という宗門にとって最高の聖域に通ずる道が分かれているのです。


休憩所もあるので、とても重宝されてきたはずです。


よ~し、帝釈様にお参りしたし、行きますか!
あれ?この先、行けるのかな???

奥之院思親閣(身延町身延)

2018-06-10 18:00:57 | 旅行
日朗上人の井戸をあとにし、雨の山中をひたすら登ります。


そこからほどなくして41丁目、何やら木造の建物が!


タダものじゃない感が十分のこの建物、「東照宮祠」だそうです。


身延町の指定文化財にもなってるこの祠、東照宮というだけあって、徳川家康を供養するための建物だそうです。
身延のお山に家康の祠、となればあの方でしょう。


養珠院お萬様は身延山で家康供養の大法要を修したそうです。
法華経一万部を読誦したといい、その時のお位牌がお祀りされていると思われます。

一人で一万部はヤバいでしょ、十人で千部ずつ、いや、大法要っていうくらいだから百人で百部かな?う~んそれでもキツいか・・・
僕みたいな凡人には想像できない規模です。


47丁、48丁、49丁・・・もう少し!
わ~!視界が開けてきた~!
さっき参拝した大光坊の赤い屋根があんなに小さい!!


そして50丁!!やった~!
ちなみにこれ、三門からの通算です。菩提梯も含まれてますからね!


身延山頂にあるご霊跡、奥之院思親閣です。


まずは日蓮聖人のご尊像に合掌。


こちらのご尊像、表情がリアル!
その上、雨に濡れていて、滝に打たれているお祖師様のようにさえ見えました。


思親閣は標高1153mもあるそうです。


お祖師様が自ら植えた杉の木が、現存しているそうです!


右がお父様・妙日尊儀、左がお母様・妙蓮尊尼を想って植えた杉だそうです。


そしてお堂の奥が日蓮聖人の恩師・道善房上人を想って植えた杉。

いずれも元気に枝葉を茂らせています。
お手植えの植物が700年以上を経てなお、そこに生きている・・・文明の発達しすぎた21世紀の現代に、こんなアナログな感動ってあるんでしょうか。見えない何ものかを信じざるをえません。


そしてこれが立正安国杉だそうですが、こちらは寿命を迎えてしまったのかもしれません。
お疲れ様でした。多くの信徒たちの心に生きていますよ!


階段の先には仁王門


案内には「六浦平次郎入道の建立」とありました。


六浦平次郎入道というと・・・
(↑画像は横浜・金沢八景の上行寺の縁起)
横浜・金沢村に住んでいた妙法坊の夢にお告げがあり、仁王像2体を背負って3日3晩歩き・・・


身延山の三門に奉納した、あの妙法坊改め日荷上人のことですね!
奥之院の仁王門も建立してるなんて、スケールでかすぎます。


「思親閣」の名の通り、日蓮聖人はこの標高1153mの峰から、遠く安房の亡くなった両親を想って何度も祈った場所だそうです。


お釈迦様の座像、霧が濃くて逆にリアル!


お父様の遺骨を埋めるため、年老いたお母様とともに、遠く京都からこの山頂にやってきた江戸時代の僧侶・元政上人の埋髪塚がありました。
元政上人自身、病弱な方だったようですが、どんなに遠くても、どんなに危険を冒しても、それでも一生に一度はお祖師様のお山に登りたいという気持ちに、心を打たれます。
そして苦労してたどり着いたこの場所に、何かしらの痕跡を残したいと思ったのでしょう、出家した時に剃髪した髪をここに埋めたという上人に、同情の念を抱きました。


今はロープウェイで片道7分で来ることができますけどね・・・今回歩いて登ってみて感じたこと、得たこと、自分の宝物にしたいと思います。


さぁ、七面山に向けて、少し急ぎますか!

日朗上人御手作井戸(身延町身延)

2018-06-10 15:58:14 | 旅行
梅雨入りしたばかりの6月初め、長い間の念願であった七面山登詣を妻と二人でしました!

