日蓮聖人のご霊跡めぐり

日蓮聖人とそのお弟子さんが歩まれたご霊跡を、自分の足で少しずつ辿ってゆこうと思います。

松樹庵(身延町身延)

2018-06-15 19:38:00 | 旅行
久遠寺の境内から西の山中を望むと、赤い屋根が見えるのをご存じでしょうか?
僕は以前から、「何だろうな~?結構な斜面に建ってるけど、民家かな?」と疑問に思っていました。


今回、七面山を下山し、徒歩で山越えをして御廟に至る途中で、赤い屋根の正体を突き止めましたので報告します!


雨の往路と違い、復路は快晴でしたが、道の悪さは相変わらず!
お祖師様もご遺文の中で「山には瓦礫より外には物なし」(妙法比丘尼御返事)と書いているように、身延山の地質は結構もろい、ということが今回よ~くわかりました。


追分感井坊まで戻ってきて、今度は千本杉・三門方面に向かいます。


右側だな・・・わーい、下りだ~!


これがまた、なかなかの下り道がず~~っと続くので、足にきます。


杉の大木がニョキニョキ!県の天然記念物・千本杉です。


わ~!久遠寺と門前町が見えて来た~!
嬉しさひとしおです。


シマヘビも歓迎してくれてます!


今回、本当によくヘビに会ったな~。


小さい祠がありました。


3日間にわたり、お山を歩かせて頂き、心から感謝です。


久遠寺境内から見える赤い屋根は、この屋根だな!


松樹庵(しょうじゅあん)です。


扁額には「宗祖袈裟掛松」とあります。
日蓮聖人の松にまつわる逸話があるようです。


日蓮聖人は文永11(1274)年から弘安5(1282)年まで、8年以上にわたって御草庵で暮らしました。


身延山久遠寺の朝勤では毎日、身延山のことを記した日蓮聖人のご遺文を、少しずつ読んでいることを最近知りました。
身延山の厳しい環境の中で、日蓮聖人が自然に逆らわず、とても質素に暮らしたことがよくわかります。
「深山なれば昼も日を見奉らず。夜も月を詠る事なし」(妙法比丘尼御返事)
樹木の陰で昼夜を問わず暗かったのでしょうね。


ある夜、日蓮聖人は山の中に、明るい光を放つ大樹を見つけました。
とても明るくて、手元の文字すら読めるくらいの光だったといいます。


のちに日蓮聖人は山に登り、その大樹を見つけました。それはそれは、見事な松でした。
「鎌倉にでもあれば人々に銘木だと言われるだろうに、こんな誰も来ない山奥にお前はいるのか・・・。」
お祖師様は松に今の自分を重ね合わせたのかもしれません。
松の木を撫で、袈裟を掛けて、しばらく木の傍らで休憩されたそうです。


それ以降、日蓮聖人は奥之院に登る時は、ここにあった松の大樹の下で休憩されたといいます。
胸が熱くなるエピソードですね。


(↑松樹庵の歴代お上人の御廟)
江戸時代になり、忠臣蔵の浅野家の家臣の人が、母の遺骨に四十七士の戒名を添えて身延山にやって来た時に、老木となったこの松に遭遇しました。
そして老松の由縁を知って感じるところがあったのでしょう、この人は出家し、老松を切って日蓮聖人のお像を祀るお堂を建てたそうです。
そして亡くなるまでずっと、追善供養をし続けたといいます。
松樹庵のルーツです。


袈裟懸けの松というと、弘長元(1261)年、伊豆法難のときに俎岩に置き去りにされ、ズブ濡れになった袈裟を掛けたという伊東・蓮着寺の松


文永8(1271)年に龍ノ口の刑場へ連行される際、せめて袈裟だけは血に染まらないようにと掛けた鎌倉・稲村ヶ崎の松


そして松樹庵の逸話から7年後の弘安5(1282)年、身延山を下りて常陸の湯に向かったがもう相当体調が悪く、池上宗仲公の邸に身を寄せようと思ったのでしょう、長旅で汚れた足を池で洗う際に、袈裟を掛けたと言う池上・洗足池の松があります。

松は寿命が短いのでしょうね、いずれも現在は2代目3代目になっており、杉や公孫樹のように現役で残ってはいないのが残念です。
しかし、日蓮聖人が大事な局面で、自らの袈裟を松に掛けてきた理由が、今回松樹庵を訪問して何となく理解できたような気がします。


さぁ、あと少しで旅が終わる。

もうひと踏ん張り!