なんとなく囲碁夜話

私は囲碁が好きだ。初めはなんとなく、ニアミスを繰り返し、深みに嵌ってしまった。

三つ子の魂 Ⅱ

2007-01-08 02:30:18 | Weblog
 先日、勝手に図書館デーでお話したように「淡路語録」を借りてきて、面白いところにぶつかったので私の色眼鏡的偏見流でお話ししたいと思います。
(これは去年の12月28日の記事の続きでもありますが・・・間が大分開いてしまいました)
  もっともたいした話でもない・・・と少々弱気で
 当たり前に近いことでしょうし、私が今更気がつくのが遅いでしょうね
第1章の中の4つのキーワード、「大場は暇があったら打て」の中で
 「碁は石と石との生存競争である」と教わった人と、
 「碁は地取りゲームである」と言われてきた来た人ではおのずと碁の考え方が違うらしいと書かれていました。
 私はこういう言葉に妙に感心してしまうところがありまして、なるほどと思った訳です。
 確かに高段者と呼ばれる方たちより下のランクあたりでは、大きく分ければこういう二つの色合いがあるかも知れません。
  知っている顔を思い浮かべてあの人はあっちかなとか・・・
 淡路塾では徹底して前者の態度を採って来たという話です。
  そういえば武宮先生の子供時代もそれに近かったとか聞いたことがあります。
 プロの先生に異論を唱える気はありませんが、私はこれは善悪という色分けでは無くて、優先順位的なものかなと受け止めています。
  私も碁での後輩の人たちの碁を見て、「ここで戦わなくてどこで戦う!」などともどかしい思いで観戦することがママあるので、そういうときは淡路先生のご意見と全く同じです。
  でも戦ってはいけない時もある・・・これを見極められるのも進歩なんでしょうね。
 だから素人の発展途上人ではなかなか難しいことではあるので、まずは積極的な態度で打つことを勧めたいということです。
 その方が進化?が早いようですね・・・地取り優先の堅実型は進み具合が遅いということですか(発展途上の話です)。
  但し、結局進歩の先は積極・堅実のバランスでしょうから、同じところへ行くのでしょうが、方向は同じでも堅実型の船は大海原で凪にあったように前に進んでいかないようなイメージもある。
  積極策の方が失敗も沈没もあるけれど、それも糧にすれば進歩が早いと言うことでしょう。
 昨日の三つ子の魂の話に関連して、初心者時代に先輩やその時の先生から教えられたことは相当な影響力があるらしい
  それが実際の幼少期ということでなく、習い事としての幼少期であってもそうではないだろうか。
  それでは初めに間違った教え方をされたらどうなるのだろうか?
 善悪など判断できない時期に教えられるのだから、それがバイブルな訳です。
それを考えるとおいそれと口を出しにくい・・・
  するとこういう話を撒き散らすのも考え物か?
 いや誰も初めから教科書的に読む人はいないから大丈夫だろうし
    自分のことは棚に上げるしかない、さもないと前に進みません。
 さて、先生や先輩から教わるとなるとそういう影響を受けているはず。
それでは私みたいな、先生のいない憶え方ではどうなんだろう?
  刊行物を頼りに憶えたようなものです・・・が、だからといって正しいものだけを身につけたのでは無いだろうと、自分を見れば分かります。
 分かっていてできないのもつらいですね・・・”できない”ということはわかっていない証拠でもありますが。
  総合すると実際の3才かどうかではなくて、初心者の時期に正しく指導していく人が重要です。
 私もお師匠さんの棋風を受けて、超積極的な碁である程度は進歩したと思うのですが、やはり壁というか頭打ちの時期があったと思います。
 そこを乗り越えた(自分ではそう思っている)「キーワード」の一つは「淡路語録」にも出てきましたが「守るべきところは守る」だったと考えています。
 攻め一本槍の棋風ではある程度までは行きますが壁があるのです。
  但し、この攻めの力も無いとそこの壁まで来れないかも知れませんから、これも大事ではあります。
  結局は守るべきところはきっちり守ってこそ攻めがきついのですね。
 この辺のバランスが悪いと、景気がいいときはいいけれど、バブルが弾けたら大変という碁になるのでしょう。
   自分の記憶では、華々しく戦う棋風から、守り優先の地味な棋風にイメチェンしたような(ザルレベルではありますが)気がしています。
  その地味な中に堅実だけではなくて”渋さ”というか”いぶし銀”と言うか、上手くいえませんが”芯”みたいなものを感じたような・・・
 と、自分では多少悟ったつもりではあるのですが、観戦が10いたら9人は私の碁は退屈するらしいのです。
 確かに目を見張るような鮮やかさとは無縁な感じで自分でもそう思います。
  蝶のように舞い蜂のように刺す・・・ということは無い。
   たしかに特に序盤など、相手にいろいろ仕掛けていくみたいな見物人を唸らせるようなところは無いのです。
 ただ、相手のミスらしいところはつけ込んでいく!・・・嫌らしい碁?
だから見物人は私が勝つのではなくて、相手が負けているだけだと思うらしい。
 (勿論私が負けるのも半分はあります)
 そう私が負けるのは、私が弱くて相手が強い・相手の鮮やかな技が決まった時
  >>>人間ができていないので、褒められると嬉しいし評価されないと寂しいのですが、こういう打ち方は大方の人は評価をしてくれません。
 今まで下手の人でたった一人だけ
 「その打ち方で遅れないで打てるのが不思議」といってくれたのが私の心の中の勲章でしょうか。
 勝手に心に刻んでいます。