本能寺の変 「明智憲三郎的世界 天下布文!」

『本能寺の変 431年目の真実』著者の公式ブログです。
通説・俗説・虚説に惑わされない「真実」の世界を探究します。

光秀の末裔が冷徹に分析した歴史的大事件の新たな解釈

2014年09月26日 | 427年目からの挑戦
 「光秀の末裔が冷徹に分析した歴史的大事件の新たな解釈」というタイトルで2014年9月17日朝日新聞朝刊に以下の記事が掲載されました。

 著者は、明智光秀を父とする於づる丸(おづるまる)の末裔(まつえい)である。本能寺の変に縁のある著者が、徹底的に史料を調査した結果は、私たちが歴史の定説として理解した内容と大きく異なるものであった。先頃、本能寺の変の10日前に記された長宗我部元親から光秀重臣への書簡が発見され、話題を呼んだだけに、著者の新説に耳を傾ける価値は十分にある。著者が注目するのは、事件の現場に居合わせ、生き残った黒人の小姓・彌介(やすけ)の証言である。著者によれば、彌介が伝えた信長の言葉は「余は余自ら死を招いた」という内容であった。
 その本意を丹念に分析した著者は、これまで流布した本能寺の変に関する定説に異を唱える。怨恨(えんこん)説等の従来の解釈は、明治維新以降の国策抜きには成立しなかったと断言し、「歴史捜査」と名づけた独特の手法によって、驚くべき結論を導き出す。それに加えて、家康と秀吉の真の狙いがどこにあったのか、のちに千利休が秀吉に切腹を命ぜられた理由に至るまで、事件の背後に隠された真実をあぶり出す。その筆致は切れ味良く、あたかも一級のミステリーを読むような興味を覚える。

-------------------------
 『本能寺の変 431年目の真実』(文芸社文庫)
  発売9ヶ月で26万部突破!!

 
【文庫】 本能寺の変 431年目の真実
明智 憲三郎
文芸社

 >>> 「本能寺の変 431年目の真実」読者書評
 >>> 「本能寺の変の真実」決定版出版のお知らせ
 >>> 『本能寺の変 431年目の真実』プロローグ
 >>> 『本能寺の変 431年目の真実』目次
 >>> もはや本能寺の変に謎は存在しない!
 >>> 本能寺の変当日に発生した謎が解けるか
 >>> 愛宕百韻:桑田忠親・金子拓両博士の怪

コメント (2)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 中日文化センター【「本能寺... | トップ | 高校生にお勧めの「本能寺の... »
最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown ()
2015-08-20 15:36:52
彌助のところが興味深いです。新刊p145で「雲を突くような大男」とは雲では誇大な表現であるものの見上げたデカさは実感できます。体格の記述は、p145「日本人離れした体格」の言葉よりも、文庫p181の「格闘技チャンピオンのような体格」の方が、よりリアルに想像できる表現だと思いました。6尺2分の計測は、鴨居の高さが6尺(=1間)ぐらいで作られることが多いので(身長180の私は建物によってはぶつけることがある)、黒人の目や鼻のあたりが鴨居に隠れてしまって、それで家忠は身長を推測したのではないかと想像しました。茶をふるまう、とのことで室内に入ったわけですから。文庫p185に戦闘の最中に「刀を差出せ」というくだりは、これも想像するに、攻め手が黒人を見て討ち取ることよりも、興味津々で黒山の人だかりになって見てた、というシーンを想像してしまいました。
返信する
なるほど (明智憲三郎)
2015-08-21 14:58:44
 私も松平家忠がどうやってディジタルに6尺2分と計測できたのか気になっていましたので「なるほど」です。
 最後の彌介のシーンは、彌介自身は奮戦が続いて疲れ切って身動きができない状態だったのではないかと想像しています。
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

427年目からの挑戦」カテゴリの最新記事