若い頃に所謂住民運動に関わったことがあります。
正義感に燃えていたとも言えますし、少なくともその時点で学問より運動に関わる事のほうが大切だと感じたのです(学問に燃えれば良いのに)。
住民にとっては自分の住んでいるところで起こることですから生活がかかっているから真剣です。
私の場合もそこに住んでは居るけれど、学生と言う根っこが薄弱な感じで、そこに一寸違いが有りました。
住民にとっては直面している問題が大事ですから、そのことに取り組んでいくうちに問題の本質が見えてくる・・・抽象化といいましょうか・・・そういう事が起きます。
学生の場合は、問題の本質らしきものを頭でイメージして、現実の問題に敷衍していくようなところがあります・・・まあそういう事が分かっただけでも勉強ではあります。
いずれにしても問題の中心になったのは「安全性」の問題。
実は何気なく「安全性」と言ってしまいますが、これがトリックみたいなものなんです。
何かを進めようとする人は「やる・何かを作る」事が大命題ですから問題を安全性にすり替えます。
一方住民にとっては安全は確率ではなくて、安全でなければ危険なもの
したがって答えはイエスかノーしかなくて、安全は0か100しかないのです。
ですから「安全性」と言う表現になった瞬間、問題は条件になります・・・どういう条件なら我慢できるかです。
こういう構図は、私が経験してからだけでも40年は経っているのに全く変わらないですね。
それに日本人は「公共性」という切り札に弱いし。
さて囲碁で安全性をイメージしてしまう格言があります。
格言の中でも恐らくベストテンに入ると思われる「1間飛びに悪手無し」
碁を憶えたての頃、高川先生の棋譜を例に、1間飛びがいかに良い手か説明されたものです。
軽い、簡明、筋が良い、スマート・・・そして切れない
しかし、どんな格言にも100%正しいと言うものは無いですよね。
確かに良い点は多いものの、過度の宣伝になっている可能性も・・・
手を考える時の優先順位は高いでしょうが絶対ではないでしょう?
問題は「悪手無し」という事が仮に正しくても、悪手でなければ「好手」とは言えないはず・・・つまり「悪手無し」=あたかも好手みたいなイメージが無いだろうか?。
あるいは数歩譲っても「普通の手」のこともある。
「普通」も微妙な表現ですね・・・今時の若い子が「フツー」といえば「可も無く不可も無し」よりはもう少し低い評価でしょう。
普通=陳腐、つまらない、飽き気味
昔の白黒映画の時代の普通=かけがえの無い大事なものと言う感覚では無さそう
例によって何か話しながら喋るクセのあるY氏
「ほう、つけて来ましたね、ではツケにはハネよ」
「オッ 先生もハネには伸びよときましたね、先生も格言どおりですね」・・・こんな調子が延々続く。
しかも1オクターブ高い声ですから、周りからも「うるさいジイサマ」と言われながらも、本人は全く気にする様子が無いのだから案外強い性格か打たれ強い。
私にとってもこの1オクターブと言うのは大変な音波武器です。
さてYさんは中央に向かって1間飛びを打つような時は「1間飛びに悪手無し」と言いながら打つのです。
私にしてみればここまでに『うるさい』と感じていますから、すかさず『1間飛びも時による』とまぜっかえす。
するとYさん「エーッ?先生がそんなことを言って良いの?家の本にもはっきり書いてありますよ」
本に書いてあるのは誰でも知っているわけで、ここで負けるわけにはいかない
「そう、安い本にはきっと書いてあります、しかし高い本には”時による”と書いてある」
盤上の戦いそっちのけで舌の戦いです。
もしかしたら番外の舌戦に神経が引きずられているかも知れないから、それも相手の狙いに嵌っているのかもしれない。
こんなところに変に負けず嫌いな性格が出てしまうのですが・・・「1間飛び」には打つ人に安心感を与えてしまうところがあるらしいから、仮にコウ含みで1間の弱点を狙うとか、あるいは安心感から不安感に暗転させる急所の一手は無いものか・・・要するに臍曲がり根性悪作戦です。
ともかくそこが私の碁の本質?
