本能寺の変 「明智憲三郎的世界 天下布文!」

『本能寺の変 431年目の真実』著者の公式ブログです。
通説・俗説・虚説に惑わされない「真実」の世界を探究します。

明智憲三郎 妄想? 奇説?

2019年08月18日 | このブログのガイド
 拙著を読みもしないで妄想と批判している研究者がいます。
 >>> 徳川家康は黒幕ではない!
 >>> 最強の徳川家康黒幕説

 一方で、拙著『光秀からの遺言』をクッタクタになるまで読み込んだ読者は次のような評価を行っています。
光秀研究、読み比べ。光秀の前半生については、やっぱ『光秀からの遺言』が最先端かな。
 渡邊大門氏の新刊を『光秀からの遺言』と照らし合わせながら、かなり綿密に読んでます。光秀の前半生については、土岐明智系図の照合と収斂、前野丹後守宛の光秀書状写や饗庭三坊戦の年次比定の検証、連歌の素養や「光」の通字、仮名の「十」の繋がりなど、『遺言』のほうが圧倒的に高次の研究だと思います
信長と義昭両属の是非については、元亀2年9月比叡山焼討ちのあと志賀郡を与えられたことで信長の家臣になったとし、それ以前は幕府奉公衆として連署の順は最後、それ以降は新参の信長家臣として連署の順は最初、という『遺言』の説で、渡邊氏の言説もまとめられると思いました。
読み物としても、新刊のほうはやはり研究本って感じでとっつきにくく、『遺言』のほうが歴史捜査(研究)の前半と光秀の一生をストーリーで追う後半の二本立てにしたことで断然読みやすいです
『光秀からの遺言』が読み込み過ぎてクッタクタになりました
 光秀を土岐氏の流れの中で捉えるには『光秀からの遺言』のほうが適していると思います。読み物としても面白いですし。光秀の曾祖父と思われる明智玄宣という人物が今後注目を集めると思います。系図を読み解くキーパーソンですし、キャラ立ちハンパないです。


 どちらが歴史研究の発展に貢献しているかは明らかでしょう。

 私の手法は膨大な証拠(史料の記事)とそれを基にした推理(仮説検証)にあります。ですから、浅読みしかできない人には向きません。クッタクタになるぐらいに深く読み込める人に読んでいただきたいです。

 >>> 『光秀からの遺言』読者書評
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1.これは徳川家康黒幕説である。
2.よって、陰謀論である。
3.陰謀論だから妄想である。

 この三段論法には一見誤りがなさそうです。だから多くの人が鵜呑みにして騙されてしまいます。
 ところが、1段目の「これは徳川家康黒幕説である」が嘘だったら、どうなりますか?
もちろん、2段目以降につながらなくなります。つまり3段目の「妄想である」が嘘と言うことになります。

 拙著『完全版 本能寺の変 431年目の真実』河出書房新社に書いた内容を、このような3段論法で誹謗中傷している人がいます。そのフェイクに踊らされている人もたくさんいます。あなたは「踊らされる人」でよいですか?
 ご自分の目と頭で1段目の「これは徳川家康黒幕説である」が本当なのかどうか確かめてみてはいかがでしょうか?
 世の中には同様のフェイクが蔓延しています。それらに騙されないように生きていくための演習だと思って、取り組んでみてください。世の中の見方が、がらっと変わるのではないでしょうか? フェイクに対する鑑識眼が格段に磨かれます。

 >>> amazon「歴史戦と思想戦」(フェイクの手口を理解できます)


 >>> 呉座勇一氏の本


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河出文庫『完全版 本能寺の変 431年目の真実』発売記念 明智憲三郎氏インタビューでは、普段あまり触れない話題についてお話させていただきました。ご覧ください。
 >>> 河出文庫『完全版 本能寺の変 431年目の真実』発売記念 明智憲三郎氏インタビューのページ

 >>> 「明智光秀全史料年表」無料web公開中のページ


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 織田信長はサイコパスではありません。それどころか、高度な戦略・戦術家であり、彼の事績をきちんと調べれば、奇行とされることにも、すべて戦略・戦術上の理由があります。そのことは『織田信長 435年目の真実』幻冬舎をお読みいただければ理解できます。
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問 信長は中国(明)を攻めようとしていたのか?
 当時、日本に来ていたイエズス会宣教師の報告書にそう書かれています。「信長は毛利に勝利したら、一大艦隊を編成して明へ攻めこむ考えである」と。日本国内にはそう書いた史料が存在していないのですが、十年後に豊臣秀吉が唐入り(中国侵攻)の準備を始める際に、イエズス会に対して東シナ海を渡れる軍船とその操縦のできる航海士の提供を求めたことから考えると、信長の唐入りの意思がイエズス会のみに伝わったのも同じ理由からだと気付くでしょう。当時の日本にはそのような大型の軍船も航海士も存在しなかったのです。
 秀吉の唐入りの目的をイエズス会宣教師は「天下を統一して国内に新たな土地が無くなったので、家臣に与える土地を中国で確保するため」であるが、「これは表向きの目的で、本当の狙いは国内に置いておくと将来危険な人物を国外へ放逐するため」と分析しています。これは信長も同じだったでしょう。天下をとるような人物(天下人)は他人よりもはるかに先を読んで手を打っていたのです。
 イエズス会宣教師は秀吉の唐入りのニュースが伝わると日本中がパニックに陥ったと書いています。見も知らない国へ攻め込むのは死に行くようなものだと考え、きっと有力な武将が謀反を起こすとか、各地で謀反が起きるといった噂が乱れ飛んだとのことです。イエズス会宣教師が「謀反」という言葉を書いた事案はこれだけです。明智光秀が信長の唐入りを知ったら、どう考えたでしょう。当時の光秀の立場に立って考えてみてください。

問 信長はどうして家康を討とうとしたのか?
 戦国武将は自分の一族の生き残りを自分の責任として、その責任を果たすために最善を尽くして必死に生きていました。信長にとっては、その行きつく先が天下統一であり、唐入りだったのです。彼らが責任を負っていたのは自分一代のみのことではなく、子や孫や子孫代々への責任をも負っていました。
このことは先祖や子孫への感性が薄れた現代人にはピンと来ないことかもしれません。平家物語の描く悲劇は平清盛が自分一代で栄華を極めながら、自分の死後に一族滅亡をもたらしたことでした。琵琶法師の語る平家物語の悲劇を通じて、「平清盛の轍を踏むな!」が戦国武将の心に深く刻まれていました。
 そうならないように自分が生きている間に最善の手を打っておくことが天下人に求められていました。秦の始皇帝や豊臣秀吉は自分の死後に家臣によって子を殺されて天下を奪われました。彼らは明かに失敗したのです。
 一方、漢の国を建てた劉邦(高祖)は天下を取るとそれまで自分を支えてきた重臣を次々と殺して、四百年続く漢王朝の基礎を作り上げました。徳川家康も豊臣家を滅ぼして徳川の長期政権を築きました。彼らの所業は非情なものでしたが、天下人としては見事に成功したのです。
 このような武将の考え方を理解して歴史を見直すと、武将もずいぶん変わって見えてくると思います。父親の代から織田家と敵対し、祖父も父も信長の父の謀略で殺されたと考えている家康は何を考えたか、そのような家康を信長はどう見たか。彼らの立場に立って、考えてみてください。

 >>> 怨恨・野望・偶発説は完全フェイク
 >>> 隠蔽された謀反の動機


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