イエズス会陰謀説はイエズス会(及びその背後にあるポルトガル勢力など)が信長を亡き者にしようと企んで光秀を操って謀反を起こさせたり、本能寺を爆破したりという説です。ある研究家が2004年に出版した本で大々的に打ち出したので、こういった説があることはかなり知られているのではないでしょうか。
★ Wikipedia「イエズス会」記事
結論を先に言ってしまうと足利将軍黒幕説が当時の政治状況や古文書(こもんじょ)の記述を材料に「真面目」に考えられたものであるのに対して、イエズス会陰謀説は失礼ながら「不真面目」な説と言わざるを得ません。
★ 足利将軍黒幕説を斬る!
なぜならば、あまりに史実(信憑性ある史料に書かれていること)と離れた観念のレベルで組み立てられた説だからです。「歴史捜査」の観点から言えば「荒唐無稽な証拠で冤罪を生み出している」ということになります。
★ 真実解明の手法「歴史捜査」
「光秀の個人的な感情を動機とし、答を先に作り、それに合いそうな信憑性のない話をかき集める」という本能寺の変研究の誤ったやり方の典型のように思えます。
★ 歴史研究アプローチ(その1)信憑性のない史料の排除
★ 歴史研究アプローチ(その2)性格論・私情論の排除
★ 歴史研究アプローチ(その3)答の先出し・論理の後付けの排除
それでは、例によって動機からみてみましょう。はたして、どの程度の蓋然性(がいぜんせい:確からしさ)が認められるでしょうか?
イエズス会には信長を殺さねばならない動機があったのでしょうか?
これが全く考えられません。
なぜならば、信長はイエズス会の庇護者だったからです。しかも、当時の日本における最高権力者です。これほどイエズス会にとって好都合な存在はなかったのです。その人物をイエズス会が抹殺しなければならない理由が見つかりません。
この説を唱える研究者はイエズス会を先兵とする南欧勢力が信長を援助して天下を取らせようとしてきたが、信長の態度が変わったので抹殺することにした、という仮説を立てています。
ところが、イエズス会宣教師(ルイス・フロイスら)が本国のイエズス会総会長へ送った報告書類などを見ても、当時のイエズス会は信者を増やすための布教活動にきゅうきゅうとしており、信長にすがって布教活動を行わせてもらっているという状況でした。どう見てもイエズス会陰謀説を唱える研究者が認識するような「上から目線」の状況ではないのです。
★ Wikipedia「ルイス・フロイス」記事
★ Wikipedia「フロイス日本史」記事
イエズス会が畿内地域で布教を進める上での大きなピンチが少なくとも2回ありました。
1回目は将軍足利義輝が三好三人衆に暗殺されたときです。義輝はイエズス会を庇護して京都での布教を認めていたのですが、三好三人衆は布教を認めず、宣教師のフロイスを京都から追放してしまいました。
★ Wikipedia「足利義輝」記事
★ Wikipedia「三好三人衆」記事
このピンチを救ってくれたのは信長です。足利義昭を担いで上洛した信長はフロイスの帰京と布教を認めたのです。
2回目のピンチは荒木村重が信長に謀反を起こしたときです。信長は村重に味方した高山右近を寝返らせるためにイエズス会を利用したのです。高山右近は熱心なクリスチャンであり、イエズス会と最も親しい日本人の一人でした。イエズス会にとっては信長からの依頼は「脅迫」であり、もし右近説得に失敗すればキリスト教徒が迫害されイエズス会も追放されるという危機感を抱き、かなり追い詰められた状況に陥りました。
★ Wikipedia「荒木村重」記事
★ Wikipedia「高山右近」記事
このピンチはイエズス会の必死の説得が功を奏して右近の寝返りに成功し、村重の謀反が鎮圧されたことで回避できたのです。
このようにイエズス会は信長にすがって、その庇護の下にようやく布教を進めていたというのが本能寺の変当時の状況だったのです。イエズス会陰謀説は状況認識からして史実とはかけ離れたものといえます。
★ amazonのフロイス日本史(信長とフロイス)のページ
((続く))
【お知らせ】
本ブログは『本能寺の変 四二七年目の真実』著者のブログです。通説・俗説・虚説に惑わされない「真実」の世界を探究します。
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★ Wikipedia「イエズス会」記事
結論を先に言ってしまうと足利将軍黒幕説が当時の政治状況や古文書(こもんじょ)の記述を材料に「真面目」に考えられたものであるのに対して、イエズス会陰謀説は失礼ながら「不真面目」な説と言わざるを得ません。
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★ 歴史研究アプローチ(その2)性格論・私情論の排除
★ 歴史研究アプローチ(その3)答の先出し・論理の後付けの排除
それでは、例によって動機からみてみましょう。はたして、どの程度の蓋然性(がいぜんせい:確からしさ)が認められるでしょうか?
イエズス会には信長を殺さねばならない動機があったのでしょうか?
これが全く考えられません。
なぜならば、信長はイエズス会の庇護者だったからです。しかも、当時の日本における最高権力者です。これほどイエズス会にとって好都合な存在はなかったのです。その人物をイエズス会が抹殺しなければならない理由が見つかりません。
この説を唱える研究者はイエズス会を先兵とする南欧勢力が信長を援助して天下を取らせようとしてきたが、信長の態度が変わったので抹殺することにした、という仮説を立てています。
ところが、イエズス会宣教師(ルイス・フロイスら)が本国のイエズス会総会長へ送った報告書類などを見ても、当時のイエズス会は信者を増やすための布教活動にきゅうきゅうとしており、信長にすがって布教活動を行わせてもらっているという状況でした。どう見てもイエズス会陰謀説を唱える研究者が認識するような「上から目線」の状況ではないのです。
★ Wikipedia「ルイス・フロイス」記事
★ Wikipedia「フロイス日本史」記事
イエズス会が畿内地域で布教を進める上での大きなピンチが少なくとも2回ありました。
1回目は将軍足利義輝が三好三人衆に暗殺されたときです。義輝はイエズス会を庇護して京都での布教を認めていたのですが、三好三人衆は布教を認めず、宣教師のフロイスを京都から追放してしまいました。
★ Wikipedia「足利義輝」記事
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このピンチを救ってくれたのは信長です。足利義昭を担いで上洛した信長はフロイスの帰京と布教を認めたのです。
2回目のピンチは荒木村重が信長に謀反を起こしたときです。信長は村重に味方した高山右近を寝返らせるためにイエズス会を利用したのです。高山右近は熱心なクリスチャンであり、イエズス会と最も親しい日本人の一人でした。イエズス会にとっては信長からの依頼は「脅迫」であり、もし右近説得に失敗すればキリスト教徒が迫害されイエズス会も追放されるという危機感を抱き、かなり追い詰められた状況に陥りました。
★ Wikipedia「荒木村重」記事
★ Wikipedia「高山右近」記事
このピンチはイエズス会の必死の説得が功を奏して右近の寝返りに成功し、村重の謀反が鎮圧されたことで回避できたのです。
このようにイエズス会は信長にすがって、その庇護の下にようやく布教を進めていたというのが本能寺の変当時の状況だったのです。イエズス会陰謀説は状況認識からして史実とはかけ離れたものといえます。
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