ともかく100%ではないぞと言いたくて躍起になってまるで落語の主人公
ザルだからこそ楽しいと言う世界でもあります。
となるとこういうことを楽しみながら強くなりたいと言うのは大きな矛盾ですから、結論としては「強くなってはいけない」と言うことになる。
「なりたくてもなれない」のだから絶好の言い訳です。
正義感に燃えていたとも言えますし、少なくともその時点で学問より運動に関わる事のほうが大切だと感じたのです(学問に燃えれば良いのに)。
住民にとっては自分の住んでいるところで起こることですから生活がかかっているから真剣です。
私の場合もそこに住んでは居るけれど、学生と言う根っこが薄弱な感じで、そこに一寸違いが有りました。
住民にとっては直面している問題が大事ですから、そのことに取り組んでいくうちに問題の本質が見えてくる・・・抽象化といいましょうか・・・そういう事が起きます。
学生の場合は、問題の本質らしきものを頭でイメージして、現実の問題に敷衍していくようなところがあります・・・まあそういう事が分かっただけでも勉強ではあります。
いずれにしても問題の中心になったのは「安全性」の問題。
実は何気なく「安全性」と言ってしまいますが、これがトリックみたいなものなんです。
何かを進めようとする人は「やる・何かを作る」事が大命題ですから問題を安全性にすり替えます。
一方住民にとっては安全は確率ではなくて、安全でなければ危険なもの
したがって答えはイエスかノーしかなくて、安全は0か100しかないのです。
ですから「安全性」と言う表現になった瞬間、問題は条件になります・・・どういう条件なら我慢できるかです。
こういう構図は、私が経験してからだけでも40年は経っているのに全く変わらないですね。
それに日本人は「公共性」という切り札に弱いし。
さて囲碁で安全性をイメージしてしまう格言があります。
格言の中でも恐らくベストテンに入ると思われる「1間飛びに悪手無し」
碁を憶えたての頃、高川先生の棋譜を例に、1間飛びがいかに良い手か説明されたものです。
軽い、簡明、筋が良い、スマート・・・そして切れない
しかし、どんな格言にも100%正しいと言うものは無いですよね。
確かに良い点は多いものの、過度の宣伝になっている可能性も・・・
手を考える時の優先順位は高いでしょうが絶対ではないでしょう?
問題は「悪手無し」という事が仮に正しくても、悪手でなければ「好手」とは言えないはず・・・つまり「悪手無し」=あたかも好手みたいなイメージが無いだろうか?。
あるいは数歩譲っても「普通の手」のこともある。
「普通」も微妙な表現ですね・・・今時の若い子が「フツー」といえば「可も無く不可も無し」よりはもう少し低い評価でしょう。
普通=陳腐、つまらない、飽き気味
昔の白黒映画の時代の普通=かけがえの無い大事なものと言う感覚では無さそう
例によって何か話しながら喋るクセのあるY氏
「ほう、つけて来ましたね、ではツケにはハネよ」
「オッ 先生もハネには伸びよときましたね、先生も格言どおりですね」・・・こんな調子が延々続く。
しかも1オクターブ高い声ですから、周りからも「うるさいジイサマ」と言われながらも、本人は全く気にする様子が無いのだから案外強い性格か打たれ強い。
私にとってもこの1オクターブと言うのは大変な音波武器です。
さてYさんは中央に向かって1間飛びを打つような時は「1間飛びに悪手無し」と言いながら打つのです。
私にしてみればここまでに『うるさい』と感じていますから、すかさず『1間飛びも時による』とまぜっかえす。
するとYさん「エーッ?先生がそんなことを言って良いの?家の本にもはっきり書いてありますよ」
本に書いてあるのは誰でも知っているわけで、ここで負けるわけにはいかない
「そう、安い本にはきっと書いてあります、しかし高い本には”時による”と書いてある」
盤上の戦いそっちのけで舌の戦いです。
もしかしたら番外の舌戦に神経が引きずられているかも知れないから、それも相手の狙いに嵌っているのかもしれない。
こんなところに変に負けず嫌いな性格が出てしまうのですが・・・「1間飛び」には打つ人に安心感を与えてしまうところがあるらしいから、仮にコウ含みで1間の弱点を狙うとか、あるいは安心感から不安感に暗転させる急所の一手は無いものか・・・要するに臍曲がり根性悪作戦です。
ともかくそこが私の碁の本質?
ともかく100%ではないぞと言いたくて躍起になってまるで落語の主人公
ザルだからこそ楽しいと言う世界でもあります。
となるとこういうことを楽しみながら強くなりたいと言うのは大きな矛盾ですから、結論としては「強くなってはいけない」と言うことになる。
「なりたくてもなれない」のだから絶好の言い訳です。
でも心のうちは少し複雑で『こういう平凡な手で好いのかな?』とか『甘すぎないかしら』『これでは受身的で、相手にとっても何のプレッシャーも無いのではないか?』などなど考えながら打つわけです。
更に『当方が1間に打つことを想定して相手はその上を行く手を用意しているのでは?』など疑心暗鬼に陥ることもあります。
自分についてコレですから相手に「悪手無し」と自信に満ちた宣言をされると、相手の鼻をへし折りたいと言う意地悪な誘惑と、「100%の真理は無い」という天邪鬼な心が起き出します。
少し的外れかもしれませんが、昔の朝ドラ「二人っ子」で真剣師が弟子を叱った「良い手を指そうと思うな、相手が恐がる手を指せ」と言う言葉が好きで、こういう場面で頭の中を過ぎったりします。