最近では車で七面山の麓まで行き、日帰りで登下山をする方も多いと聞きますが・・・
せっかくの機会なので敢えて、僕たちは古(いにしえ)の先輩信徒達が信仰登山に用いた道を、歩いてみようと決意しました。

2泊3日の登詣の道では、日蓮聖人とそのお弟子さん達のご霊跡が沢山ありましたので、少しずつ紹介したいと思います。


旅の前日午後に、身延に前乗りしました!
時間があったので久遠寺本堂地下にある宝物館を見学しました。


現在、「女人の法華信仰」という特別展示をしていました。
特に女性信徒に七面山登詣の道を開いた養珠院お萬様に関する展示が充実していましたよ!


御廟を参拝。
明日からの旅、十分な敬意を払い真剣に登ります、とお祖師様に誓いました。


お萬様の墓所にも手を合わせました。


来週は開闢会なんですね!
境内の至る所で幕を替えたり枝を払ったり、準備が進められていました。


今晩は三門横の松井坊さんに前泊!
お世話になります!!


松井坊は14世紀中頃に波木井家の方が開いたということです。


伝教大師がお作りになったといわれる、妙見様のご尊像が安置されているそうです。

食事が美味しくとても居心地のいい松井坊で、ぐっすり熟睡しました!


翌朝は天気予報通り、雨!
この雨で関東甲信地方は梅雨入りとなりました。
朝5時に三門をくぐり、旅はスタート!
※雨のため、画像が不鮮明な部分があります。


ピントが合ってなくてごめんなさい!
目の前に屹立する菩提梯に動揺してたのかな~!?
最初の関門です!


ほぼ45度の287段!
お題目を唱えながら・・・


何とか登り切りました!


本堂で5時半からの朝勤に参加したあと、松井坊で用意してくれたお弁当で朝食を摂り、


7時に出発!!
上の山をひたすら登ります。


本地堂を過ぎ、まずは10丁目!


丈六堂を参拝。お釈迦様、見守って下さいね!


わ~、霧が濃くなってきた


20丁を過ぎて


大光坊を参拝。
大黒様、妙見様にも旅の安全を祈りました。


ここからは歩行者のみの道になります。


当然、舗装もなくなります。


倒れちゃってるけど30丁っ!


青木林という杉林。
違う次元の世界に来たような錯覚。


そして・・・
ちょうど40丁目


お?建物だ!
大光坊を過ぎて以来、久しぶりの建物なので、すごく安心します。


水屋・法明坊です。
「日朗菩薩鏡井戸」って書いてあるぞ。


これがその井戸ですね!


日蓮聖人とともに身延山頂(今の思親閣のあるあたりかな?)に登られた日朗上人は、日蓮聖人の喉が渇いているんだろうな、と覚ったそうです。
しかし頂上に水などありません。

早速日朗上人はどこかに沢の水、湧き水などがないか、山中を探しに行きました。


もちろん一面の深い森、それも道なんか整備されてない単なる急斜面ですから、飲み水探しは難儀したと思われます。


鬱蒼とした山中を10丁ばかり下って、日朗上人はやっと、やっと石清水を見つけたそうです。

・・・実際に歩いてみるとわかりますけどね、せっかく登った急斜面の10丁を下るのって、ものすごくやるせないっていうか、喪失感があるんですよね~


日朗上人は竹筒に水を汲み、また10丁を登って日蓮聖人に差し上げました。
本当に冷たくて美味しい水だったのでしょう、日蓮聖人はとてもとても喜んだそうです。

以来、日蓮聖人が身延山を登る際には、日朗上人がこの石清水を汲んで差し上げたそうで、「日朗上人の井戸」と呼ばれるようになったといいます。


(↑は鎌倉松葉ケ谷・安国論寺の日朗上人御荼毘所の扁額)
日朗上人のご霊跡には「師孝第一」の文字が多く見られますが、日蓮聖人の為であれば自分の犠牲を厭わない、その姿勢は時代を超え、現在でも僕たちの心を揺さぶります。
実際にその場に行ってみるとなおさら、そう思うはずです。


法明坊は山頂まであと10丁、いちばんキツい場所にある貴重な休憩所でもあります。
当日はこのへんから雨が本降りになってきたので、屋根と椅子のある小屋がありがたかった~!


