セカンドライフ 

歳を重ねるのも悪くはない

長野・大鹿村 の山塩 ⑦

2013-06-16 | 旅行 見学
旅舎 右馬允ウマジョウさんの次男君には散々な一日にさせてしまったけれど、女二人旅は思いもかけない旅を進行させて頂いている。
彼とは、初対面なのに、会話の中でも楽しい時間を過ごした。私がお喋り好きって言うのも有るけれど人間同士何かしらのご縁が有るものだと驚いた。

以前、時々ランチを食べに言っていたフレンチのお店「パリの朝市」という、しゃれたお店が有る。ランチは¥2000位で軽いフルコースが頂ける。ケーキもコーヒーも残さず頂く程大好きだった。ところが、なんと長男君も次男君も「パリの朝市」で修行をされたのだと言う。え―――っ飛び上がりそうになった。
次男君は6年近く修行をして退職願を出した所、社長から引き止められたと言う。それだけで次男君の私達に対する姿勢に大納得してしまった。社長さんも宝を失くした様に残念だった事でしょう。

「この山の中に塩が生産出来るなんて思わないでしょ?」「勿論勿論、だって意味じゃないものね」なんて会話を交わしながら・・・・実は有ったのです。
「欲しいワ」と言うと、販売所が有るから寄ってみましょうと行くと「この村では一人しか製造者が居ないのですが、足を悪くして今在庫も無いのです。もう一軒の販売初にも聞いてみます」と言って下さったのにそこも無いと言う事で、一寸がっくりした。山の塩なんてそれこそ幻ね。

勿論無い物は手に入らない、と諦めた。夕食の時に宿のご主人が「何?塩が無いって?じゃちょっと待て」と、どこかに電話して下さった。明日、何か(取材?イベント?)で使う塩が少し手元に有るって。明日の9時迄に届けてくれるから。何と次男君から伝わっていたのだ。そんな嬉しい事が。優しい皆さんに囲まれて幸せな事この上ない。
今夜の客は私達二人だけ。   50g/袋
翌朝9時には¥500/袋、2袋のお塩は届いた。ご主人のこの村での立場が想像できる。

         
                
                                   (写真は借り物です)
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長野県大鹿村。人々が日本列島の原風景と呼べるものと出会う所。そこは長野県のみならず、日本を代表する風景として、季節ごとに表情を豊にかえる、世界に誇れる村。大自然の真ん中にある大鹿村の季節の旬の魅力を伝える。由緒正しき「山塩(ヤマジオ」の事。

なぜ神秘の塩といわれるのか、塩水の温泉は大鹿村の歴史とは切り離せない。その理由が「山塩(やまじお)」。村の北側に位置する鹿塩(カシオ)地区は、地名の通り鹿のいる里、塩の湧く里を意味する。太古の昔、信濃の国を開拓した建御名方命(たてみなかたのみこと)が狩りをしたとき、鹿など動物が集まる水場を調べると、そこは「塩泉(しおせん)」であったと、伝えられている。

大鹿村は、海から遠く離れた標高750mの山の上。ここで取られる山塩は、粗塩でミネラル分が多く含まれ、塩辛さがきつくなく、ほんのり甘い感じすらする。なぜ村に塩水が湧き出るのか…、実は、今だにその理由は解明していない。つまり神秘の塩なのだ。

時を越える大鹿の塩
歴史をひも解くと、西暦800年代にまで遡る。当時、上下諏訪社の領地として管理され、塩を産出するこの地には、多くの牧場が作られ、貴重な塩分が与えられた良馬が育ち、諏訪社の祭りや農耕に重宝されていたと伝えられていた。草食動物は、尿と一緒にカリウムと多量のナトリウムが出ていくため、補うためにどうしても「塩」が必要になる。

南北朝地時代になると、後醍醐天皇の第八皇子「宗良(むねなが)親王」が大鹿村に住み、親王を護衛する城が作られた。その中のひとつ、「駿木(するぎ)城」では、護衛と同時に、この塩を守ることも重要な任務だった。この駿木城の遺跡からは、塩を作っていた製塩の様子を伝えるものも見つかっている。

江戸時代になると、塩を「塩壷(しおつぼ)」で製塩するようになる。塩は、庶民にとっても不可欠な存在であり、貴重な塩分は煮物や漬物、味噌や醤油の製造に必要なものとして定着していた。

明治時代では、明治8年に旧徳島藩士である黒部鉄次郎という人物を中心に岩塩を見つけようと大きな夢を抱いた人々が鹿塩地区へやって来た。後に「白い鉱山師(やまし)」と呼ばれる彼らは、塩水を煮詰めるなどの製塩事業をしながら、山を掘り岩塩発見に執念を燃やすが、結局発見でき無かった。

しかし、その熱意は地域にも伝わり、大鹿村へ大きな影響を与えた。明治31年に起きた災害により塩製施設が壊れますが、後継者となった平瀬理太郎(湯元山塩館主)などの協力により施設を再建し、明治33年には、大正天皇のご成婚に際して真っ白く輝く山塩を献上した。

その後、明治41年、当時の文部省・大蔵省・農商務省の合同調査が行なわれ、岩塩の存在が認められない、という報告が提出された。また、明治43年には塩業改正により製塩事業の禁止という方針が決められた。

現在では、平成9年に新たな塩事業法が施行され、製造方法によって届出等を行い許可が下りると製造・販売ができるようになった。

貴重で特別な神秘の塩。現在の製造者は湯元山塩館の4代目。大鹿観光協会会長の平瀬長安(ひらせながやす)さん。

「ここ鹿塩温泉は、海水とほぼ同じ塩分を含んでいます。特徴は、肌触りが滑らかで、保温効果が高いこと」と教えてくれました。そして塩作りには「源泉地下11メートルからくみ上げています。ステンレス製の薪釜で、1日半ほどゆっくり煮詰めていきます。温度が上がり過ぎないように気を配ります」と。手作りなので、作れる量は、100ℓの塩泉から30g程。「極めの細かな、塩は真っ白。ミネラル分が豊富な塩は、口当たりのやわらかい上品な仕上がりになり、焼き物やお料理、てんぷらなどをつけて食べると、味をグッと引き立てます」笑顔で教えてくれた。

山深いアルプスの麓に、なぜ海水のような塩泉が湧くのか、謎に包まれている。
                                  (観光協会文抜粋)

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