本能寺の変 「明智憲三郎的世界 天下布文!」

『本能寺の変 431年目の真実』著者の公式ブログです。
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本能寺の変:足利将軍黒幕説を斬る!

2010年01月26日 | 通説・俗説・虚説を斬る!
 信長に追放された足利義昭が光秀を唆して信長を討ったというのが足利将軍黒幕説です。この説は他の新説に比してはるかに「真面目」な説といえます。それはこの説を提唱されている方が日本中世史の学者であり、当時の政治状況や古文書に基づいて推理を展開しているからです。
 ここでは、この方の推理の反証の形で、5つの視点から見てみたいと思います。

 まず動機です。これは十二分にあります。足利義昭は元亀四年に信長に敗れて追放されても毛利氏の庇護の下に毛利領の鞆(とも)に幕府機能を維持し、十年間に渡って反信長の戦いを展開していました。その影響力がどれほどあったのかははっきりしませんが、この十年間に松永久秀謀反、荒木村重謀反、本願寺・一向一揆の戦いといった反信長戦争が行われていたことは確かです。当時、日本国中で最も信長殺しの動機のあった人物でしょう。
 ★ Wikipedia「足利義昭」記事
 ★ Wikipedia「松永久秀」記事
 ★ Wikipedia「荒木村重」記事
 ★ Wikipedia「一向一揆」記事
 ★ Wikipedia「(本願寺)顕如」

 それでは、光秀に動機があるのでしょうか。
 これが疑問です。光秀が足利幕府再興のために義昭に忠義を尽くさねばならない、という必然性が確認できません。この点は朝廷黒幕説と同様で、光秀が足利幕府再興のために信長を討ったとすると光秀は謀反人ではなく、足利将軍を追放した悪人・信長を討ったということで光秀ファンには魅力的なのですが。
 ★ 朝廷黒幕説を斬る!

 実は光秀は細川藤孝(ふじたか)に仕えていた中間(ちゅうげん)でした。細川藤孝は足利義輝・義昭の両将軍に仕えた側近中の側近です。義輝が暗殺された後、義昭を救出して将軍職を継承させようと苦労を重ねました。光秀は手薄な義昭の幕府(将軍職を継承するまでは正式な幕府ではない)の役人「足軽衆」に採用されました。
 その後、信長と上洛した義昭は将軍となり、その元で活躍した光秀は幕府の高官に出世します。
 このような話は今まで聞いたことのない光秀の前半生だと思います。『明智軍記』の書いた「明智城落城後に諸国を放浪して越前の朝倉義景に仕えた」という通説が研究家にも認められてきたからです。歴史研究界では「明智軍記は出鱈目の極致」と評価されているにもかかわらず、大変不思議な話です。詳しくお知りになりたい方は以下のページをご覧ください。
 ★ 光秀は朝倉義景に仕えていません!
 ★ 作られた明智光秀伝説を暴く
 ★ 作られた明智光秀伝説を暴く(続き)

 そして光秀は義昭に疎まれることがあり、懲戒解雇のような形で幕府を去ることになりました。その光秀を召抱えて救済したのが信長です。したがって、光秀は信長のことを大変感謝し恩義を感じていました。
 拙著『本能寺の変 四二七年目の真実』ではこのような話の裏付けを丁寧に書きましたので、疑問を持たれた方はお読みいただければと思います。
 ★ 『本能寺の変 四二七年目の真実』プレジデント社サイト

 こうして義昭の元を去った光秀。一方、細川藤孝はその1年半後に義昭から離れて信長に仕えます。義昭が追放される直前のことですので、藤孝は一応最後まで義昭に義理を立てたといえます。
 この二人の経歴を比べたら、光秀が義昭に義理立てするとは思えません。そして、もし、光秀が義昭のために信長を討ったとしたなら細川藤孝が加勢しないわけがないと思います。足利将軍黒幕説ではどうしてもこの点が疑問です。

(続く)

  

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