さあ、頂上の思親閣までもう少し、カラ元気で頑張るぞ~!!

開本山妙顕寺(佐野市堀米町)

2018-06-04 21:29:15 | 旅行
中老僧・天目上人
日蓮聖人がご入滅された時も、お近くで一心に読経していらっしゃいます。
[↑画像は「高祖日蓮大菩薩御涅槃拝図」(大坊・本行寺で購入)より]
お祖師様ととてもご縁が深いお弟子さんだったことが窺えます。


僕が初めて天目上人のお名前を知ったのは、ごく最近です。
今年の春、梅の花が咲く頃に訪問した横浜の本興寺
このお寺の縁起の中で、天目上人を知りました。


もともと鎌倉の辻説法跡あたりに天目上人が開いたお寺である休息山本興寺が、横浜の日蓮宗本山・法華山本興寺のルーツだと、縁起にありました。

調べると、また別に天目上人が開山したお寺が栃木県の佐野にあることがわかり、えいやっ!と訪問してきました!!


栃木県佐野市といえば佐野ラーメン!
お寺を訪問する前におなかがすいたので、「太七」という店で一番人気のネギラーメンを注文!
大量のネギで埋もれてますが、平打ちでコシのある麺とあっさりとしたスープは最高に美味でした!


佐野の町なかにありました!
妙顕寺です。
そういえば日蓮宗新聞一面の下側に、いつも広告を出しているお寺ですね~!


佐野駅から北東に数百メートル、前を走る県道は結構交通量が多いです。
また、すぐ近くに佐野城跡があります。


山号は開本山です。


正面の題目法塔の側面には「鬼子母善神」と刻まれています。


入り口の左右に巨大な銀杏の木!
お寺を護る仁王像のようです。


まずは日蓮聖人のご尊像に合掌。


結構年数を経た石像です。他寺の銅像と比べると素朴な感じがしますが、表情は・・・お祖師様だぁ!


本堂に参拝。
最近建て直したのかな?新しさを感じました。
僕の家の菩提寺も今年再築され、落慶法要を行いました。ご住職、お檀家さん方の苦労が偲ばれます。


扁額には山号の開本山の文字・・・ん?揮毫者の名前、有名な人なのかな?

調べると金玉均は「キムオッキュン」といい、当時、実質清に支配されていた李氏朝鮮の人で、清からの独立を本気で実行しようとして暗殺されてしまったそうです。
金玉均氏は明治時代に日本で学び、明治維新を果たした日本を参考にして独立運動を画策しました。当然清から命を狙われ、日本に潜伏した時に、佐野の須永元という人のところで匿われたといいます。
その縁で、当時、須永家(佐野では名家だったらしい)の菩提寺であった妙顕寺の扁額を揮毫したみたい。

扁額ひとつでも・・・ふ、深い~!


もうひとつ、扁額の周囲、よ~く見ると葡萄の木で遊ぶリス!か~わいい♡
これにも由来がありそうですが、わかりませんでした。


境内の西側に天目上人のお墓がありました。


日蓮聖人のお弟子さんはみんな日○上人ですが、天目上人は「日」がつかないの?って思ってましたが・・・
天目上人は天目「日盛」上人なんですね!


