あかない日記

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永田雅一と東京スタジアム

2020-12-20 | 人物忌


1974当時 (Web資料から)


現在 (googleから)

 

前回に次いで 
千住製絨所跡に触れる。

千住製絨所跡の説明文

「 この付近一帯には、
明治12年(1879)に創業された
官営の羊毛工場である
千住製絨所があった。

工場建設用地として強固な基盤を持ち、
水利がよいことから、
隅田川沿いの北豊島郡千住南組字西耕地
(現南千住6-38~40、45付近)が選定された。

敷地面積8,300余坪、
建坪1,769坪の広大なものであった。

明治21年(1888)に陸軍省管轄となり、
事業拡大とともに、
現荒川総合スポーツセンター
あたりまで敷地面積が拡張された。

構内には生産工場にとどまらず、
研究施設や福利施設などが整備され、
近代工場の中でも先進的なものであった。


戦後民間に払い下げられ、

昭和37年(1962)、敷地の一部は
野球場「東京スタジアム」となり、
人々に親しまれてきた。

一部残る煉瓦塀が往時を偲ばせる。
     荒川区教育委員会」

 

説明文にあるように
この跡地は プロ野球の
「東京スタジアム」に
利用されていた時期があった。

東京スタジアムは
千葉ロッテマリーンズの前身にあたる
毎日大映は 当時後楽園球場を
レンタルして本拠地としいたが 
オーナーだった
永田雅一(1906-1985)は
私財を投じて 
自前の本拠地球場の建設を

この南千住の大和毛織工場跡地に決定した。

建設工事は
1961(昭和36)年7月に着工し

わずか 1年足らずの翌年の5月31日に竣工し
「東京スタジアム」と命名される。

球場は 後楽園球場より明るい照明が
設置され「光の球場」とも呼ばれ

二層式のスタンドやスロープを備え
3万5千人収容の斬新的な球場であった。

施設の運営管理は
かつてオリオンズの
オーナー企業だった
大映の
関連子会社である
㈱東京スタジアムが行っていた。

しかし 成績も
7年連続 Bクラスと低迷し 
観客動員が年々減少し
その経営は 破綻し
1972(昭和47)年限りで 閉鎖され
1977(昭和52)年に解体された。

ただ この球場の
ハイライトシーンがあった。

1970(昭和45)年10月7日
ロッテ・オリオンズが
10年ぶり リーグ優勝を
この球場で遂げた。


その優勝の瞬間 
グランドになだれ込んだファンは
濃人監督(1915-90)や選手より先に

永田オーナーを胴上げしていた。


現在の跡地は
大半が荒川区の管理する
「荒川総合スポーツセンター」
となっており 体育館や
軟式野球場などがある。
一部は 南千住警察署

都民住宅の敷地となっている。