天目上人がこの地域で布教していた時に、唐沢城の城主が帰依した縁でお堂を開いたのが妙顕寺のルーツです。
のちに将軍・足利義教から寺領を賜り、唐沢城主・佐野家の祈願所となったそうです。

唐沢城は平安時代からあった山城で、上杉謙信が攻めあぐんだ名城だそうですよ。


のちにお寺は全焼してしまいましたが、唐沢城が佐野城に移転した際、鬼門除けとして現在地に妙顕寺が再建されたそうです。


鬼子母神堂です。
中老僧である日弁上人ご親刻の鬼子母神像がお祀りされているそうです。


歴代お上人の御廟を参拝。


天目上人は、六老僧の中で一番年少の日向上人よりもさらに若く、日蓮聖人と34才も年齢差がありました。当時としては親子以上の差になると思います。


実は天目上人の母方のお祖父さんは、熱原法難で斬首されてしまった熱原兄弟の一人、熱原神四郎公なのだそうです。
熱原法難は日蓮聖人にとっては最晩年に起こった、愛する弟子たちの殉死事件であり、お祖父さんを亡くした天目上人に心を痛めていたと由緒に書いてありました。


時の領主に全幅の信頼を受けて、妙顕寺で安泰の人生を送ることも出来たであろうに、しかし天目上人は生涯を布教に捧げ続けたそうです。


熱原の血の誇りもあったでしょうし、日蓮聖人が逆境と闘いながら布教を続けた姿を、天目少年は若く多感な時期に実際に見ていたからかもしれません。

布教先の今の茨城県笠間市の山中で亡くなったといいます。天目上人自らが開いた修多羅寺というお寺に、お墓があるそうです。
(妙顕寺の天目上人墓所にも分骨されているそうです)

是非一度、お参りしたいものです。

下栗須祖師堂(藤岡市下栗須)

2018-06-02 10:16:00 | 旅行
文永8(1271)年10月14日、児玉の領主・児玉時国公の邸をあとにした日蓮聖人は、更に北に向けて歩き出しました。



児玉時国公の案内で、10キロほど離れた現在の藤岡市下栗須に至ったそうです。
その晩、この地に住んでいた栗生長源公の邸にお泊まりになったといいます。


現在、その邸の跡には小さなお堂があります。


下栗須祖師堂です。


まずは日蓮聖人のご尊像に合掌。


頬の張りなどから、体力的にも充実している頃のお祖師様ですね。


この法塔に刻まれたお題目の文字、ものすごくバランスが良くて、しばらく魅入ってしまいました。


このお堂は妙法結社が維持・管理されているんですね!
僕の妻の実家は小さな日蓮宗教会をしていますが、続けてゆくのに大変な苦労をしています。
結社も同様でしょう。本当に頭が下がります。


お上人がいらしたので、お話を伺いました。年配の、柔和なお上人でした。
日蓮聖人は佐渡に向かわれる時も、ご赦免になって鎌倉に戻られる時も、ここ下栗須にお立ち寄りになったそうです。


お堂の前の、軽自動車でもキツそうな細い路地が、日蓮聖人のご一行が通った鎌倉道だそうです。


10月14日の晩、栗生長源公は日蓮聖人のお説法を聞き、その教えに深く帰依したそうです。
そしてのちに自分の邸を「長源寺」というお寺にしました。


佐渡をご赦免になった日蓮聖人に再会できた栗生長源公は、どんなに嬉しかったことでしょう。
そして、佐渡で苦難を耐えてきたその間に、邸が何とお寺に変わっていたのを目の当たりにして、日蓮聖人もどんなに心を打たれたことでしょう!


下栗須から鎌倉へ向かう際、栗生長源公は「長谷川」という場所まで日蓮聖人を送っていったそうです。
日蓮聖人は長源公に、長谷川を姓とすることをアドバイスされたといい、以後、「長谷川長源」を名乗ってきました。
児玉時国公が久米川に姓を改めたエピソードに似ていますね。

しかし、長谷川という場所はどこなんだろう?う~ん、わかりません。ご住職に聞いておけば良かった(後悔・・・)


境内にお墓がありました。長谷川長源夫妻の墓所です。


石にご夫妻の命日と戒名が刻まれていました。
長源公の命日は建治3(1277)年ですから、ここにお寺を開いてから5年ほど後に亡くなったと思われます。
5年というと短いですが、晩年の長源公にとって、本当に充実した5年だったのではないでしょうか?


長源寺は江戸時代に福聚山天竜寺と寺名を変え、下栗須から藤岡へと移転しました。
藤岡城主の内室・了源院が熱心な法華信者であったことが関係しているようです。


実はお話を伺った下栗須祖師堂のお上人は、もともと天竜寺のご住職だったそうです。
現在、天竜寺はお弟子さんに任せ、ご自身は下栗須祖師堂に「隠居してるんです」と仰っていました。


ところで、天竜寺の参道にこんな看板がありました。
日蓮聖人御真筆の方便品十六字が天竜寺に格護されているそうです!

僕は普段、方便品第二は十如是までしか読みませんが、実はとっても長いということだけは知っていました(笑)。
一生懸命探して、後半の偈文の中の一節に見つけました!

「我本立誓願 欲令一切衆 如我等無異」

を引用されているのだと思います。


意味もはっきりわかりませんが、お釈迦様は衆(人々)のために誓いを立てた、的なことだと思います(←ざっくりすぎ!)

なぜこの十六字が残っているのか、看板に書いてありませんでした。
ただ、「誓願」というと、佐渡で著された開目抄の中で、日蓮聖人は三大誓願の決意表明をしていますので、それに関するお説法をした時の記述なのかもしれませんね。

ちなみに長谷川長源夫妻の戒名の院号いずれにも「誓」という文字が入っていましたよ。


ここまででもう十分、感動と驚きで満たされたのですが・・・
実はもう一つ、下栗須祖師堂のお上人に教えて頂いたマル秘情報があるんですよ(笑)
下栗須祖師堂から南西に2キロくらいのところに、冨士浅間神社があります。
冨士浅間神社ですから富士山信仰の神社だと思います。


実はこの神社、もともとはこの地域の有力者のお墓にあった祠をルーツとした、藤岡の守り神だったらしいのですが・・・


神社の由緒によると、日蓮聖人が佐渡から戻る際にこの神社を訪れ、八軸のお経を納めたそうです。
そして富士山信仰の篤かった日蓮聖人は、祭神である木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)の御霊をこの神社に移し、それ以来、社名が冨士浅間神社になったということです。
また、「藤岡」という地名は「富士岡」が変化したものなのだそうですよ!


境内には地元の富士講の方々が奉納した記念碑がいくつもありました。

寄居、美里、児玉・・・など、秩父連山の東側は富士山信仰に篤い地域で、江戸時代には多くの富士講があり、現在もあるようです。富士塚もところどころにあります。
僕の妻の先祖もこの地域で、ある富士講の先達さんをしていたと聞いたことがあります。

勝手な想像ですが、日蓮聖人の佐渡往還の経路と、これら富士山信仰が盛んな地域が重なるのは、もしかしたら日蓮聖人に端を発しているの・・・かもしれません。


昨夏に訪れた富士山経ケ嶽
日蓮聖人が国家安泰を祈念して富士山に登り、ここで百日間法華経を読誦し続けることができたのは、塩谷平内左衛門公の協力があってこそでした。


塩谷平内左衛門公は北口本宮冨士浅間神社の宮司をしており、従って富士山での日蓮聖人の活動をバックアップできたのだと思います。


塩谷平内左衛門公は日蓮聖人の教えに帰依し、自分の邸を法華経の布教所にしました。(↑現在は吉祥山上行寺となっています)


日蓮聖人が富士山経ケ嶽に籠ったのが、佐渡ご赦免の6年前。
塩谷平内左衛門公との強固なネットワークも、藤岡の冨士浅間神社の始まりに大きく関わっていたと考えられます。


あ~、藤岡、想像以上にディープな場所だった!
もうおなかいっぱい!